第35話 

 私はどうやら、森へ行ってから丸三日近く眠っていたらしい。あの後、カミラが運んできてくれたスープを飲み干してようやく一息ついたところだ。


「カミラはもう、体調は良いの?」


「はい、一日休ませていただいたので、すっかり元気です。エナ様は、ご自分の御身体を心配なさってください」


「……ありがとう、カミラ」


 兄のお陰で怪我は全て治っているようだったが、体力が回復していない。まだ動き回るには無理があった。


 冷静になると気になることは山とある。あの森で感じた気持ち悪さの正体は何だったのか、あの蝶は私をどこへ導いていたのか、そして何より気になるのは、なぜリヒトさんが森にいる私のことを見つけられたのかということだ。


 それだけリヒトさんは素晴らしい魔術師だということなのだろうか。理由はよくわからないが、結果的に彼のお陰で助かったのは確かなので、次に会ったときにはきちんとお礼をしようと思う。

 

 そんなとき、気を見計らったかのように隣の部屋のドアがノックされる。私が普段食事を摂ったり人と会ったりする際に使っている部屋のドアだった。カミラは私に礼をすると、寝室を後にする。


 一人になった私は、まだ気怠い体をいたわるようにベッドに横になった。だが、すぐにカミラが寝室へ舞い戻ってくる。その表情はどこか嬉しそうだ。


「エナ様、リヒト様がお見舞いをされたいそうです。お会いになりますか?」


 正に、噂をすればなんとやらだ。特に断る理由もないが、リヒトさんと会うには相応しくない薄手のワンピース姿であることだけが気が引けた。しかし、カミラはそんな私の心情を察したように、刺繍の施されたストールを羽織らせてくれる。ついでに手早く髪も梳かし、横に流すように纏められた。


「ありがとう、カミラ。お通ししてくれる?」


「はい。では、わたくしは隣の部屋に控えておりますね。何かあればお呼びください」


 カミラは、恋人同士のような私たちに気を使ってくれているのだろう。まだ正式に婚約をした中でもないのに二人きりになるのは如何なものかと思うが、カミラは弱っている私には甘いらしい。リヒトさんも乱暴なことをする人ではないとよくわかったうえでの判断なのだろう。ありがたく、彼女の気遣いに甘えることにした。


 カミラと入れ替わるように寝室に入ってきたのは、今日も眩しいほどの端整な微笑みを湛えるリヒトさんだった。そしてその綺麗すぎる笑みに、反射的に安心してしまう私がいることもまた事実だった。


「調子はいかがですか、エナ様」


「だいぶ……。まだ、少し気怠いのですけれど……」

 

 リヒトさんは微笑みを崩さぬまま、ベッドサイドに用意された椅子の傍に近寄り、私に許可を取ってから座る。相変わらず、今日もお手本のような紳士だ。


「あの、リヒトさん……。私を、森の中から救い出してくださったと伺いました。あのままでは私、きっと命を落としていたでしょう。本当にありがとうございます」


「愛するエナ様のためですから、あのくらい当然ですよ」


 今日も糖分過多な言葉ばかり紡ぐ彼に、赤面を隠せない。私はすっかり、彼に毒されているようだ。この甘さに溺れるのが、心地よくて仕方がない。


「私の居場所を見つけてくださるなんて……リヒトさんは本当に優秀な魔術師さんなんですね」


「まあ、魔法はかけておきましたから、あのくらいは当然です」


「……魔法?」


 リヒトさんは端整な笑みを崩さぬまま、そっと私の前髪を掻き上げ、額に触れた。それは、いつか書斎で私に口付けした箇所だった。


「……あそこまで辿り着いてしまうなんて、僕が甘かったんですかね。あなたの魔力の大きさを侮っていたようだ」


「……どういう、ことでしょうか?」


 リヒトさんの離すことの意味が分からず、苦笑いのような曖昧な表情になってしまう。対して彼は変わらず微笑んだままだ。


「エナ様が結界の外に出た際には、エナ様の魔力を制限するように魔法をかけておいたのですよ。万が一、魔女のもとにでも辿り着かれたら敵いませんからね。加えて、あなたの居場所がわかるよう探知魔法もかけておいたので、簡単に見つけられたんです」


 あくまで穏やかな調子で紡がれるその説明に、僅かに脈が速くなる。さらりと言ってのけるが、それが本当なら私が城を出たときから異変に気付いていたということではないのか。


「そんなことより、今回の騒動に関わった者たちの処分について決めねばなりません」


「……処分?」


 不穏な響きのその言葉に、脈は早まる一方だ。辛うじて苦笑いのような表情を保ってはいるが、それももう限界に近い。


「はい、処分です。今回の騒動にまつわる一連の決定権を、陛下から賜りましたので、僭越ながら僕が決定いたします。エナ様には、そのご報告を、と思いまして」


「お待ちください……。処分とは……誰を対象にしたものです? 私ですか?」


「尊い身の上であるエナ様に、どうしてそんなことが出来ましょうか」


「では、一体だれを……?」


 リヒトさんは空色の瞳で私を捉えると、再びふっと微笑んだ。だが、いつもの笑みではない。その空色の瞳は笑うことなく、冷たささえ感じる鋭さで私を見ていた。


「そうですね……。まずは、あの日、エナ様のお世話をしていたあのメイド……彼女は公開処刑が妥当でしょうね」


「……処刑?」


「はい、王国の伝統に乗っ取り、王都の広間で斬首刑にします」


「え……?」


 聞き間違いかと思った。それほどにリヒトさんの表情は穏やかで、そんな残酷な言葉を紡ぎだすようには見えなかったからだ。


「それから、あの日エナ様に質の悪い飲み物を提供したあの店主と、不躾にもエナ様を荷馬車の荷台に乗せた商人も処刑しましょう。エナ様に軽々しく話しかけた街の者たちは……終身刑でいいでしょうか」


「ま、待ってください! リヒトさん」


 嫌な汗が首筋を伝う。まるで全力疾走した後のように、心臓は早鐘を打っていた。そんな私が発する声はいつになく差し迫るものがあり、自分でも驚いたが、リヒトさんは眉一つ動かさずに続ける。


「ああ、エナ様お気に入りのあのカミラとかいうメイドにも処分を下しましょうか。あろうことか体調を崩し、主の傍を離れていた責は大きい。……そうですね、彼女の家の爵位返上くらいでいいでしょうかね」


「待って……待ってください」


 私は殆ど泣き出しそうだった。現に目尻に熱い涙が溜まっている。


「森に住むという魔女も、今後エナ様が誑かされることのないように、ちゃんと殺しましょうね。結界の外でおとなしくしているうちは見逃すつもりでいたのに残念です。すぐに魔女討伐部隊を向かわせます」


「お願いっ! やめてくださいっ!」


 殆ど叫び声のようなその声は、予想以上に大きく響いた。きっと、隣に部屋に控えるカミラにも聞こえてしまっただろう。ここに来てリヒトさんもようやく口を噤む。


「……何を、やめろと仰るのです?」


「罪のない人たちを処分するなんて、あんまりです! 彼らは何も悪いことなんてしていない。それどころか、私に親切にしてくださった方たちばかりです!」


「しかし、あなたが仕出かしたことの罪深さを分かって頂くには、これでも足りないくらいかと思ったのですが……」


「私の罪……? 囚われている城から逃げ出すことのどこが罪だというのですか?」


「ほら、やはり分かっていらっしゃらない。今回のあなたの行動が、どれだけ僕の心を乱したか、あなたはほんの少しも知らないのでしょうね」


 リヒトさんは、いたって平静だった。ここに来て、私は彼の歪みに初めて気づく。私の知っているリヒトさんは、こんな残酷な人だっただろうか。


 その瞬間、慎まし気なノックの音が響く。ドア越しに、聞き慣れたカミラの声が聞こえてきた。


「お話し中失礼いたします。エナ様に、何かございましたでしょうか……?」


 先ほどの、殆ど叫ぶような私の声に気づいてくれたのだ。今すぐにでも、彼女の飛び込んできてもらいたい衝動に駆られる。


「……お友だちとお話がしたければ、僕はこれにて失礼しますよ。エナ様の無事なお顔も見られたことですしね」


 そう言って椅子から立ち上がるリヒトさんは意味ありげに笑んでいた。駄目だ。このままリヒトさんを行かせてしまったら、きっと先ほど彼が言ったとおりの処分が罪のない人々に課せられる。それだけは、絶対に避けなければ。


 私は立ち退こうとするリヒトさんの手を掴み、そのままドア越しのカミラに向かってゆっくりと告げる。


「なんでもないのよ。リヒトさんが冗談であんまり怖いお話をされるものだから、驚いてしまっただけ」


 大体嘘は言っていない。それでもこんな言い訳をつらつらと言ってのけた時分には多少驚いていた。この世界で暮らすうちに、自分を偽ることにも慣れてきたらしい。


 私の声がいつも通りであることに安心したのか、カミラは「それは大変失礼いたしました」と言うなりすぐに去って行った。きっと、恋人同士のじゃれ合い位に思っているのだろう。小さく笑うカミラの顔が目に浮かぶようだ。


「お友だちより僕を選んでくれるとは嬉しいですね」


「……このまま行ってしまったら、あなたは何をするか分からないもの」


「随分な言いようですね。僕は当然の沙汰を下そうとしているだけなのに」


 無関係に近い三人を斬首し、カミラの家を取り潰し、罪なき魔女を殺そうとすることのどこが当然だというのか。私は、今までずっとリヒトさんの本質を見抜けていなかったらしい。ただ、上辺だけの、愛を囁く甘い部分だけを享受してきたせいだろう。もっと、疑ってかかるべきだった。


 でも、こんなにも残酷な人なのに、嫌いになるには私は溺れすぎている。巧妙な罠にはまった気分だった。


「……リヒトさんが怒っていらっしゃるのは、よくわかりました。全て、私の浅はかな行動が招いた事態です。悪いのは私ですから、どうか私以外の誰も罰さないでください!」


 なるべく冷静に、頼み込んでみる。何分、リヒトさんという人間の本質が掴み切れていないだけに、何をすれば許してくれるのか分からないのだ。なるべく無難で非のない謝罪を選んだが、彼は受け入れてくれるだろうか。


「……では、もう二度と僕から逃げないと誓いますか?」


 リヒトさんは繋いでいた私の手を辿るようにして、ベッドサイドに腰かけた。軽く腕を引き寄せられ、二人の距離が縮まる。


「それは……」


 別に、リヒトさんから逃げたかったわけじゃないのだ。ただ、元の世界に戻る方法が知りたかっただけで。彼に別れも告げずに姿を消そうとは思っていなかった。


「誓えないのならいいんですよ、別に。今すぐ婚約にこぎつけて、あなたを公爵家に幽閉したって」


 リヒトさんは相変わらず微笑んでいたが、その目が本気なのだと語っている。普段は見惚れてしまうほど美しい空色の瞳には、確かな翳りがあった。油断をすれば、その瞳の翳りにすら魅せられそうだ。


 リヒトさんから逃げない。それは元の世界に帰ることを諦めるのと同義だ。いや、そもそも兄に城を出られないよう言いつけられた時点で状況はさして変わらないのだが。


 カミラに巻いてもらったストールがはらりとベッドに落ちる。薄手のワンピース姿が晒され、普段なら年頃の娘らしく恥じらうところだが、そんな余裕はもはや残されていなかった。


 リヒトさんは選択肢を与えてくれているような言い方をしたが、どちらを選んでも結果は似たようなものだ。ただ、私の意思でリヒトさんの傍にいることを選べば、幽閉には至らないというだけで。


 ああ、どうして私の周りには、歪みばかりが集まるのだろう。自嘲気味な笑みが零れる。もう、どう足掻いたって無駄じゃないか。


「……誓い、ます。リヒトさんから逃げないと誓いますからっ……。お願い、他の人たちは許してくださいっ」


 微笑みながらも、一粒の涙が零れ落ちた。別にリヒトさんの傍にいることは嫌ではない。むしろ私だって望んで傍にいたいくらいなのに、彼が半ば脅迫まがいのこんな手段を取ることでしか安心できないことが、ただただ悲しかった。

 

「約束は、守ってくださいね。僕もちゃんと守りますから」


 リヒトさんは、今日一番の端整な笑みを見せると、私の腕を引き寄せ、そのまま頬に口付けた。余裕のない私は、抵抗することも恥ずかしがることもできなかった。普段は舞い上がるほど嬉しいはずの感触なのに、今日はただ空しいだけだ。


 そのままぎゅっと抱きしめられるも、今日ばかりはその背中に腕を回す気にはなれなかった。だが、リヒトさんはそんな私とは対照的にいつになく嬉しそうで、違和感を抱く。その笑みにはどこか満足感が垣間見えた。


 その笑みを見て、ふっと気付く。彼が、私に探知魔法をかけていたのに、私が城から出ていくことを止めなかった、その理由に。


「――……リヒトさんは、こうなると分かっていて、私を泳がせていたんですか……?」


 まさか、そんなはずない。彼が私を罠にかけるような真似をするなんて思いたくない。早く、否定してほしかった。こうなったのは想定外なのだと。


「エナ様は本当に聡明なお方ですね。そんなに優秀な頭脳を持っていらっしゃるのに、こうなるしかなかった。……それが本当にいじらしくて、愛らしい」


 この人には、敵わない。本能がそう告げる。それは、兄の本性を知ったときと同じ感覚だった。リヒトさんの腕の中で、再び自嘲気味な笑みが零れる。


 歪んだ愛ばかりが、この城に溜まっていく。いつか、息もできなくなりそうだ。もう、それでもいい、それもいい。全てを諦めるつもりはなくても、今日だけはもう、何も考えたくなかった。

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