第34話

「ん……」


 体が、重い。瞼を開けるのも億劫だ。どこも痛くはないけれど、抗いがたい倦怠感があった。


 温かく、ふわふわとした感覚。私は助かったのだろうか。やけに心地よいこの温度は、私に与えられた寝室によく似ている。


 不意に、大きな冷たい手が私の頬に触れる。私が発熱しているのかもしれない。その手は壊れ物に触れるかのように、私の頬を撫で、そっと髪を梳いた。


 その手の持ち主が知りたくて、私はゆっくりと薄目を開ける。開いたばかりの瞳にはあまりにも眩しい光に、一瞬視界が眩んだが、すぐに目の前の光景がくっきりと見えた。


 私に触れていたその手は、他でもない兄のものだった。彼はいつになく哀し気な顔をして私を見下ろしていた。目が合うなり、兄はベッドサイドに屈みこんで私に顔を近づける。


「エナ!? エナ! 目が醒めたのか? 俺だよ、兄さんだ」


 兄の顔には、どことなく疲労の色が滲んでいた。こんなにも冷静さを欠いた兄の表情は初めて見る。


「……兄、さん……」


「良かった、俺が分かるのか。どこか痛むところは? 傷は全て治したんだが、見逃してる場所があるかもしれない」


「大丈夫、どこも……痛くないよ」


 こうして見ると、妹を心配するまともな兄なのに。この優しさだけを享受していた頃に戻りたかった。兄の歪んだ感性なんて、知らない方が幸せだったのに。


「良かった……。あまり心配をかけないでくれ。兄さんがどんな気持ちで眠り続けるエナを見ていたか分からないだろう?」


 それと同じ感情を今、私たちの両親は抱いているのだと、そう言ったところでこの人には伝わないのだろう。私だけに向けられるその優しさが、まるで鎖のように心に巻きついていくのを感じた。


「私は……一体どうなったの?」


「君は東の森の湖のほとりで倒れていたんだ。茨に囚われているところを、リヒトが見つけだして城へ連れ帰ってくれた。優しい恋人を持ってよかったな、エナ」


「恋人じゃないわ、兄さん。……私は、元の世界に戻るのだから」


 思えば、私を心配して駆けつけてくれた兄に、このタイミングで言うべきではなかったのかもしれない。一瞬で、兄の空気感が変わるのが分かった。


 兄さんは相変わらず優し気に微笑んではいたけれど、明らかに彼の怒りに触れてしまったのだと分かる。思わず身構えてしまった。


「やっぱり、エナがあの森に行ったのは、元の世界へ帰る手段を捜すためなんだね」


 人の声はここまで変わるものか。そう思わせるほどに、兄の声は冷え切っていた。兄の冷たい手が私の額に伸ばされる。


「エナがその気なら、兄さんにも考えがある。……次、この城を出ようとしたら元の世界の記憶を消してあげるよ。そうすれば、未練もなくなる。エナが帰る手段を捜して危険な目に遭うこともない」


「何を言って……!!」


「今、記憶を消さないのは精一杯の温情だと思ってくれ。本当は君が眠っている間に消そうとしたんだが、妃にも君のメイドにも泣きつかれてしまったから、この一度きりは彼女たちに免じて見逃すことにした。でも、この次はないよ、エナ」


 兄は、やると言ったら必ず実行する人だ。それを妹である私は痛いほどよく分かっている。そして兄の言葉は、どれだけ私が言葉を尽くしても二度と覆らないことを知っていた。


「もちろん、辛いからもう記憶を消してくれというのなら、いつでも応じるよ。いつまでも未練がましく泣く日々を続けるよりは、最初から王妹としてこの世界に生まれた姫だと思って暮らす方がよほど楽しいだろう」


「……私は一生、この城の中で暮らすってこと?」


「もちろん、俺やリヒトを連れていくなら街へ遊びに行ったっていい。幽閉するつもりはないよ、エナは可愛い妹だからね」


 この世界に閉じ込めておいて何を言っているのだ。あまりの絶望に小さな笑みが零れる。


「……兄さんは、人の愛し方を根本的に分かっていないわ。手元に置いて可愛がるだけが愛じゃないのよ」


「愛の形なんて、人それぞれだろう。自分の主観を押し付けるのは、民の上に立つ王妹として如何なものかな」


 もう、これ以上の会話は無駄だ。帰る手段を失った絶望に、私は今にも泣き出しそうだった。現に既に目が潤み始めている。


 兄の前で泣きたくない。それが、今の私に出来る精一杯の強がりだった。


「……話はよく分かったわ。手当てをしてくれてありがとう。今日はもう、兄さんの顔を見たくないから、出来れば出て行ってくれる?」


「酷い言い草だな。兄さんを嫌って辛くなるのはエナなのに」


 嫌いになれるなら、どんなにいいだろう。心の底から憎めたのなら、どれだけ楽か分からない。


 でも、私にどれだけ酷いことをしようとも、兄は兄なのだ。私を可愛がり、慈しんでくれた記憶は消えない。どうやったって、私の大好きな兄であることは変わらないのだ。


「兄さんの馬鹿っ……」


 兄さんは、私が兄さんのことを嫌いになれると本気で思っているのだろう。これだから人の感情に疎い人間は困る。もっとも、そんな兄だから兄を失って悲しむ両親の気持ちも理解できないのだろうが。

 





「エナ様っ!!」


 兄の次に見舞いにやってきたのは、カミラと王妃様だった。カミラは想定内だとしても、突然の王妃様の来訪にはかなり焦ってしまう。今は薄いワンピース姿で、とても王妃様にお見せできるような恰好ではないのに。


「エナ様、心配したのよ。ご無事で何よりだわ」


 王妃様はカミラの用意した豪奢な椅子に腰かけて、ゆったりとした調子で語りかけた。母のようなその包容力に、王妃様の前だというのに安心している自分がいる。


「エナ様……本当に、本当に良かったです。あまりに酷いお怪我でしたから、私……」


 そう言って涙ぐむカミラは、ベッドサイドに崩れ落ちてシーツを握りしめた。いつもはメイドの鑑のような振舞をしている彼女にしてはかなり珍しい。それだけ心配をかけてしまったということなのだろう。


「ごめんなさい……王妃様、カミラ」


「謝るようなことじゃないのよ。エナ様が元の世界を恋しく思われるのは当然のことでしょう。陛下のなさることは……少々強引すぎるわね」

 

 以前、王妃様は私とリヒトさんをお似合いだと褒めていたが、その言葉に深い意味はないようだ。彼女はてっきり兄の肩を持って、私をこの世界に留めたいと願う側だと思っていたのに、私にこうして同情して、兄の横暴を止めてくれたのは意外だった。


「王妃様は陛下が私の記憶を消すのを、止めて下さったと伺いました。……カミラも、そうなのよね。本当に、ありがとうございます。お二人が止めて下さらなかったら、私、今頃元の世界のことなんて綺麗さっぱり忘れていたのでしょうね」


 自分で口に出して、不意に怖くなる。両親や小百合のことを忘れて、私はこの世界で産まれた姫だと信じて疑うことなく生きていくなんて。根本的な性格や振舞は変わらなくても、それは最早私ではないような気がした。


「……エナ様を助けてあげたいけれど、ごめんなさい。わたくしにはどうすることもできないのよ。陛下の箝口令は、それは強力なものなの。始めは帰る手段を誰にも話せないようにする制限だけだったのだけれど、次第に帰る手段そのものさえも忘れてしまった……。きっと近いうちに、帰る手段が存在したことも、箝口令の魔法をかけられたことも忘れてしまうわ」


 何とも兄らしい。念には念を、という訳か。いよいよ私は追い詰められたようだ。思わず自嘲気味な笑みが零れる。


「陛下の箝口令の魔法を破れる者は、この世界にはいないわ。エナ様、あなたでさえも恐らく敵わない。あなたが魔法を勉強すればあるいは……と考えて、こっそり魔法学院の学長に相談したのだけれど……陛下の魔力が規格外すぎて、エナ様でも望みは薄いだろうと言われてしまったの」


 絶望だ。私は、この世界で生きていく他に無いのか。心がどんどん重くなる。


「……ありがとうございます、王妃様。私のために、色々と考えてくださって……」


 無理やり作りだした笑みでは、二人を誤魔化すことは出来なかったようで、王妃様もカミラもひどく沈んだ表情をしていた。自分のことではないのに、ここまで私の境遇を悲しんでくれるなんて、思いやり深い人たちだ。その思いやりのひと欠片でも兄が持っていてくれたなら、状況はもっと違っただろうに。


「エナ様、どうか落ち込まないでくださいませ。きっと、まだ手段はございます」


 カミラが励ますように言葉をかけてくれる。気休めにしかならないのだろうが、それでも何とか私を元気づけようとしてくれているその健気さに心打たれる。私はよい友人を持ったものだ。


「ありがとう、カミラ……」


「――このことは、まだ陛下にさえ言っていないのだけれど……」


 不意に王妃様が口を開く。その白い手が、そっと彼女の下腹部に伸ばされた。


「わたくし、実は陛下の御子を身ごもったようなの」


 こんな雰囲気の中ではあるが、不意に舞い込んだ目出度い話題に私もカミラもきょとんとした顔をしてしまった。王妃様がご懐妊なさったとなれば、きっと国中がお祭り騒ぎになるだろう。


「王妃様、おめでとうございます。健やかな御子が生まれますよう、心よりお祈り申し上げます」


 ベッドの上だが、なるべく最上の礼を取る。カミラも同様に頭を深く垂れていた。


「ありがとう。わたくしもとっても嬉しいの。陛下の御子だと思うだけで愛おしいわ。それでね、わたくし、考えたのよ……」


 王妃様はじっと私の目を見据えて告げる。


「私にもエナ様にも陛下の魔法を解くことは出来なくても、陛下の血を引いたこの子なら、あるいは……って」


 それは、本当に小さな希望だった。確かに、兄の血を引いた御子はそれは高い魔力を持って生まれてくるだろう。でも、兄を上回るかどうかは分からない。それに、たとえ兄を上回るような魔力を持っていたとして、魔法を使いこなせるようになるまでに、一体何年のときを有するだろう。それまでに、果たしてこの指輪が持つだろうか。


「本当に、僅かな可能性だって分かっているわ。でも、わたくし、エナ様に絶望してほしくないのよ……」


 まるで本当の姉のような優しさで、王妃様は私を見ていた。こんなに思いやり深い王妃様がいるのならば、きっとこの国は安泰だと心の中でふっと笑う。感情に疎い兄の補助を、この綺麗な義姉は立派に務め上げることが出来るのだろう。


「ありがとうございます、王妃様。……希望が見えました。いつまでも暗い顔ばかりしていられませんね」


 本当は、まだ絶望の淵から抜け出したわけじゃない。でも、私に希望を持ってほしいと願うこの二人のために、私は前を向かなければならないだろう。小さな希望でも、可能性があるうちは諦めるわけにいかないのだ。

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