第29話

「リヒトさん……」


 カミラの手で開かれたドアの先にいたのは、空色の瞳を細めて笑うリヒトさんだった。彼が書斎に入ると、カミラが慎ましくドアを閉め、二人きりになる。


「エナ様……」


 私は椅子から立ち上がって彼を出迎える。彼の来訪を素直に嬉しく思いながらも、昨日のお茶会では一方的に別れを告げて出て行ってしまっただけに、言葉に詰まってしまう。


 彼は私の目の前まで歩み寄ると、私の手を取りどこか憂いの滲んだ笑みを見せた。あまり見たことのない表情だ。


「エナ様……昨日はアンネリーゼが大変な失礼を……。きつく言い聞かせておきましたので、どうかお許しください」


「私は、何ともありませんよ。アンネリーゼ様だって、大好きなお兄さまの瞳の色と同じ色のドレスをお召しになりたいと考えられるのは当然のことかと思いますし……」


 アンネリーゼ様の気持ちを思えば、いたたまれなくなる。私がこうしてこの世界にいるのは不可抗力だとはいえ、アンネリーゼ様にしてみれば面白くない思いを沢山しているだろう。


「エナさま、あなたという人は……」


 一瞬、呆れられたのかと思い彼を見上げれば、そのまま抱きすくめられてしまう。こんな姿をアンネリーゼ様が見たら、私は呪い殺されるのではないだろうか。それでも、彼女への罪悪感を胸に抱きながらも、私の心臓は確かに速まっていた。本当に、この気持ちは厄介だ。


「どこまでもお優しいのですね。エナ様はまるで聖女のようだと巷では専らの噂ですが、本当によく当たっている」


「みなさん、私のことを買いかぶりすぎです……」


「でも、あの空色はエナ様だけのものです。たとえ、アンネリーゼでも許すわけにはいかない」


 彼の瞳と同じ、空の色。甘く熱のこもったその言葉に、私の脳内は沸騰寸前だった。このままじゃ、流されてしまう。私は彼の胸に軽く手を当て、何とかリヒトさんから離れた。


「そ、そのような甘い言葉……私、どのような表情をすればよいのか分からなくなってしまいますわ」


「エナ様程愛らしいお方が、この程度の言葉にも慣れていないとでも?」


 私は離れた分だけ、リヒトさんは距離を詰める。その表情は案の定、例の確信犯の笑みで、明らかに私の赤面を面白がっていた。その余裕が羨ましい。


 ずるい、私はすぐに一杯いっぱいになってしまうのに。


「私のいた世界では、一生かかっても聴けることはなさそうです」


「エナ様の周りの方々の目は節穴なんですね」


 ふと、背中に本棚が当たったことを感じ、逃げ場を失くしたことを悟る。そんな私を見下ろして、リヒトさんは楽しそうに笑っていた。男性らしい少し骨ばった指が、不意に私の耳元に伸ばされる。


「今日も、つけてくださっているようで嬉しいです。とてもよくお似合いですよ」


「……ありがとうございます」


 リヒトさんは暫く私を見つめていたが、ようやく視線をテーブルの上の本に移してくれた。王国の地図を隠しておいてよかったと、ほっと胸を撫で下ろす。


「読書をされていたんですか?」


「はい。王妃様が私と同じ年のころにお読みになられていたそうなので……」


「まだお一人で読むには少し難しいでしょう。よろしければ僕がお手伝いいたしますよ」


 確かに、今の私の知識では、読める文字をかいつまんで追っていくことしか出来ない。リヒトさんに手伝ってもらった方が、物語の理解が捗るだろう。


「では、お言葉に甘えて」







 それから日が暮れるまで、私たちは読書に没頭した。物語の内容はそれはロマンチックなもので、華やかできらきらとした世界観は、まるでこの王国のようだった。しばらく物語に触れていなかった私にとってはとても新鮮で、時がたつのも忘れて読み耽ってしまった。


「『満月の夜、時計塔でお会いしましょう』……ああ、この台詞はこの間リヒトさんに文字を教わったときに出てきた例文ですね!」


「流石です、エナ様。知識の吸収が大変早くていらっしゃる」


「リヒトさんの教え方が上手いんです」


 本を読んでいる間、私たちはまるで友人同士のように語り合った。まるで恋人同士のような甘い雰囲気になったかと思えば、こうして何の気兼ねもなく物語に夢中になることもできるなんて。私とリヒトさんは、根本的に気が合うようだ。もしも現実世界で出会っていたら、すぐにとても仲の良い友人同士になっていただろう。


「御伽噺にこんなに夢中になったのは、久しぶりですよ。エナ様といると、何もかもが鮮やかに見えて、楽しいんです」


「そうですね、私もリヒトさんと一緒に過ごすのは楽しくて仕方がありません」


 二人で小さく笑い合う。舞踏会やお茶会などが無く、ずっとこうして過ごせたのなら私はもう少しこの世界を楽しめただろうに。


 傾き続ける夕日がこの穏やかな時間の終わりを告げていた。名残惜しいが、夕食の時間も近付いているので今日はここまでだろう。


「よろしければ、また今度私と一緒に続きを読んでくださいね」


 まるで友人に接するのと同じ調子で、さらりと私は言ってしまった。そうしてからはっと気づく。明日にでも帰れるのならば帰りたいと願っているはずの私が、こうして次を求めてしまうなんて。

 

 リヒトさんもその矛盾に気づいているのか、しばし驚いたように目を見開いていたが、やがてそれは嬉しそうに顔を綻ばせる。


「エナ様から、そうして誘っていただけるのは初めてのことですね。……夢でも見ているようです」


 その表情にも言葉にも、嘘はなかった。私の一言で、こんなにも喜んでくれるリヒトさんを前に、胸が熱くなる。この人は本当に私を想ってくれているのだ。王妹だとか、異世界の人間だとか、そういったフィルターに通さずに、エナとしての私を見てくれている。


 この想いに応えられるならどれだけいいか。どうしてこの世界で出会ってしまったのだ。熱くなった胸に、ちくりと氷のような鋭い痛みが走る。


 リヒトさんは不意に私の前髪を掻き上げると、そのまま額にそっと口付けた。その仕草一つ一つが丁寧で、大切にされているのだと実感する。彼の唇が触れた部分は、いつまでも熱を持って冷めなかった。







「随分と長い間読書をされていたのですね。お疲れになったでしょう」


 リヒトさんと別れた後、私はカミラと並んで私室に向かっていた。きっと夕食の用意も既に済んでいるのだろう。


「とても面白い御伽噺だから、夢中になってしまったわ」


 私の話を、カミラはにこにこと微笑みながら聞いてくれていた。だが、その顔色は今朝より何だか青白い。


「……カミラ、ずっと待ってくれていたのよね。疲れちゃったでしょう」


 カミラは時折仕事で別の部屋に赴いたりしていたようだが、基本的にはずっとあの書斎の扉の前で待ってくれていたようだ。城内とは言えども、やはり廊下は部屋より少し冷える。無理を言ってでも、部屋で控えてもらうべきだった。


 だが、カミラはぶんぶんと首を横に振って否定する。顔色が悪いのは隠しようがないというのに。


「とんでもございません、エナ様。このくらい、なんてことありませんよ」


「でも……無理はしないでね。辛いときは遠慮なく教えてほしいの」


 カミラは、この世界で唯一の女の子の友だちなのだ。彼女には、いつも笑っていてほしい。


「……エナ様はどこまでもお優しいお姫様ですね。カミラは、エナ様にお仕え出来て幸せです」


 カミラといい、リヒトさんといい、私に関する評価が少し大げさすぎやしないだろうか。思わず苦笑いしながら、カミラの亜麻色の目を見つめる。


「ありがとう。私も可愛らしいメイドさんがいて、とっても救われているわ」


 カミラがいなかったら、私はきっと、どこかで心が折れていたはずだ。自暴自棄になって、兄の言いなりになっていたかもしれない。どの世界でも友人はかけがえのない存在のようだと微笑みながら、私は温かい料理が待つ私室へと足を踏み入れたのだった。

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