第28話
「わあ……」
波乱のお茶会の翌日、私は早速、王妃様にいただいた第三書庫を訪れていた。壁際に設置された本棚一杯に本が並んでいる。この世界に来てからは、文字の都合上本は読めていないのだが、元の世界ではそれはもうよく読んでいた。本屋さんや図書館に行けば一日中いられるくらいには好きだ。そんな本好きの私にとって、この光景は天国としか言いようがない。
これで文字を読めたら最高なのだが。苦笑に近い笑みを零して、手の届く範囲にあった本をそっと開いた。古びた紙の匂いがする。流石は王城にある本であるだけあって、表紙の装飾は細やかで美しかった。所々読める文字を辿るだけでも楽しい気分になる。
「エナ様……今日くらいは、お勉強をお休みになられてもいいのではありませんか……? 美味しい焼き菓子などもご用意いたしますから……」
書庫まで案内してくれたカミラは、昨日、私が途中でお茶会を抜け出してきたのが心配でならないようだった。何があったかは詳しく伝えていないが、噂好きなメイドも多いから、大体の事情は把握しているだろう。心配性なカミラに、辛そうな顔をさせるのは私も忍びない。それに、リヒトさんから贈られた私のドレスを見て、自分のことのようにはしゃいでくれたこと思い出すと、ちくりと胸が痛むようだった。折角綺麗に飾り付けてくれたのに、カミラにも悪いことをしてしまった。
「いいの。何かしているほうが気も紛れるし……」
それに、と私は心の中で続ける。
それに、私はこの城から東の森までの道筋を調べなければならない。折角書庫という情報源の宝庫を手に入れたのだから、これを利用しない手はなかった。
「エナ様は本当に、健気で勉強家なお姫様ですね……」
涙をほろりと流しそうな勢いで、カミラは言う。こうしていると、なんだか幼い頃から共に過ごしてきたみたいで何だか可笑しい。
「それに比べて、例のご令嬢ときたら……エナ様がリヒト様に贈られたドレスをお召しになると分かっていて、空色のドレスを着てくるのですから、本当に質が悪いです!」
やはり、事情は伝わっていたようだ。苦笑しながらも、何とかカミラを宥める。
「アンネリーゼ様が私の存在を面白く思わないのは当然だわ。長年の想い人を、ぽっと出の小娘に奪われるのは誰だって嫌でしょう」
「エナ様は本当にお優しい……」
「そんなことないわよ。ただ、臆病なだけ」
この世界の人を傷つけるのが怖いから、関わらないように逃げているだけだ。それは優しさと言えば聞こえはいいけれど、私の弱さの表れでもあるような気がした。
「そうだ、カミラ。王妃様が私くらいの歳にお読みになっていた御本ってわかるかしら? ……それと、この王国の地図のようなものが載った本も読んでみたいの。その方が地理的なことが分かって小説も読みごたえがあるでしょう?」
建前に過ぎない理由を述べて、さらりと地図を要求してみる。もちろん、王妃様に勧められた以上、王妃様がお読みになっていた小説にも目を通すつもりでいるので、地理的な知識を得ることで小説の理解を助けるというのも嘘ではないのだが、どちらかといえば東の森へ行く道筋を調べる目的の方が大きい。
「承知いたしました。少々お待ちください」
流石はメイドの鑑のカミラである。王城の書庫の蔵書までちゃんと把握しているとは。迷うことなくすぐに2冊の本を取ってきてくれた。
「こちらが、王妃様がお読みになっていた小説で、こちらが王国の地理や特産品などが載っている本です」
ずしり、と両腕に重みが加わる。この世界に来てからあまり重いものを持っていないせいで、筋力が落ちているのではなかろうか。
「ありがとう、カミラ」
「お茶でもお持ちいたしましょうか?」
「もし零して本が汚れては大変だから、大丈夫。ありがとう」
「では、私は外でお待ちしておりますね。何かあればすぐにお呼びください」
カミラは慎ましく礼をして、書庫を出ていった。部屋で待っていてくれてもいいのに、律儀な人だ。あまり待たせても何なので、さっさと知りたいことを調べてしまおう。王妃様がお読みになっていた小説は、カミラの前でだって読めるのだから。
私はテーブルに2冊の本を置くと、早速、地理の本を開いた。元の世界の地理の本と同じように、中表紙に当たる部分に地図が示されている。椅子に腰かけながら、まずは王城の位置を探した。
「ええっと……城、城……。あったわ、ここね!」
地図上に一際大きく示された王城からして、これは王国全体の地図ではなく、王都の地図なのかもしれない。ちょうど良い。私は次に「東」という文字を頼りに森を探した。
「……東……森……」
間に挟まれている細やかな単語はよくわからないが、「東」と「森」の単語はが入っている部分を見つけた。デフォルメされた木々が描かれているし、まず間違いないだろう。
「……結構な距離がありそうね」
この地図の縮尺までは読めないが、城から気軽に行けるほど近いとは言えなさそうだ。こまごまとした建物やら地区が描かれた部分を街だとすれば、城から街までの道のりの3倍くらいはある。この間、馬車で城から街まで20分くらいかかったことを考えると、単純計算で行けば、馬車で1時間かかる。誰にも見つからないように行くのであれば、当然馬車など使えるはずもないので、歩いていくことになるだろう。
「馬車って自転車と同じくらいかしら……もう少し早い?」
自転車と同じくらいの早さであるならば、この城から森までは片道3時間ほどかかるだろう。しかも、森の入口に辿り着くまでで3時間だ。魔女の家がどこにあるのかは知らないが、少なめに見積もって探すのにそこから1時間ほどかかったとして、行って帰るだけで少なくとも7時間以上の道のりだ。
「ハードな遠足って感じね……」
魔女に会えたとしても、1時間も話せなさそうだ。だが、元の世界へ帰る方法を知っているかどうか聞くだけなので充分かもしれない。もしも知っていたならば、何かと準備をしてまた尋ねればいいだけのことなのだから。
「問題はどうやって抜け出すかだわ」
魔女に会えることを期待して考えると、少なくとも8時間以上も城を留守にすることになる。リヒトさんと街を散策に行ったときでさえ、6時間程度だったのに。移動速度を速めるような魔法を知っていればいいのだが、生憎、まだ本から学ぶようなレベルには達していなかった。当然、兄やリヒトさんに頼めるわけもない。彼らは私が元の世界に戻ることに反対しているのだから、何をするのか分からないにしても、私が動ける範囲を増やすことを良しとはしないはずだ。
地道に歩いていくとして、問題はどうやって抜け出すか、だ。夜は寝室に籠ってしまえば朝まで誰とも会わないので時間は確かにあるが、夜の城は警備が厳しいという。誰も入れないのと同じくらい、誰も出ていけないんじゃないだろうか。それに、単純に夜は危ない気がする。街を散策した限りでは治安はとても良いと感じたが、それはリヒトさんが私に美しい部分だけを案内してくれただけなのかもしれない。私とリヒトさんの身分が高いと知っていたから、危険な人たちが近寄ってこなかっただけかもしれない。不確定要素が多すぎる。元の世界に帰る前に死んだら元も子もない。
そうなると、朝早くに出るしかない。仮に治安が悪いとしても、夜より昼間の方がずっとマシなはずだ。日中は殆どカミラが傍にいるし、リヒトさんやマナーの先生方に会うからかなり難易度は高いが、夜の城を抜け出すよりは希望がある気がした。
「カミラを説得して、何とか口裏を合わせてもらおうかしら……」
カミラなら、もしかすると私に協力してくれるかもしれない。東の森へ行くと言えば、心配されるだろうが。そこは誤魔化せばいいのだ。
妙案だ。思わず席を立ちあがり、ぎゅっと手を握りしめる。着実に、帰る方法に近付いているような気がして、久しぶりに心が躍った。
だが、その瞬間、窓ガラスに映った私の黒髪を見て、ふと冷静になる。
カミラはきっと、口裏を合わせてくれるだろう。場合によっては手伝うことさえしてくれるかもしれない。だが、もしもそれで私に何かあったり、運よくそのまま元の世界へ戻れたりしたら、カミラはどうなるだろうか。
答えは明白だった。あの兄のことだ。ただでは済むはずがない。カミラの職を奪ったり、彼女の実家である男爵家を取り潰したりするかもしれない。兄は自分の思い通りにならないことに対して、おもしろいと思う反面、徹底的にやり返すはずだ。
「本当、兄さんっていい性格してるわね……」
皮肉気な笑みを浮かべながらテーブルに手をつけば、兄と同じ色の黒髪がゆらりと揺れた。私を逃がしたのがカミラと知れば、兄は絶対に彼女を許さない。東の森へ行くときには、何が何でもカミラに気づかれないようにしなければならない。
「ハードル上がりっぱなしじゃないの」
こんなの無理だ、と元の世界にいたころの私ならば投げ出すだろう。だが、これは私の命だけでなく、元の世界に残してきた両親や友人の気持ちも懸かっているのだ。希望があるうちは諦めるわけにいかない。
テーブルについた右手に光る指輪が、か細い命綱のように見えた。まだ、初めて見たときと変わらない綺麗な赤い石だ。傷一つついていない。この世界に来てから一度も外していないので、小さな細やかな傷くらいはついていても不思議はないのだが、どうやら物理的な衝撃に対しては無傷のようだった。
だからこそ、余計に怖い。この指輪に変化があったときは、それは確実に、元の世界へ帰ることのできる期限が近付いているという証なのだ。指輪のついた指を左手で握りしめ、自分に言い聞かせるように呟く。
「大丈夫……まだ、大丈夫よ」
こうでもしなきゃ、頑張っていられない。恥を忍んで何度も何度も自分に言い聞かせた。大丈夫、まだ何とかなる。
そんなとき、不意にドアをノックする音が響いた。まさか独り言が聞こえていただろうか。早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、王都の地図を閉じる。代わりに王妃様がお読みになっていた小説の表紙を開いた。
「どうぞ」
何事もなかったように澄ました返事をすれば、静かにドアが開かれていく。その先で姿を現したその人に、思わず私は微笑んだ。
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