第25話

 それからというもの、私とリヒトさんの距離は異様に近くなった。精神的な意味でも、物理的な意味でも、だ。


「あ、あの……リヒトさん、少し書きづらいですわ」


 以前は3日に一度程度だった、リヒトさんに文字を教えてもらう勉強会が、いつの間にか日課になっている。どうやらリヒトさんは私のスケジュールを把握しているようで、マナーの講習やら銀細工の仕事やらが終わった時間にちょうど良く現れるのだ。


 時間が空いているのは事実なので、リヒトさんを追い返す理由もないというのは、ある意味自分への言い訳めいた理由付けで、本当はいつになく幸せそうに微笑みながら私を見つめる彼を、無下にできなかったのだ。きっとリヒトさんは、私が一人にしてくれと言えばすぐに帰るのだろうが、そう言った時に見せるであろう寂し気な微笑みを思うと、とてもじゃないがそんなこと口に出来ない。


「この文字は難しいですから、人の手を借りたほうが楽に覚えられますよ」


 背後から伸びたリヒトさんの手が、羽ペンを握る私の手に重なる。確かに今は少し難しい単語の勉強をしているが、緊張でとても集中できなかった。僅かな手の震えが、きっと伝わってしまっているだろう。


 リヒトさんとの婚約話は、とりあえず保留という形になっていた。元の世界に帰るつもりである私が、この世界の人間であるリヒトさんと婚約など出来るはずもない。本当ははっきりと断りたかったが、リヒトさんに止められてしまったのだ。


――断る理由が、元の世界へ戻りたいから、というものなのだとしたら、受け入れられません。僕自身が嫌いでないのなら、どうかお傍に置いてください。


 正式に婚約を結んだわけでもない私と、一日の多くの時間を過ごすことは、公爵家の跡取りとしては良い選択とは言えないだろう。ご両親だってきっと、正式な婚約者を見つけて身を固めてほしいに決まっている。それでもなお、私の傍に居ようとしてくれるリヒトさんを嫌いに思う方が無理だった。それどころか、日毎にリヒトさんが来るのを楽しみに思う気持ちが増しているのだ。


 このままじゃ、いけない。私は、元の世界に帰らなくちゃいけないのに。


「どうされました?」

 

 ふと、至近距離でリヒトさんと目が合って、慌てて視線を逸らした。きっとリヒトさんは不自然に思っただろう。


「な、なんでもありません」


「お疲れになりましたか? そろそろ休憩をはさんでもいい時間ですね」


 リヒトさんは一度私から離れると、僅かに開いたドアの外に控えるカミラにお茶を用意するよう伝えていた。私は未だ早まったままの心臓を落ち着かせるように、大きく深呼吸をして羽ペンを置く。

 

「今、カミラさんがお茶を持ってきてくれるそうですよ。少し休憩しましょう」

 

 リヒトさんは、私がカミラのことを名前で呼ぶほど親しいことを知って、彼女のことをただのメイドではなく私の友人として扱ってくれている。そう言う些細な優しさを嬉しいと思ってしまった。こちらに戻ってくる穏やかな笑みを見るだけで、胸の奥がきゅんと疼くようだ。


 私は、恋というものを知らない。人並に憧れの先輩もいたし、告白を受けたこともあるけれど、まだ恋は知らなかった。


 リヒトさんに対するこの感情は、恋なのだろうか。冷静に考えれば、見知らぬ世界に放り出された私にこの上なく親切にしてくれている彼を、好ましく思わないはずはないのだ。だからこれはただの好意、恋情じゃないと言い切ってしまえば少しはこの心も落ち着くだろうに、小さな違和感がそれを許してくれない。


 もしこの感情が、恋だとしたら。向かい側の席に座り、開いていた本を閉じ、羊皮紙を纏めるリヒトさんをじっと見つめる。窓から差し込んだ陽の光に、リヒトさんの白金色の髪がきらきらと輝いていた。


 これが恋ならば、何て苦しい恋なのだろう。いずれは元の世界に帰るつもりである私にとっては、悲恋以外の何物でもなかった。だから気付きたくない。この感情に名前は付けない。このままの関係を続けて、理性的な判断が出来るうちに帰るしかないのだ。

 

 ノック音の後に、紅茶の香りを連れ立ったカミラが入室してくる。彼女は慎ましく礼をすると、てきぱきとお茶の用意を整え速やかに退室した。相変わらずメイドの鑑のような人だ。


「そうそう、実はエナ様にお渡ししたいものがあるんです」


 お茶を嗜みながら、リヒトさんが懐から取り出したのは一通の白い封筒だった。その封蝋に刻まれた紋章には見覚えがある。王家の紋章だ。嫌な予感しかしない。


 封筒を受け取り、習ったばかりの文字を必死に目で追いながら中身を確認すれば、案の定お茶会への招待状だった。どうやら王妃様主催のお茶会のようだから断れそうにもない。人前に出るのは、例の舞踏会以来だ。アンネリーゼ様に受けた仕打ちを思い出すと、どうしても乗り気にはなれない。


「是非、僕にエスコートさせてください」


 にこりと微笑むリヒトさんに、曖昧な笑みを返すことしか出来ない。リヒトさんと行動を共にすれば、また注目を集めてしまうのだろう。でも、だからといって、リヒトさんの申し出を断ることもできない。客観的に見ても、保留状態とはいえ婚約の話が持ち上がった仲なのだから、リヒトさんにエスコートしてもらうのが自然だ。どうにもならないこの状況に、自然と表情が曇ってしまった。


 そんな中、ふとリヒトさんに抱きしめられる。いつの間に席を立っていたのだろうか。その気配に気づけないほど、私はこの招待状に気を取られていたらしい。


「そんな表情をしないでください……。この間の舞踏会のようなことにはさせませんから」


「リヒトさん……」


「絶対に、守って差し上げます。――決して、誰にも触れさせません」


 その言葉と共に、腕の力が強められる。こんな風に大切にされて、心動かされない方がどうかしている。リヒトさんの優しさが、私の寂しさを癒していることは紛れもない事実だった。


「大袈裟ですよ。大した怪我でもありませんでしたし」


 軽く苦笑いを返せば、リヒトさんは私の肩口に顔を埋めるように寄りかかってきた。まるで甘えるようなその仕草に、少し驚いてしまう。

 

「――僕は、どうしても許せそうにない。エナ様を傷つけた犯人も、エナ様が傷つくことも」


「……リヒトさんのそのお気持ちだけで、どんな傷でも癒えてしまいそうです」


 私の痛みをまるで自分のことのように悲しんでくれるこの優しい人に、心が惹かれていくのが分かる。そっと、リヒトさんの白金色の髪に指を通して撫でてみた。失礼に当たるかもしれないが、何とかリヒトさんを安心させてあげたかったのだ。


「僕にそんな魔法は使えませんよ」


 くすくすと笑うリヒトさんを見ていると、穏やかな気持ちになる。私がこの世界に残ることを決意すれば、こんな優しい時間が続くのだろうか。


 いずれは離さなければいけないこの人の手から、離れたくないと思ってしまう。今だけは、この温もりを感じていたかった。いつから私はこんな刹那主義者になったのだと、一人、皮肉めいた笑みを浮かべた。


 この感情に、名前は付けない。付けてしまえばきっと、この甘い御伽噺に溺れてしまう。私はまだ、両親や小百合のいる世界を諦めるわけにはいかないのだ。心を、強く持たなければ。


 リヒトさんからそっと離れて、小さく微笑んでみる。拒絶したつもりはないのに、リヒトさんはどこか寂し気に瞳を揺らした。


「……折角カミラが淹れてくれた紅茶が冷めてしまいます。温かいうちにいただきましょう」


「……そうですね」


 これでいい。自分の席に戻るリヒトさんの背中を見つめ、そう自分に言い聞かせた。友人にしては近すぎるけれど、この距離を保っていれば取り返しのつかなくなるような事態には陥らない。そうやって自分の心を守るのに私は必死だった。



 だからこそ、私は最後まで気づけなかったのかもしれない。私に向けられた、その感情の正体に。

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