第22話
ふかふかのベッドの中、不意にカーテン越しに朝日の存在を感じて私は薄目を開けた。いつの間にか朝になっていたらしい。軽く寝返りを打ちながら、微睡みから抜け出そうと足掻く。
結局、あの後舞踏会には戻らなかった。リヒトさんに適当に言い訳をつけてもらって、私は早々に部屋に戻ったのだ。私の姿を見たときのカミラの悲し気な表情と言ったら無かった。カミラは深く追求することはせず、私の汚れたドレスを脱がせ体を清めて、ゆったりとしたワンピースに着替えさせてくれた。その時の私はすっかり疲れ切っていたので、そのまま寝室に籠ったのだった。眠るにはまだ早い時間だったはずなのに、朝まで熟睡していたのだから、体力や精神面の消耗は相当なものだったのだろう。
今日は事情を聞かれるのだろうか。何とかことを穏便に済ませたいものだ。私だって言いたいことは言ったのだからお互い様という面も無きにしも非ずだろう。
そんなことを考えながら、のんびりと体を起こしたそのとき、唐突に寝室のドアが開かれた。何の前触れもないその出来事に、思わず身構えてしまう。
「エナ!」
飛び来んできたのは、あろうことか兄さんだった。彼のすぐ後ろで、慌てふためくカミラの姿が目に入る。
「エナ! 体調が悪いと聞いた、大丈夫なのか!?」
私が口を開く間もなく、兄はベッドサイドに駆け寄ると、すぐさま私の手を握った。
「どうしたんだその傷は……。何があったんだ?」
「……兄さん、いくら妹とはいえ、お城に住むレディの部屋に押し入るのはどうかと思うわ。ここは家じゃないのよ……」
一国の王がたかだか妹一人のために朝から城を駆けまわるというのか如何なものなのだろう。王妃様だっていい顔はしないはずだ。
「おや、大分この城に馴染んでくれているようで嬉しいよ。だが、そんなことよりもエナが心配でね」
自分に都合のいい部分ばかり前向きにとらえるのだから、本当に腹立たしい人だ。兄と話しているといつも兄の望む結論に誘導されてしまう気がする。
「……ちょっと気分を悪くしただけ。もう大丈夫だから」
「怪我をしているのに何を言っているんだ。ほら、大人しくして……」
ふと、兄の手が私の両耳に当てられたかと思うと、温かい魔法の流れのようなものを感じる。兄の手が離れたころには、傷の存在も痛みも感じなくなっていた。そっと、傷があるはずの耳たぶに触れてみると、いつも通りの滑らかな皮膚だった。まさか、この一瞬で傷を治したというのか。
「痛みはないかい?」
「え、ええ……」
「次はこっちだ」
そう言って今度は兄の手が私の唇の端に触れる。もともと多少切れていただけの小さな傷だったが、兄の手が離れたころには跡形もなくなっていた。
「……兄さんの魔法はすごいのね」
「エナに褒められると照れるな。エナだって、練習すればすぐに同じくらいの魔法が使えるようになるはずだ。君は俺の可愛い妹なのだから」
兄は幸せそうな笑みを浮かべながら私の頭を撫でる。その表情を見ていると、昔を思い出してしまった。ちくりと胸が痛む。必死に元の世界に戻ろうとしていることに、初めて罪悪感を抱いた。兄が私から帰る手段を強引に奪ったこと、元の世界の記憶を消そうとしたこと、許せない部分は多々あるが、そこまでしてでも兄は私にこの世界にいてほしいということなのだ。その思いだけは、本物なのだろう。
「何なら、兄さんが一から教えてあげようか。きっとすぐに上達するよ。こんな治癒魔法なんて、きっと三日程度で完成できる」
「兄さんはこの国の王なのでしょう。そんなことしてる暇はないじゃない」
兄が一から私に魔法を教えるような事態になれば、彼の臣下たちに大迷惑がかかるだろう。そんなことになれば、この国だってどうなるか分からない。
「昔なら喜んで抱きついてくれるところなのに……エナも成長したんだな。兄さんは何だか寂しいよ」
「今もそんなことしていたら見苦しくてならないでしょう?」
「昨夜リヒトとは抱き合っていたそうだけど?」
にやりと笑いながら兄は痛いところをついてくる。
「……なぜ、兄さんがそれを?」
「否定しないってことは本当なんだな。朝から専らの噂だよ。何でもメイドが見ていたらしくてね。一部では婚約間近とまで囁かれている。妃にも『リヒトとエナ様の式はいつになさるの?』って聞かれたところだ」
話が飛躍するにも程がある。婚約も何も、恋仲でもないのだから。こんな噂がアンネリーゼ様の耳に届けば、次に会った時に何をされるか考えるだけでも恐ろしい。
「折角エナと再会できたのに、すぐにリヒトに持ってかれるのか……。寂しいけど、仕方がないな」
そこまでは、妹を溺愛するただの兄の発言だったのかもしれない。私だって、兄に恋人が出来たときには、大好きな兄さんが取られると思って、面白くない思いをしたことがあるからよくわかる。
けれど、その先は違った。やっぱり兄さんは、普通の感性では生きていないのだと思い知らされた。
「それに、こちらに新しい家族が出来れば、帰りたいと駄々をこねることもなくなるだろう?」
呆れて、言い返す言葉もない。同じ環境で育ってきたはずなのに、兄の思考回路は全く理解できなかった。にこりと笑うその笑みが、最早怖くもある。そこまでして、私をこの世界に留めたいのか。
「……いい加減にして、兄さん。私はこの世界で恋をする気もないし、元の世界の戻るのよ。お父さんとお母さんが待っているもの。小百合だって、きっと私を心配してる。やり残したことがたくさんあるの」
「その話は平行線だな。まあ、とりあえず婚約の話は進めておくよ。既にエナの婚約者候補に名乗り出たいという申し出が腐るほど来ていてね。リヒトなら、いい虫よけにもなる――」
「やめて、兄さん! リヒトさんまで巻き込まないで!」
私とリヒトさんが婚約? 冗談じゃない。そんなことになれば、私はアンネリーゼ様に殺されかねないのではないか。それに、本来ならばリヒトさんは選ぶ立場の人間なのだ。数多の美しいご令嬢の中から、いくらでも相手を見つけ出せる人なのに、王命で私と婚約させられるなんて憐れにもほどがある。
「兄さん、考え直して! リヒトさんとはお友だちなのでしょう? リヒトさんに幸せになって貰いたいとは考えないの?」
兄は性格に難はあるが、友人を軽薄に扱うような人ではないはずだ。元の世界でも、友人は多い方だった。
「馬鹿だな、エナ。リヒトに幸せになって貰いたいからこそ、この縁談を進めるんだよ」
「……公爵家の跡取りならば、王妹と婚約せずとも権力は十分に持っているでしょう。考え直して、兄さん」
むしろ、王妹と公爵家跡取りが婚約だなんて、力のバランスが崩れないのか心配だ。リヒトさんが伯爵位くらいのご令嬢を迎えるか、それこそアンネリーゼ様と婚姻を結んだ方が理想的だろう。
「リヒトは君がたとえ王妹でなくても、君を望んだだろう。それくらいも分からないなんて、兄さんを馬鹿にするのも考え直した方がいいんじゃないのかい? エナ」
「……私は婚約だなんて、認めないわ」
「その強がりがどこまで続くか見物だな。相手はあのリヒトだからな……まあ、2週間持ったら褒めてあげよう」
勝ち誇ったように笑うと、ようやく兄は立ち上がり寝室を後にした。朝から嵐のような人だ。私はぎゅっと手を握りしめて渦巻く様々な感情に耐える。
このまま本当にリヒトさんと婚約だなんてことになったらどうしよう。元の世界に帰る前に、アンネリーゼ様に殺されるんじゃなかろうか。私は眠るときも常に身に着けている指輪を見下ろし、軽く撫でた。
「……早く、早く見つけなくちゃ」
それこそ、あの兄の素振りでは無理やり結婚式なんかを挙げさせられるかもしれない。紳士なリヒトさんは私に理解を示してくれるかもしれないが、できれば家同士の繋がりが出来るまでに何とか元の世界に戻りたかった。
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