第21話

 どれくらいの時間、そうして泣き続けていただろう。露出した肩に冷えを感じる頃、私は柵に寄りかかったまま軽く手を組んで俯いた。涙はようやく、目に溜まる程度には収まってきた。


 月の光を反射して輝く指輪と、カミラと対になるブレスレットをぼんやりと眺める。はっきりとした時間は分からないが、随分と長いこと一人で泣いてしまった。そろそろ私がいないことを不審に思う人が出てくるだろう。何せあれだけ注目されていたのだから。


 広間の外で控えているであろうカミラを探して、まずはこのドレスを何とかせねばならない。言葉は通じないだろうが、仕方なかった。この姿のまま広間へ戻ろうものなら、余計な注目を集めてしまうだろうし、何より兄の追及を逃れられない。自惚れるつもりはないが、私を溺愛しているであろう兄なら、私に何があったのか徹底的に調べ上げるだろう。そうすれば、アンネリーゼ様を余計に刺激してしまう。このまま何も言わず、黙っているほうがずっと身のためだった。


 姿勢を正し、夜空に浮かぶ月を眺める。こんなことが無ければ、美しい夜空に見惚れていただろう。舞踏会という私にとっては非現実的なこのイベントも存分に楽しめたかもしれない。


 冷えた夜風に、耳たぶの傷がずきりと痛んだ。もう血は止まっているようだったが、皮が剥けているのかずっとひりひりと痛みを訴えている。カミラが見たらきっと泣きそうな顔をするのだろう。


 目に溜まった涙の名残を拭いながら、カミラを探すべく大広間の方へ向き直ると、そこには予想外の人物がいた。どくん、と心臓が跳ね、軽く後退るものの、すぐに柵に背中がついてしまう。彼は、血相を変えて私の目の前まで駆け寄ってきた。


 彼は何やら話しかけてくれていたが、私の耳と首元に彼の瞳と同じ色の石が無いのを見て、口を噤んだ。


「リヒトさん……」


 今、兄の次に会いたくなかった人だ。リヒトさんは私の姿をじっと見つめると、酷く痛々しいものでも見たかのように顔を歪ませる。


「……一体、何があったんです。アンネリーゼたちは?」


 すぐにリヒトさんは、私の元いた世界の言語に切り替えてくれた。兄の言う通り、リヒトさんは本当に優秀な人だ。二か国語を流暢に操っているのだから。


「……何でもありませんよ。飲み物を零してしまったくらいで……」


 その言葉の途中で、リヒトさんの手が私の耳に触れる。触られた瞬間にちくりと痛み、顔を顰めてしまった。彼はそんな私を見て、今にも泣き出しそうなほどに悲痛な表情をする。


「こんな、酷いこと……誰にされたのです?」


 私を憐れむその瞳の奥に、確かな一片の怒りを見た気がして余計に真相を言えなくなった。まさか、馬鹿正直に「あなたの妹君にやられたんです」とは言えまい。とはいえ、言い訳をするにはあまりにも苦しい状況で、視線を泳がせてしまう。


「庇う必要などないでしょう。誰にされたのです!?」


 犯人に向けるべき怒りが僅かに私にも向けられているのを感じる。何も言わない私をじれったく思っているのかもしれない。それとも犯人を庇うだなんて甘い小娘だとでも思っているのだろうか。


 私には、アンネリーゼ様を庇う気などさらさらない。ただ、自分がこのことでさらに目立って余計な面倒ごとを招きたくないだけだ。リヒトさんなら、この気持ちを正直に伝えれば分かってくれるだろうと思っていたが、どうやって切り出そうか。


「あなたが言わないのならば、今すぐにこの城中の人間を調べ上げてもいいのですよ。陛下にこのことをお教えすれば、すぐに動いて下さるでしょう」


「それは……っ」


 頼むからそんな大事にしないでほしい。この世界の人たちに迷惑をかけぬよう、なるべくひっそりと暮らしていたいのだ。どうすれば、リヒトさんを落ち着かせられるだろう。


 だが、その瞬間、私の耳に触れていたリヒトさんの手が背中に回されたかと思うと、半ば強引に引き寄せられた。調度、私の口元がリヒトさんの肩に当たり、先ほど唇の端が切れていたことを思い出して、顔だけでも仰け反らせた。


「……申し訳ありません、不快でしたか?」


「いえ、あの、血がついてしまいますから……」


 リヒトさんの悲しげな顔を見て咄嗟に否定してしまったが、ここで嘘でも「不快だ」と言って離れるべきだったのだ。こんなところを見られたら、いよいよ噂を否定しようがなくなる。だが、それに気づいた時には、リヒトさんのもう片方の手が後頭部に回され、先ほどより強く抱きしめられていた。


「そんなこと、僕が気にするとでもお思いですか」


 温かい。人の温もりだ。世界は違っても温もりは変わらないようだ。冷静に考えれば、誰かに見られる前に今からでも離れなければならないとは分かっているのだが、抱きしめてくれるリヒトさんを突き放せるほど、今の私は気丈でいられなかった。収まったはずの涙が、再びじわりと滲む。

 

「……まだこの世界に来て間もないエナ様から魔法具を奪うなど……さぞ心細かったでしょう」


 私の頭に顔を寄せながら、リヒトさんはまるで自分のことのように苦し気に言い放った。後頭部に回された手が、丁寧に私の頭を撫でている。その仕草のせいか、恋愛的なときめきより、安心感の方が勝っていた。そうでなければ、こんな風に身を委ねることなど出来ない。


「……代わりの物はすぐに用意して差し上げます。あの石よりも、もっと素晴らしいものでご用意いたしましょう」


「リヒトさんの瞳の色より、美しい石があるのですか……?」


 この世界で、私を守ってくれるのはいつだってリヒトさんの空色なのだ。宝石的な価値とは別に、私にはあの石が最も美しく見えた。


「そうですね、エナ様の瞳の色の石でしょうか」


 リヒトさんはこういった甘い言葉を吐きなれているのだと分かっていても、今の私にはなんだか嬉しかった。王妹としてではなく、私を見てくれているような気がしたからだ。

 

「ふふっ、それでは兄と同じ色になってしまいます……」


「ああ、それも確かにそうですね」


 私たちは身を寄せ合ったまま小さく笑い合った。いつまでもこうしているわけにはいかないのに、何だか離れがたく感じる。


 ふと、リヒトさんの手が再び私の耳に触れたかと思うと、温かい魔法の流れを感じる。一時的に言葉の壁を無くしてくれているのだろうか。おとなしく、リヒトさんが手を離すのを待っていると、ふと耳の傷が痛まなくなったことに気づく。その真相を窺うように彼を見上げれば、私を安心させるかのようにリヒトさんは穏やかに笑った。


「いつもの言葉の壁を無くす魔法と共に、傷の痛みを取り除く魔法もかけておきました。……本当は、傷を治せればいいのですが。生憎、専門外でして……」


「充分です。ありがとうございます」


 目は潤んだままだったが、自然と微笑むことが出来た。リヒトさんもそれに応えるように再び優しく笑むと、今度は私の喉元に手を当てる。これで言葉の壁は完全に無くなった。カミラとの接触もずっと楽になる。


「この傷は、どうしましょうかね」


 ふと、リヒトさんが私の唇の端の傷に触れると、どこか意味ありげに笑った。いつか街で見た、あの確信犯の笑みによく似た表情だ。月明かりに照らされると、余計に色気を感じさせる。


「……少し失礼しますね」


 このままでも大丈夫だ、と伝える間もなく、リヒトさんと一気に距離が縮まり、次の瞬間には唇の端の傷に軽く口付けられていた。とても温かかったから、その一瞬で魔法をかけたのだろう。


 先ほどまで、安心感に包まれていたのに。一気に頬が熱くなるのを感じながら、私から顔を離してこちらを見下ろすリヒトさんを恨みがましく見上げる。唇の傷は確かにもう痛まないが、早まった脈の方がずっと苦しい。


「陛下には内緒ですよ」


 そう言って、確信犯のごとく妖艶に笑うリヒトさんに、もう言葉もなかった。完全に私の敗北だ。


「そ、そうやって年下をからかってばかりいると、いつか痛い目に遭いますわ」


「無用な心配ですね。からかってなどいませんから」


 こうやって何人のご令嬢が泣かされてきたんだろう。熱くなった頬を見られたくなくて、私は彼に背を向け、バルコニーの柵の上に手を乗せて庭園を眺めるふりをした。本当は、美しい夜空も花々にも少しも私の気は紛れてくれないのだが。


 リヒトさんは私のすぐ隣に移動すると、同じように庭園を見下ろした。だが、彼には私と違って余裕がある。


「夜の庭園はお気に召されましたか?」


 あんなことをしでかしておいて、もう普段のトーンで会話ができるのだから、あれがリヒトさんの中でいかに日常茶飯事であるかわかる気がした。だが、こうして普通の話題を振って貰った以上、何とか作り笑いを浮かべて会話に応える。


「ええ……。とっても神秘的で、素晴らしいです」


「この花々は、両陛下がご成婚為されたときに植えられたのですよ。それは華やかな式でした」


「……少し見てみたかったです。兄の腑抜けた顔など、気になりますから」


 目の覚めるような美人である王妃様のウエディングドレス姿は、さぞ美しかっただろう。そんな綺麗な人を妻に迎えた日には、流石の兄も幸せいっぱいの腑抜けた顔を晒していたに違いない。


「僕は、エナ様のウエディングドレス姿を見てみたいですね」


「私の、ですか?」


 ふと、柵に置かれた私の手の上にリヒトさんの手が重なる。普段はそれくらい何てことのない接触のはずなのに、先ほどのやり取りが後を引いているのか、大袈裟に心臓が跳ねてしまった。


「……この指輪を、公爵家の紋が刻まれた指輪に取り替えたいものです」


「えっ……?」


 指を絡めながら、リヒトさんは薄紅色の石が嵌めこまれた私の指輪に触れる。その台詞に心臓はかつてないほど早まっていたが、同時にどこか冷静な私もいた。


 それは、私の自惚れでなければ、リヒトさんは私と婚約する意思があるということなのだろう。わざわざ公爵家の紋という言葉を出してきたからには、そのくらいの推測をされると分かった上の発言のはずだ。


 つまり、リヒトさんも私をこの世界の留めたい側の人間だということらしい。舞踏会の最中からそれを匂わせる発言はあったが、これで殆ど確信していいだろう。


 だが、兄と違ってリヒトさんはこの世界の人間だ。もしも私を憎からず思ってくれているのならば、引き留めたいという考えに至るのは至極真っ当なことだろう。リヒトさんを責める気にはなれないかったし、むしろその好意は嬉しくさえあった。いきなり婚約を申し込んだのだって、私と更に親しく――恋人のような関係になるには、この世界ではそうする他に無いからだ。


 これが、あちらの世界での出来事であれば、私は手放しに喜んだだろう。リヒトさんと過ごす時間は、正直に言って楽しい。もっと一緒にいたいとも思う。だが、私はまだ諦めていないのだ。元の世界に戻ることを。こんなことを口にすれば、またリヒトさんは私を笑うだろうか。


「本当はもっと言葉を尽くしたいところですが……勝手に正式な申し込みをすると陛下に殺されそうなので、今日はこのくらいにしておきますよ」


 言葉に迷う私に助け舟を出すように、リヒトさんは笑った。その表情は、見ようによってはどこか残念そうに笑っているようにも見えて、思わず口を開いてしまう。


「……嬉しいです。いろいろと心の整理がつかなくて、約束をすることはできませんが……それでも、嬉しいです。リヒトさんにそう言って頂けて」


 リヒトさんの人柄からして、この婚約話が私の身分を利用しようだとか、そういった目的があるようには思えなかった。純粋に、リヒトさんは私と一緒に生きていきたいと思ってくれたということなのだろう。それは私も嬉しかった。


 ただ、アンネリーゼ様に伝えたように、リヒトさんの対するこの感情が恋なのかは分からないのも事実だ。一緒にいたいというだけならば、仲の良い友人の域を出ていない気もする。何分、人生初の感情なのでよく分からなかった。


「……参ったな。そんなことを仰られると、調子に乗ってしまいそうです」


「調子に乗ったリヒトさんなんて、そうそう見られなさそうなので、是非拝見したいですね」


「……後悔、してもしりませんよ」


「私は、私の気持ちを素直に伝えたまでですから」


 感情を素直に伝えて後悔することなどあるはずもない。紛れもなく私の心のなのだから。夜風が二人の間を通り抜けていく。私たちは手を重ね合ったまま、夜の庭園をいつまでも見つめていたのだった。

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