第17話

 リヒトさんに文字を教えてもらってから数日、私は再びマナー講習に明け暮れていた。朝晩の銀細工の仕事に加え、眠る前に文字の復習も日課として加わったので、あっという間に一日が過ぎていく。


「エナ様、少しお休みになられた方がよろしいのでは……?」


 マナー講習の合間に一息ついていると、カミラが心配そうに顔を出した。確かに忙しいが、このくらいあちらの世界でも経験がある。試験前なんかはよくこんな生活を送っていた気がする。


「私は大丈夫よ。ありがとうカミラ」


「ですが、せめて銀細工だけでもお休みになられては……? 既に係りの者が当分のエナ様の生活資金は十分に用意できたと申しておりましたし……」


「そんなに売れているの?」


 銀細工は順調に売れていると聞いていたが、そこまでとは思わなかった。しかも王城暮らしの私が当面生活できるような額が既に収益として上がっているなんて、一つひとつを一体いくらで売り捌いているのだろう。そのあたりの価格設定は専門の者に丸投げしていたが、カミラの話を聞いて妙に不安になる。


「はい。それは飛ぶように売れているそうですよ。今や、エナ様の銀細工を身に着けることは、高位のご令嬢の間で一種のステータスになっているとか」


「そ、そうなのね……知らなかったわ」


 こういったことが、いらぬ反発を産まなければよいのだが。王妹という立場は想像以上に影響力がありすぎる。せいぜい、銀細工を趣味として楽しんでいるご令嬢などが興味を持ってくれればいいと思っていたが、高位の令嬢がことごとく手にするようになるとは思ってもみなかった。


「エナ様のお作りになる銀細工は、繊細で美しいと大変な評判でございますよ。それに、陛下と同じ質の魔力が込められているのでお守りとして持つご令嬢も多いそうです」


「そんな大したものじゃないのだけれど……。でも、私の作ったもので喜んでくださる方がいらっしゃるのは嬉しいことね」


 ここでも兄の恩恵に預かっている部分は否めないが、自分の仕事が認められたような誇らしい気分になる。少しだけ、胸を張って城の中を歩けそうだ。


 そうですね、と微笑むカミラを見て、今度彼女にも銀細工を贈ろうかなどと考える。今度銀の地金を持ってきてくれる係の者から、贈り物用にいくらか買っておこう。


 そんな穏やかな時間を過ごしていると、不意に私室のドアがノックされる。次の先生が来るにはまだ少し早い時間だ。


「……どなたでしょうか? 見て参りますね」


「お願いするわ」


 リヒトさんと約束している記憶もない。本当に来客が誰なのかわからなかった。事務連絡を伝えに来た執事だろうか。


 一流のメイドらしく、慎ましくドアを開けたカミラの肩がびくりと震える。それも一瞬のことで、彼女はそのまま深々と礼をした。ただならぬ空気に、思わず席を立つ。


「カミラ……?」


 彼女は頭を下げたまま、こちらに応じることは無かった。代わりに、ドアの向こうからやってきた人物に目が釘付けになる。


「突然押しかけてごめん、エナ」


――兄さん。


 声にならない声が、喉元で詰まる。まるで何事もなかったかのように爽やかな笑みで、悠々と私の目の前に姿を現したその人は、今日もひどく優し気な目で私を見ていた。


「……ご機嫌麗しゅう存じます、


 この数日間で得た知識を最大限に使って、淑女の礼を取る。我ながらここ最近で一番の出来ではないだろうか。先生に見てもらいたかったものだ。


「久しぶりに会ったというのに、随分と他人行儀だね、エナ」


「このような振舞を強要されることになった元凶は、兄さんにあるんじゃないかしら?」


 顔を上げ、怒りを込めて兄を睨む。兄はくすくすと笑いながら、私との距離を詰めてきた。


「そう怒らないでくれ、エナ。どうしても、また君と暮らしたかったんだよ。分かってくれるよね?」


「……だからと言って、私をこの世界に閉じ込める理由にはならないはずよ」


「思ったより強情に育ったんだな……。まあ、それでも可愛いエナであることに変わりはないからいいんだけどね」


 私の睨みなど、ちっとも効いていないようだ。私がどれだけ絶望したか、この兄には微塵も理解できていないのだろう。


「それで、何の御用ですか? ?」


「その怒りがいつまでもつか見物だな、エナ。……今日は君に招待状を届けに来たんだ。なかなか会いに来てくれないから、直接渡しに来た」


「そんなもの、執事にでも任せればいいじゃない……」


「分かってないなあ、可愛い妹に会いたかったんだよ」


 普段ならば嬉しいはずの兄の甘い言葉だが、今は苛立ちを増長させるに過ぎない。差し出された王家の紋が刻まれた招待状を嫌々受け取る。


「我が妃主催の舞踏会がもうすぐ開かれる。聞いているだろう?」


「……そのために散々マナーを躾られているんだもの、知っているわ」


「その分だと断れないことも知っているようだね?」


「王妃様主催の舞踏会じゃ逃れようがないでしょう」


 王家主催の舞踏会となれば、王妹の私も参加せざるを得ない。出来るだけ人目は避けたかったが、こればかりは仕方ないようだ。それに、帰る手段を探る機会になるかもしれないという淡い期待も忘れてはいなかった。


「折角だから、意地を張らずに楽しむといいよ。エスコートしてあげたい気持ちは山々だけど、生憎既に妃がいるからね。仕方ないからリヒトに頼んでおいたよ」


「え、リヒトさん……?」


 エスコートなんて注目の的だろうに、その相手がよりにもよってリヒトさんなのか。今からご令嬢たちの視線が怖い。


「好い仲だって聞いてたけど、違った? あいつの瞳と同じ色のアクセサリーもつけているし、満更でもないのかと思って頼んじゃったよ」


「こ、これは魔法具で……リヒトさんにはただ親切にしていただいているだけなの! それに……アンネリーゼ様はどうするの? きっとリヒトさんにエスコートされたいはずよ」


 リヒトさんに恋をしているのであれば、当然その発想に至るだろう。会う前から余計な確執を生みたくないのだ。


「ああ、アンネリーゼ嬢か……。渋っていたようだが、流石に王命だから諦めたらしい。エナは何も心配いらない」


 本当に、この人は。思わず頭を抱えたくなる。恐らく私のために良かれと思ってやってくれているのだろうが、見事に私の首を絞めに来る。優秀な頭脳を持っている癖に、どうしてこういった繊細な話題には頭が回らないのだ。心配いらないどころか心配だらけだ。


「ドレスについても手配済みだ。……リヒトがアクセサリーに合わせたドレスを贈りたいと申し出てきたが、まだ婚約しているわけでもないからね。エナの指輪の色に合わせておいた。あの色はエナによく似合うよ」


「こ、婚約って……」


「まあ、リヒトなら許すよ。家柄もいいし、何よりあいつは優秀だ」


「するわけないでしょう? 私は元の世界に帰るのよ」


 その言葉の直後、一瞬だけ室内の空気が凍りついたかのようだった。だがすぐに、兄の笑い声がその静寂を打ち破る。


「帰る……? 方法を知る術もないのにどうやって? ……諦めの悪い子だな、エナ。帰ろうと足掻いたところで苦しいだけだろう」


 兄が一歩私に詰め寄り、そっと額に手を当ててきた。ひやりと冷たい感触に、僅かに肩が震える。


「何なら、兄さんが楽にしてあげようか? あの世界のことを全部忘れられたなら、エナはここで楽しく生きていけるだろう?」


「何を……」


「陛下っ!!」


 城に相応しくない荒々しい動作でドアが開かれる。完全にしまっていたわけではないようで、すぐに勢いよく開いた。突如飛び出してきたその人物に、私は心底ほっとしてしまう。


「陛下っ、おやめください。エナ様が怖がっておられます」

 

「リヒトさんっ……」


 すぐに私の傍に駆け寄り、軽く私の肩を抱いて彼は私を兄の手から離した。兄はふっと笑って私たちを見やる。


「盗み聞きとは下世話な奴だな、リヒト」


「申し訳ありません。陛下をお待ちしていたら随分と物騒なお話が聞こえてきましたので、つい」


「君にとっても都合のいい話だと思うんだがな。その方が、妹を口説きやすいだろう?」


 余裕たっぷりな笑みを浮かべる兄は、やはり反省の色など見せない。その端整な笑みに私は憧れていたはずなのに、今では恐怖の方が勝る始末だ。


「エナ様のお心を傷つけてまで、叶えたい想いではありません」


「それは健気なことだ。妹は強情だぞ。そう簡単にいくとは思わないけどな」


 そう言って兄は再び私の頭に手を伸ばす。今度は何をされるのかと身構えたが、ぽんぽんと軽く頭を撫でられただけだった。


「楽になりたかったらいつでもおいで。あちらの世界の未練なんて、すぐに消してあげるよ」


「……大嫌い」


「そりゃどうも」


 兄は意味ありげに微笑むと、私とリヒトさんを一瞥し踵を返した。どうやら、難を逃れたようだ。兄が完全に部屋から出ていったことを確認して、ほっと息をつく。


「……大丈夫ですか? エナ様」


 リヒトさんは私の肩から手を離すと、心配そうに眉を寄せる。正直大丈夫ではないが、何とか笑ってみせた。


「ええ、大丈夫……私は平気です」


 すぐに姿勢を正し、落ち着かない視線をリヒトさんに定めた。空色の瞳が私を映し出している。


「ありがとう、リヒトさん。あなたが来てくれなかったら、私……きっと元の世界の記憶を消されていたのでしょうね。本当に助かりました。まるで御伽噺の王子様のようでしたわ」


 兄は、私をこの世界に留めるためならば手段を選ばないようだ。自由を奪われ記憶までも奪われたら、それはもう私ではないような気がするのだが、それでも兄は私を手元に置いておきたいのだろうか。頭のいい人の考えていることはよくわからない。


「このくらい当然ですよ。エナ様がご無事で何よりです」


 そう言って紳士的に微笑むリヒトさんは、まさに物語の王子様のようだ。惚れやすい体質ではない私も、今回助けに来てくれたことには少しだけ心を動かされてしまった。私は兄のような冷静で天才肌の男性が好きなのだと思い込んでいたが、王道の王子様タイプの紳士にときめくとは思ったより乙女な部分もあるようだ。自分のことなのに、何だか照れてしまう。


「……絆されるのも時間の問題なのかしら」


 ぽつりと誰にも届かぬ独り言を呟けば、隣でリヒトさんが神々しいまでの微笑みを見せる。明日からもまた、波乱の王城生活が待っていそうだ。

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