第16話

「お疲れ様でございます、エナ様」


 椅子の背もたれにぐったりと力なく寄りかかっているところへ、カミラがお茶を持ってきてくれた。彼女の登場に、マナーの先生に教わった通りに背筋を伸ばし、穏やかな微笑みを浮かべる。この表情をキープするのが良いそうだが、なかなか頬が疲れてしまうのだ。


「……どうか、おくつろぎください。先ほどまでずっと、先生とご一緒だったのでございましょう?」


「……ええ、ありがとう」


 この一週間、私はマナーやら王城で暮らす上で最低限知っておくべき常識やらを詰め込まれていた。朝と夜の銀細工の仕事は順調で楽しいが、連日続くマナー講習にはいい加減辟易している。私が王妹としての教養がついていないことは仕方のないことでもあるので、ある程度は加減してくれている部分もあるようだが、礼の仕方やテーブルマナーなどは手厳しかった。もっとも、その厳しい指導のおかげでこの一週間で何とか見られるようにはなってきているのだが。

 

 香りのよい紅茶とお茶菓子をお供に、束の間の休息をとる。この世界での生活も、大分慣れたものだ。教養を深めるために忙しくしていたせいで、帰る手段の調査は全く捗っていなかったが、仕方ない。まずはこの世界に馴染む努力の方が先決だった。


「……午後は何を学ぶのかしら? テーブルマナーの復習? それとも淑女の礼を練習するの?」


 予定を把握しきれないほど、あらゆる講習が詰め込まれている。スケジュール管理は完全にカミラに一任していた。


「午後は、この世界の文字を学んでいただきます。リヒト様がいらっしゃるそうです」


「……文字を?」


 それは、私が個人的に依頼したものではなかっただろうか。このマナー講習に組み込まれているとは意外だ。


「はい。何でも、リヒト様が先生方に文字の学習をご提案なさったそうですよ」


 私が学びたいと言ったから、わざわざマナー講習に組み入れてくれたのだろうか。つくづく細やかな気遣いのできる人だと感心してしまう。


「先生方も二つ返事で了承なされたようです。たまにはエナ様にも息抜きが必要でしょうと……」


 何だか妙な誤解が広まっているような気もするが、敢えて追求しないでおこう。私は紅茶を口に運んで、余計な懸念を頭のなっから追い出したのだった。








「リヒト様、こちらの文字は……?」


「これは、『月』を意味する単語です。こちらは、『時計』。先ほどの文法を照らし合わせますと、『満月の夜、時計塔でお会いしましょう』という文になります。これはこの国の古い御伽噺の一節で、とても有名な台詞です。教養として覚えておいて悪いことは無いでしょう」


 羊皮紙のような分厚い紙一面に記された見慣れぬ文字。リヒトさんはその一つ一つを丁寧に教えてくれていた。いきなり単語だけを覚えさせるような詰込み型の教育ではなく、有名なフレーズや物語と絡めて教えてくれるのでとても面白い。カミラが用意してくれた紅茶が冷めていることにも気づかないほど、熱中していた。


 慣れない羽ペンで、リヒトさんが教えてくれたことを日本語でもメモをする。こうしておけば、夜眠る前にでも復習が出来そうだ。


「エナ様は勉強熱心なお方ですね……」


 メモを取る私の横で、リヒトさんは感心したように溜息をついた。そうやって褒めてもらってばかりいると、どんな表情をしてよいのか分からなくなる。


「リヒトさんが上手に教えてくださるから、楽しく勉強できているだけです」


 真面目か不真面目かと言われれば、それは真面目な方なのだろうが、一日中机に齧りついているようなタイプでもない。興味のあることであれば自然と捗るというだけのことだ。


「そうでしょうか……。妹は、僕が教えてもろくに話を聞きませんから、すっかり教える才能は無いと思い込んでいたのですが……」


 そう言って再び溜息をつくリヒトさんの横顔は、完全に我儘な妹に振り回される兄の表情だった。リヒトさんの妹君、アンネリーゼ様の心情を知らぬうちであれば微笑ましい兄妹だと思っただろうが、今となってはそう素直に受け取ることもできない。


「アンネリーゼ様は、リヒトさんにとても懐いておられると聞いておりますのに……リヒトさんのお話を聞いて下さらないのですか?」


 他の令嬢を排斥するほどにリヒトさんにご執心ならば、一言も逃さず聞き入りそうなものだが。私はメモを終えて羽ペンを置き、リヒトさんに向き合った。


「聞くには聞いてくれるのですが、すぐに話が逸れるんです。どこへ出かけたいだの、次のお茶会に着ていくドレスが欲しいだのと……。我儘になる年頃だろうと思って甘やかしていましたが、エナ様を見ているとどうも違うようですね」

 

 リヒトさんの前では、随分と可愛らしいご令嬢のようだ。リヒトさんの話を聞く限りでは、嫌な部分は一つもない。何だか微笑ましく思ってしまう。


「生まれた時からご令嬢でいらっしゃるアンネリーゼ様と私とでは……あまりに違いすぎて参考にならないかと思います。でも素敵ですね、仲がよろしいようで羨ましい限りです」


 ごく社交辞令的に述べたつもりだったが、これでは私が兄と仲良くしたいと言っているようなものではないか。いや、実際以前のように仲良く過ごせたのならどんなにいいか分からないが、何分私の怒りが収まっていないのだ。自分の心に嘘をついてまで、仮初の穏やかな時間を望む気にはなれなかった。


「陛下は……常にエナ様のことを考えておいでですよ」


 やはり、リヒトさんに余計な気を遣わせてしまった。完全に言葉選びに失敗したと後悔する。


「……そうでしょうね。元は仲の良い兄妹でしたから。でも、やはり私は……」


「陛下のことをお許しになれない、と?」


「……はい。今回のことは、とても許せそうにありません」


 天才肌の兄のことだ。もしかするとこの世界も、自分の箱庭程度にしか考えていないかもしれない。何もかも思い通りになるだけの実力と才能を与えられたのならば、それも仕方のないことだろうか。だが、その箱庭に閉じ込められた私はたまったものじゃない。


「……エナ様は、この世界がお嫌いですか?」


 ふっと、いつもよりワントーン下がったリヒトさんの声に、我に返った。思わず彼の顔を見上げれば、いつになく切なげな表情をしている。確かに、この世界で暮らす人が聞けば不快にも取れる発言だったかもしれない。


「そ、そういうわけではありません。すみません、言葉選びが悪くて……。この世界は素敵なところです。こういう形でなければ、もっと楽しめたと思います」


 それこそ、自ら願ってきたのならばこの上なく素晴らしい世界だろう。兄のように現実世界に飽き飽きして、退屈な日々から逃げ出したいと思っている者にとってはまさにうってつけだ。


 だが、私は違う。確かに捉えようによっては退屈に思える平凡な日常も、私は案外楽しんでいた。家族がいて、友人がいて、居場所がある。私はその平穏に満足していたのだ。それを無理やり奪った兄を、やはりそう簡単には許せない。

 

 二人の間に流れた沈黙がいつになく気まずかった。完全に私のせいだ。何とか間を取り持とうと、愛想笑いを浮かべ話題を変える。


「そ、それこそ舞踏会などに出れば気分も変わるでしょうし……もっと好きになるかもしれませんわ。それに、アンネリーゼ様を始め、同年代のご令嬢にお会いするのも楽しみです!」


 話題の転換にしては、苦しいだろうか。恐る恐るリヒトさんの表情を窺えば、今度は困ったような微笑みを浮かべている。


「……却って気を遣わせてしまいましたね、申し訳ありません。見知らぬ世界に閉じ込められて心細いでしょうに、つい、あなたに気に入られたいと欲張ってしまいました」


 さらりとそういうことを言ってのけるから、令嬢たちが次々と虜になるのだ。自覚がないとはこうも恐ろしいのか。直に行われるという舞踏会でもこんな調子では、余計な噂が広がらないか心配だ。


「リヒトさんは、この世界の数少ない友人です。とっくに親しく思っていますよ。……なんて、私が言うのはおこがましいかもしれませんね」


 数少ないどころか、カミラとリヒトさんしかいないのだが。冷めた紅茶を口に運び、軽く一息をつく。

 

 ふと、メモし忘れた個所に気づき、羽ペンに手を伸ばすと、リヒトさんの大きな手が重なった。


「友人、ですか。生憎、僕はそれで満足するほど、慎ましい心は持ち合わせておりませんよ」

 

 にこりと不敵に笑うリヒトさんの表情は、あの確信犯の笑みだった。もう完全に私をからかって遊んでいるとしか思えない。他のご令嬢にもこういうことをして遊んでいるのであれば、一度刺されるなりなんなりするべきだと思う。本当に、先が思いやられる人だ。人前でこんなことをされた日にはどんな誤解を生むだろう。頭が痛い。


「どういうことか、私の拙い頭では理解できかねますわ」


 牽制の意味を兼ねて、にこりと笑ってみせる。お互いに含みのある表情を浮かべ、ある意味貴族らしいワンシーンではなかろうかと内心皮肉に思うのだった。

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