第13話
「今朝、エナ様の記事を拝見して、早速商品を入れ替えたのですよ。やはり、飛ぶように売れています。貴族のご令嬢からも注文が殺到しておりますの」
ほくほくとした表情で店主は満面の笑みを見せた。紅茶と共に、テーブルの上に並べられた商品には確かにどれもあの薄紅色の花が描かれており、同じ香りなのだと推測できる。
「私の記事を見て……?」
私自身、好みの香りに包まれて大変幸せだが、この国の女性たちみんなが好きということもないだろう。不思議に思っていると、リヒトさんが解説してくれた。
「この国の女性たちは、皆、エナ様に憧れているのです。少し前までは、王妃様の身に着けたドレスやら香水やらが流行りましたし、つい最近までは恥ずかしながら我が妹の好みが流行の最先端でした」
「流行を作り出すのは、いつもお城にいるお姫様方なんですよ。エナ様のお国でもそうではありませんでしたか?」
言われてみれば、女優の真似やモデルの真似は似たようなものなのかもしれない。だが、この世界ではそれが貴族の令嬢や王妃様になるのだから、対象となる女性の絶対数が少ない分、一人の令嬢の影響力は計り知れない部分がある。
「これはしばらくはエナ様の流行が続くと踏みましてね……エナ様がお好みの花の香りを一気に売り出したという訳なんですよ」
有名な店だけあって、流行には敏感らしい。商人の押しに負けてしましそうなほど優しそうな外見に反して、なかなかやり手の女店主のようだ。「しばらくは、お花の好みを変えないでくださいね」なんて念を押されてしまったからもう言葉もない。
まあ、カミラもあの薄紅色の花を毛嫌いしているような様子はなかったので、問題ないだろう。私は細工の施された大理石のようなケースに入ったハンドクリームを手に取った。
「それは、エナ様にお勧めしたいですが、メイドさんは使いづらいかもしれませんね。香りも売りにしている商品なので、仕事中にはつけづらいかもしれません」
「そうですか……」
思ったよりも細やかなアドバイスをくれることが有難かった。確かに、香りの強いものだと、メイドとしてはつけづらいかもしれない。休みの日に使えばいいかもしれないが、どうせなら普段使いできるものを贈りたかった。
「こちらなどは、よくお城のメイドさんや侍女さんたちが買っていかれますよ」
そう言って差し出されたのは、先ほどよりも幾分かシンプルなケースに収められたハンドクリームだ。試し塗りをさせてくれるというので塗ってみると確かに香りも強くなく、べたつきも少ない。仕事中には良さそうだ。
「これにします。とってもよさそうです」
「ありがとうございます。ご自分用に、こちらもどうです?」
女店主は、先ほどの繊細な細工が施されたケースを手に取って私に勧めた。本当に商売上手な人だ。だが、確かにカミラにだけ渡して、自分用のものが無ければ謙虚な彼女は遠慮してしまうかもしれない。初めて街を出歩いた記念に、一つ買ってみてもいいだろう。
「では、それもお願いします」
「ありがとうございます」
私とカミラのハンドクリームを包みながら、支払いの用意をするリヒトさんに女店主は目配せした。それでどうやら通じたらしく、リヒトさんは押しに負けたように苦笑いを零す。
「……妹がいつも買っている物を一揃い頼みます」
女店主は、どうやらリヒトさんが妹さんに弱いこともしっかり把握済みのようだ。これはお店が上手くいくわけである。そのやり取りに思わずくすくすと笑えば、リヒトさんはまたあの少し照れたような表情を見せるのだった。
街のレストランで食事を摂り、ぶらぶらと街を歩いているといつの間にか日が傾き始めていた。随分、歩き疲れた気がする。あの花火大会でくじいた足が、再び痛み始めていた。
意識のある限りでも腕や足に大火傷を負っていたはずだが、不思議とそれらの傷は見当たらない。それなのに、くじいた足の痛みは残っている。転移する際に、命にかかわるような傷だけが消えたのだろうか。
10年前の兄の姿を思えば、それも納得がいく気がした。交通事故に遭った兄は、両手両足が折れ、脊髄まで損傷していたのだから、もしもあの傷のままこちらの世界に来たとしたら魔術師としてやっていける訳がない。かすり傷や切り傷なんかは残ったかもしれないが、私と同じように命に関わるレベルの傷は消えていたはずだ。
この世界は、何なのだろう。夕暮れを見つめながら、ぼんやりと考える。事故に遭ってから兄の体は確かに病室にあった。お葬式のときだって、確かに骨を集めたのをよく覚えている。それに倣えば、私の体も今頃病室に横たわっているのだろう。
だとすると、ここは意識下の世界なのか。精巧に作られた夢だとでもいうのか。しかし、それにしては違和感を感じる。この世界では五感も痛覚も温感も何もかもがはっきりとしている。生きているという実感がある。
ああ、やめだやめだ。今は、考えても仕方のないことは考えない方がいい。宇宙の果てについて思いを馳せるときのような、言い知れない不安に襲われてしまう。私は確かに、今ここで生きているのだ。それだけは確かで、それが分かっていればいいじゃないか。ここがどんな世界だっていい。焦らずに、帰る手段を探していこう。夕焼けに反射した指輪の光を眺めながら、自分にそう言い聞かせた。
「どうかされましたか?」
隣を歩くリヒトさんがふと足を留めて、私の表情を窺った。退屈しているとでも思われただろうか。
「いえ……夕焼けを見ていると、感傷的な気分になってしまって……」
「夕焼けはお嫌いですか?」
「……この世界では、好きになれないかもしれませんね」
指輪をそっと口元に寄せ、その冷たい感触に目を瞑る。どうか導いてほしい、私のいたあの世界に。そんな願いを込めた行為だった。
だが、不意にリヒトさんが私の手を取ると、そのまま何の前触れもなく私の指輪に口付けた。紳士的な礼というよりは、少し引き寄せられるほどに強引さを感じるものだった。
「いつか、好きだと言わせたいですね。――――夕暮れを」
あの確信犯の笑みでそう言った彼の表情を直視できない。再び頬に熱が集まるのを感じる。この世界ではこのくらい戯れに過ぎないのかもしれないが、私には甘すぎる。このまま脈が早まっているのを悟られようものなら、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「照れていらっしゃるのですか?」
「き、気のせいです。夕暮れのせいでしょう」
紳士的で心優しいリヒトさんだが、こうしてからかうのは如何なものかと思う。一体何人の令嬢を泣かせてきたのだろう。今日一日で、随分と印象が変わってしまった。
もっとも、ただ優しいだけではないという面では、兄の友人と言われて少し納得できるようにはなったのだが。
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