第9話

 私が元居た世界で住んでいた街は、いわゆる高級住宅街に属するもので、有名企業の役員やら旧家の出身者などが珍しくなかった。そんな街に存在する唯一の高校に通っていた私は、お嬢様とまでは言わずともそれなりの教育を受けてきたと自負している。成績だって悪くなかった。少なくとも制服を着て別の街へ出かけた際に、後ろ指を指されるような振舞いはしたことは無い。


 だが、それも所詮高校生の嗜みでしかなかったのだと思い知らされる。試しにカミラにお茶会のマナーを尋ねてみたところ、お茶一つ飲むのに作法が多すぎる。無理だと投げ出すほどでもないが、積極的に参加したいとは思えなくなるような内容だった。


「お茶会も舞踏会も出席するのはどうしても断れないものにしましょう」


 マナー本は読めないので、代わりにカミラに音読してもらっていたが、そう諦めざるを得なかった。カミラはあからさまに残念そうに肩を落とす。


「残念です、エナ様にはぜひ着飾って頂きたいのに」

 

「でも、まともにマナーも守れないような私が参加しても笑い者になるだけですよ」


 一応は、私は兄の名も背負っているのだろう。怒っているとはいえ、下手に兄の名に傷をつけるような真似はしたくなかった。


「それこそ、大勢の方にお会いすれば帰る手段が分かるかもしれませんよ」


「それは……」


 カミラの言葉は非常に魅惑的な提案だった。確かに、お茶会も舞踏会も人と知り合うにはこの上ない絶好の機会なのだろう。


「余程常識に外れたことをしなければ、誰もエナ様を咎めることなどいたしませんよ。それに、舞踏会といえど最近は踊らないものも増えているようですし、もう少し気軽にお考えください」


 できればそう言ったものに誘われる前に、帰る見当がつけばよいのだが、この調子ではそれも難しそうだ。まずはこの世界での暮らしに慣れることが当面の目標だろう。




 その後、カミラに一通り城の内部を案内してもらった。廊下で誰かとすれ違うたびに恭しく礼をされる。まだ私の顔など広まっていないはずなのに不思議だった。


「この世界では、やはり黒髪は珍しいの?」


 カミラの必死の説得により、彼女に対する敬語は取りやめることにした。二人のときはまだしも、こうして第三者がいる場面で私が彼女に敬語を使うとカミラが却って居心地が悪くなると言うのだから仕方がない。だが正直、年の近い女性と気軽に話せるようになれたことは私にとっても大きかった。いくらかストレスが軽減される。


「珍しいというよりは、勇者様か聖女様しかいらっしゃいませんね。……ここでいう、勇者様、聖女様はあちらの世界から転移されてきた方々のことです」


 カミラの案内で綺麗に手入れされた庭に足を踏み入れる。作業をしていた庭師が私たちの姿を見るなりそれを中断して、委縮したように身を縮めていた。何だか申し訳ない気分だ。


「勇者に聖女って……まるで御伽噺みたいね。そんなに転移者は有能な人たちばかりなの?」


「もともと転移された方々は、魔力のポテンシャルが高いとされておりますので……こちらの世界で生きることを選ばれた方は、大抵そのように呼ばれることがですね。もっとも、魔物は陛下が討伐なさったので今後はそのような呼ばれ方も少なくなるかもしれませんね」


 どうやらこの国では転移者は大切にされるようだ。私の黒髪を見て街の人たちが跪いたり興奮していたりしたのも納得がいく。


「陛下は、歴代の転移者の方々の中でも飛び抜けて優秀なお方です。だからこそ、魔物の討伐も叶ったのです。街では、そんな陛下の妹姫が転移なされたとお祭り騒ぎのようですよ」


「そんなにもてはやされても、私には兄のような才能は何も無いわ」


「いいえ。エナ様は陛下と同じ大変上質な魔力をお持ちです。卑屈になることはございません」


 自分が努力して得たもの以外で褒められても、あまり喜べない私はきっと可愛くない性格をしているのだろう。私はこの世界の人に何かしてあげたわけじゃない。何なら一日でも早くこの世界から去りたいと考えているのに、何だか複雑な気分だった。


 ふと、庭に咲き乱れた薄い紅の花から甘く良い香りが漂ってくる。色も形もまるで違うが、どことなく、金木犀に似た香りだ。


「……いい香りだわ」


「お気に召しましたか? では、後程お部屋に持っていきましょう」


 私はそっと屈んでその小さな花に触れた。あの世界ではまだ夏が始まったばかりだというのに、ここで秋の香りに触れることになるとは何だか妙な気分だった。


「今、摘んではいけないかしら」


「そんなことはありませんよ。ちょうど庭師もおりますし、今、用意させましょう」


「わざわざ大丈夫よ。自分で摘めるもの」


 そっとその細い茎に手を伸ばす。棘が有るわけでもないので、充分自分の手で摘めそうだ。だが、いざ手折ろうとすると何だか手が進まない。


「……でも、そうね。折角生きているのに可哀想だわ。このままにしておいてあげましょう」


 どうせ短い花の命なのだ。好きなようにここで咲かせてあげたほうがいいだろう。昨日の兄の一件を余程引きずっているのか、命を自分の思い通りに操ることにいつになく抵抗を覚えてしまった。


「エナ様……何てお優しいのでしょう。カミラは本物の聖女様にお会いしたような気持ちです」


「それはちょっと言いすぎだわ……。そんな慈愛の心で言ったわけじゃないのだから」


 この後、「エナ様は聖母のような慈愛に満ちたお心をお持ちだ」とか「エナ様こそが創国以来我らが待ち望んでいた本物の聖女様だ」とか妙な噂が流れていたのは間違いなくカミラのせいだと私は思っている。

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