第8話

 リヒトさんと別れた後、私は朝から世話をしてくれていたメイドさんと漸く言葉を交わすことが出来た。彼女の名はカミラといい、とある男爵家の令嬢らしい。


「私など、ぽっと出の小娘にすぎませんから、もっと楽になさっていいんですよ。カミラさん」


 せめて二人きりのときはもう少し楽にしてくれてもいいのに、という程度にはカミラさんは完璧だった。どうやら同僚の中でも相当優秀らしい。


「どうか、カミラと呼び捨てになさってください、エナ様。昨日の今日でまだご自覚がおありにならないのかもしれませんが、エナ様は陛下の妹姫なのです」


 何かにつけて「陛下の妹姫」だ。兄の恩恵にあずかっているようで正直好ましい状況ではない。


 そもそもこの豪華な部屋も衣装も食事も、兄に与えられたものなのだ。贈り物一つ突っぱねたところで、兄の世話になっていることに変わりはない。


 かといって、言葉の自由が利かないこの世界で城を出て一人暮らしを始めるのも不安だ。そこで私は、不便はないかと尋ねてきた執事らしき老齢の男性に頼み込んでみた。


「不便というわけではありませんが、私にも何かお仕事をくださりませんか」


「お仕事……ですか?」


「そうです。せめて、自分の生活費くらいは自分の手で捻出したいと思いまして」


 兄の世話にはなりたくないのです、とは言えなかった。いくら腹が立っているとはいえ、この世界では一国の王である兄を易々と侮辱するわけにもいかない。


 私だって、何も城の外に出るとは言っていない。仮にも王妹がふらふらと街を出歩いていいはずがないのだから。だからこうして執事に城内の仕事を依頼しているのだ。何なら、カミラの仕事の手伝いでもいい。


「エナ様、何もお気になさる必要はないのですよ。それほどに、あなたの兄上様の成し遂げたことは偉大なのです」


「……分かっています。ですが、これは私の気持ちの問題なのです」


 執事の男性は少し困ったように表情を曇らせていたが、やがてやんわりと了承してくれたようで、陛下に相談してみます、とだけ答えて去って行った。何だかいい返事が望めそうにもない空気だったが、ひとまずは返事を待ってみよう。






「エナ様は変わったお方ですね」


 執事が帰った後、お茶を用意する傍らカミラがそんなことを呟いた。


「そうでしょうか?」


「はい、何といいますか、主体的に動かれていて素晴らしいと思います」


「それは……ありがとうございます。でも、カミラさんだって男爵家のご令嬢なのにこうしてお仕事をされていてご立派です」


「私の家は、そう大きなものではございませんので……」


 そう言いながらも、カミラの頬はほんのりと赤く染まっていた。照れると顔に出るタイプらしい。年上だが、可愛らしい女性だと思う。


 カミラの用意してくれた紅茶を一口口に運び、ほうっと息をついた。


 私が仕事をすることを兄は許してくれるだろうか。無論、兄の世話になりたくなくてこんなことを言い出したのだが、もう一つ目的があった。帰る手段の情報収集のためだ。仕事を通して関わる人が増えれば、元の世界へ帰る方法のヒントくらいは得られるかもしれない。箝口令が敷かれているため、人から直接聞き出すことは叶わなくても、何かの形で答えが残されていてもおかしくないのだ。


 ないとは言われたが、文献も漁ってみたいところだ。だがそのためには、文字を読めるようにならなければならない。


 カミラ曰く、目に作用する魔法は危険なものが多く、それこそ兄レベルの魔術師でないと難しいらしい。つまり私はこうして人と話す分には不便はなくても、文字は読めないのだ。まさか兄に頼むわけにもいかないので、地道な努力が必要になりそうである。


「カミラさん、手の空いているときでよいので、私に文字を教えて下さりませんか?」


「……やはり、お帰りになることを諦めていらっしゃらないのですね」


 カミラは小さく溜息をついた。彼女を困らせてしまっているだろうか。


「私は構いませんが……それこそ、ライスター公爵家のリヒト様にお願いしてみてはいかがですか? エナ様の世界の言葉もお話になられるようですし、知識の幅が広がるかと」


 確かに、それは一理ある。人の好いリヒトさんならば受け入れてくれそうな気がした。


「……リヒトさんは、どんな方なのですか?」


 きっと、世間一般にも好かれている人なのだろうということは予想できたが、カミラの言葉は予想以上のものだった。


「リヒト様はライスター公爵家の跡継ぎで、王妃様の従弟にあたります。陛下ともご友人関係だと窺っています。あとは……そうですね、女性に大変人気がありますね。小さな姿絵が出回るくらいには。貴族の令嬢はこぞって婚約者に名乗りを上げているそうですよ」


「そ、そうなんですか……」


 まあ、あの端整な顔立ちだ。無理もない。あまり親しくしすぎると、余計な恨みを買ってしまわないかだけが心配だった。


「陛下がご結婚なさる前は、女性の人気を陛下と二分されていたのですが……陛下が王族になられてからというもの、リヒト様はますます人気を博したようです。恐らく今日もライスター公爵家には縁談が山ほど持ち込まれているでしょう」


「リヒトさんも大変なのね……」


 紅茶に角砂糖を追加して、くるくると混ぜる。ふわりと良い香りが漂ってきた。


「恐らくは、エナ様もお忙しくなられるかと」


「どうしてです?」


 さらに甘くなった紅茶を口に運ぶ。美味しい。糖分が全身に染み渡っていくようだ。

 

「陛下の妹姫であらせられますもの。きっと、お茶会や舞踏会のお誘いが山ほど来ますわ」


 お茶会、舞踏会。そう言った華々しいものに、女子として興味がないと言えば嘘になるが、今は面倒事が増えたくらいにしか思えない。一通りのテーブルマナーなどは知っていても、実践する機会が少なかったためきっとぎこちないものだろう。


「それって断れないんですか?」


「お相手によりますね」


 何だか頭が痛くなってきた。やらねばならぬことが多すぎる。これもすべて、今すぐ帰ることが出来ればしなくても良かったことなのだと思うと、余計に兄に対する怒りが増すようだった。 

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