第5話

 玉座に吸い寄せられるようにして、私はふらりと一歩踏み出した。未だに目の前のこの光景が信じられない。それは向こうも同じようで、玉座から立ち上がったまま、茫然と私を見ている。


「瑛奈なのか……?」


「そう……だよ。瑛奈だよ……!」


 段々と、兄に再会できた喜びが現実のものとして味わえるようになってきた。たまらず、私は玉座の方へと駆け出す。


「兄さん……! 会いたかったっ……」


 迷わず抱きついた私を、兄はしっかりと受け止めてくれた。苦しいほどに抱きしめられる。


「瑛奈っ……俺も、俺も会いたかったよ。こんなに、大きくなったんだな……」


 無理もない。兄の記憶の中の私は、6歳の姿のまま止まっているはずだ。私だと分かってくれたこと自体、流石だとしか言いようがない。やはり、私を大切にしてくれた兄さんなだけある。


「瑛奈……」


 気づけば、私はぼろぼろと涙を零していた。兄のいかにも上等な服が濡れてしまうが、それでも今は離れることは出来ない。数年ぶりの懐かしい人の温もりを、今はただ味わっていたかった。








 ひとしきり、再会を喜び合った後、私はおおよその話を聞かせてもらった。


 兄は、10年前、事故に遭ったとき、私と同じようにこの世界に転移してきたらしい。どうやら兄には、国の規模で見てもトップレベルの魔法の素質があったようで、もともと持ち合わせていた優秀な頭脳を余すところなく活かし、すぐにこの世界に馴染んだそうだ。学園に通い、飛び級するほどの好成績で卒業した彼はすぐに上級魔術師の仲間入りを果たし、皆に慕われていたという。


 そんな折、古くより王国に蔓延っていた魔物が活発化し、優秀な兄は魔術師として魔物討伐に抜擢されたそうだ。その活躍は目覚ましいものであり、彼の手によって王国の魔物は滅び、再び王国に平和がもたらされたのだ。


 もともと王女に求婚されていたことも相まって、魔物討伐の褒美として、先王が兄さんに王女との結婚を打診し、それを受けた兄は事実上の王位継承権第一位となった。そして、昨年、先王が亡くなったのをきっかけに玉座に座る次第となったようだ。



 そんな、まるで御伽噺のような武勇伝を、先ほど玉座の前に跪いていた老人がどこか自慢気に語る。彼はこの国の大臣らしく、忠実な兄の臣下のようだった。兄は、大臣だけでなく、国民からも慕われている王だという。

 

「そうだったんですね……。ご丁寧に、ありがとうございます」


 私は一通りの話を聞き終え、大臣に礼を述べる。滅相もございません、と却って大臣は恐縮してしまったようだ。王の妹というだけなのに、何だか大袈裟な反応だ。


「兄さんは、やっぱりすごいね」


 玉座の隣に急遽用意された椅子に座ったまま、兄を見上げる。彼は、とても穏やかな表情をしていた。


「瑛奈にそう言われると照れるな」


 その声に、私は心の底から安心していた。こんなにも楽しそうな兄は、生きているときには殆ど見なかったからだ。優秀すぎる兄にとっては、元居た世界はきっと退屈だっただろう。この世界に来て、自分の才能を余すところなく発揮し、国の頂点にまで上り詰めたのだから、それは充実した10年間を送ったはずだ。


 良かった。たとえ私と同じ世界にいなくても、兄さんが幸せに生きていてくれて。国民から慕われ、あんなにも美しい奥さんがいて、何不自由ない生活を送っている。その優秀な頭脳だって、政治に思う存分活用できるだろう。きっとここでは、退屈なんてしないはずだ。


「……お父さんとお母さんにも、兄さんのこと、伝えてあげたいな」


 全部は信じてくれなくても、兄さんは幸せに暮らしていると伝えたい。あれほど兄さんの死を悲しんでいた両親にとって、僅かでも救いになればそれでいいのだ。


 兄さんは、穏やかに笑ってそっと私の頭を撫でる。ふっと、先ほどの青年の言葉が蘇った。


「……でも、帰ろうと思えば帰れたのに、兄さんはこちらの世界を選んだのね」


 不意にその事実に気が付いて、胸の奥がちくりと痛んだ。いや、もしかすると帰る手段が分からなかったのかもしれない。あるいはその手段を知る前に、指輪がなくなってしまったのかもしれない。出来ればそうであってくれと願いながら、兄の次の言葉を待った。


「……そんな話、誰から聞いた?」


 ふっと、兄の声音が冷たくなる。ああそうだ。兄は優しいが、こういう面もある人だった。触れてほしくない領域に踏み込めば、いとも簡単に壁を作ってしまう。


「――リヒトか」


「……申し訳ありません」


 私をここまで導いてくれた青年が、すぐに跪く。何だか私のせいで咎められているのを見るのは、耐えがたかった。


「兄さん……あの方は、私を安心させるために教えてくださっただけだよ。そんなに冷たい声で咎めないで」


「……安心させる?」


 今度は、兄の鋭い眼差しが私に向く番だった。どくん、と心臓が跳ねる。そんな目で兄が誰かを見ることはあっても、私を見たことは一度も無かったのに。


「……そうか。瑛奈は、あの世界に帰りたいんだな」


 責めるような、酷く冷たい声だった。思わず委縮してしまいそうになるが、このまま黙り込むわけにはいかない。


「それは……そうだよ。私、花火大会で事故に巻き込まれて……気がついたらここにいたの。きっと、お父さんもお母さんも心配してる。帰れるものなら今すぐにでも帰りたいの」


 あちらの世界では、私は行方不明にでもなっているのだろうか。状況が全く分からないだけに、不安は大きかった。


「兄さんと会えたのは嬉しいし……出来ることなら離れたくないけれど……。でも、行かなくちゃ。この指輪があるうちは、帰れるんでしょう?」


 兄が、こうして幸せに生きていてくれたと知っただけでも幸いだった。事故の代償にしては、本当に十分すぎるほどに。


 だが、兄は厳しい雰囲気を崩すことなく、軽く口元に手を当てた。


「そうか……指輪のことまで、知ってしまっているんだな」


「そうなの。でも、肝心の帰り方はまだ知らないから、兄さん、教えてくれる?」


 私の頼みなら、兄は何だって聞いてくれた。今回だって理不尽な要求をしているわけではないのだ。残念には思っても、すぐに納得してくれるだろう。


 だが、10秒後、私は自分の考えが甘かったと知る。


 兄は、不意に玉座から立ち上がると、何やらぶつぶつと呟いた。その直後、広間中を美しい緑の光が駆け巡り、そのうちの僅かな光が、王妃や、青年、大臣、使用人たちの口に吸い込まれていく。


 一通り広間を駆け巡ったその緑の光は、いくつかに分散するとそれぞれ窓の外へと飛び出していった。私はその光景を唖然として眺めることしか出来ない。恐らく、魔法の類なのだろうが、何をしているのかまるで分らなかった。


「勝手ながら、箝口令を敷かせてもらった。――指輪を持つ者が元の世界に戻る方法についてだ」


 兄の言葉を受けて、広間は水を打ったように静まり返っていた。誰もが息を呑むような緊張感が走る。兄は、この10年ですっかり支配者の格になったらしい。


 数秒して、ようやく兄の言葉の意味を理解した私は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、兄を見上げる。


「……どういうこと、兄さん。箝口令って……。兄さんは、教えてくれるんだよね?」


 訳が分からず、引きつったような笑みしか浮かべることが出来ない。早く、そうだよと言ってほしかった。


 だが、兄はそっと私の頬に触れると、にこりと笑ってみせた。綺麗で優しいはずの兄のその笑顔が、今はただ怖くて仕方がない。


「――何言ってるんだ? 教える訳ないじゃないか」


 すっと、血の気が引いていく。兄の目はただ愉しそうに揺らいでいた。


「残念だったね、瑛奈。俺はもちろん、国中の誰を当たったって、もう誰も帰る方法は教えてくれないよ。文献を探そうとしたって、もともとそんなもの存在しない。……だから、帰ることは諦めようね?」


 何を、言っているの。兄さん。声にならない言葉が落ちていく。思わず、私に触れる兄の手から逃れるように、後退った。


 兄は、まるで幼子に言い聞かせるように、私から帰る手段をいとも簡単に奪ってしまった。足ががくがくと震えだす。


「い、嫌……そんなの嫌だよ」


 思わず、私は先ほど兄の武勇伝を語ってくれた大臣の傍に詰め寄る。


「お、お願い、教えて、帰る方法。知っているんでしょう? 私を憐れと思うなら、箝口令なんて無視して教えてよ……?」


 私に詰め寄られた大臣の目には、確かに憐れみの情が浮かんでいたが、大臣はゆっくりと首を横に振る。


「……それは、この国の誰にもできますまい。陛下の敷かれた箝口令は、魔法によるもの……。この国に、陛下の術を破れる者など、誰一人としておりません」


「エナ、あまり人を困らせてはいけない。どうしてそんなに帰りたがるんだ? 寂しいじゃないか」


 兄がそっと私の肩に手を乗せる。殆ど反射的に私はその手を振り払い、兄を振り返った。


「どうしてもこうしてもないでしょう!? お母さんもお父さんも、きっと心配してる……。友だちだって、私なりに築き上げたものだってたくさんある。それを全部見捨てられるわけない!」


 兄は、賢い頭脳を持っているはずなのに、どうしてそれが分からないのだろう。兄から逃げるように、私は壁際に控える使用人たちに詰め寄った。


「お願い、ねえ、お願い。誰か教えてよっ……」


 だが、誰もが気まずそうに私から視線を逸らすだけで、誰一人口を開くことは無かった。あまりの絶望感に、再びぼろぼろと涙が零れ落ちる。


「諦めの悪い子だな、エナ。君はこの城で、王妹として何不自由なく暮らせばいいだけだ。あちらの世界より、面白いものがたくさんあるよ」


 近づいてくる兄の足音を聞きながら、私はその場に崩れ落ちた。すぐに、再び兄の手に捕らえられる。


「……どうして、どうして、こんな酷いことを……」


「酷い? すべてはエナと一緒にいたいっていう兄心じゃないか。分かってくれなくて兄さんは寂しいよ」


 誰も、誰も助けてはくれないのだ。絶対的な力を持つ、この兄の前では。これだけ広間に人がいて私に同情してくれても、誰も私を帰してはくれない。


「お父さん、お母さん……ごめんなさい」


 あまりの絶望に、体がついていけなくなったのだろう。ぽつりとそう呟いたのを最後に、私の意識は暗闇へと落ちていった。

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