第3話

 青年の話の通り、馬車の前ではいわゆるメイド服姿の中年の女性が待っていた。白髪の混じった茶色の髪をきっちりとまとめ上げ、どことなくきつい印象を受ける女性だ。


 彼女は青年の姿を認めるなり、私の分からぬ言語で何やら話しかけると恭しく礼をした。続いて青年が抱える私に視線を移すなり、ぎょっとしたように目を見開く。どうも厳しそうな女性だから、私のこのボロボロの浴衣姿に嫌悪感を抱いたのかもしれない。


 だが、女性はすぐさま薄い毛布のようなものを取り出してくると、私に巻き付けるようにそっとかけてくれた。その仕草は一つ一つが丁寧で、乱雑に扱われている気はしない。


「ひとまず、僕の屋敷にでも来てもらいましょうか。あなたには、靴も着替えも必要でしょう」


「……ありがとうございます」


 本来ならば見知らぬ人にそこまで世話になるのは心苦しいのだが、そうも言っていられない状況だ。座り心地のよい馬車の椅子にそっと降ろされ、軽く息をつく。


 向かい側には青年が座り、メイド服姿の女性が慎ましく礼をすると馬車の扉は閉められた。そのまま静かに馬車は動き出す。この青年の屋敷とやらに向かっているのだろう。


「……助けていただいて、ありがとうございます」


 優雅な微笑みを浮かべる青年との沈黙に耐えきれず、私は改めて礼を述べた。正直、何から聞き出せばよいのか分からなかったという面もある。


「いいんですよ。このくらい。それより、あなたは……」


 青年は言葉に迷うように私から視線を離した。だが、すぐに再び微笑みを浮かべ、穏やかに語りかけてくる。


「いえ、お見せしたほうが早そうだ。どうか、お手をお貸しいただけますか」


 両の手をお願いします、と言われ、私は素直に手を差し出す。その手を包み込むように、青年の大きな手が重なった。


 そうして青年がこの世界の言葉で何やら囁くと、ふと手の中に温かいものの存在を感じる。


「開けてみてください」

 

 言われるがままにそっと手を開いてみれば、私の手の中に小さな白い花が置かれていた。私の髪飾りの花とよく似ている。言うまでもなく、先ほどまで私は何も持っていなかったはずだ。


 こんなのは、まるで魔法じゃないか。そう考えてはっとする。


「このような現象に、馴染みはおありですか……?」


 私は首を横に振るしかなかった。こんな魔法みたいな現象、私の日常には存在しなかった。


「そうですか……」


 青年は、穏やかな笑みを崩すことなく、されど困ったように窓の外を眺めた。その横顔に、私は静かに問いかける。


「ここは……どこなのでしょうか」


 青年は、言葉を逡巡するように視線を彷徨わせたが、やがて真っ直ぐに私の目を射抜いた。彼の目は、まるで空のように綺麗な青色だった。


「恐らくは、あなたがいた世界とは別の世界なのでしょう。この世界で生きてきて、魔法を見たことがないだなんてありえませんからね」


「……別の世界、だなんて……よく、そんな突拍子もない考えに至りましたね」


 私だって、考えないわけではなかったが、あまりにも突飛な考えで認めたくなかったのだ。それだけこの世界の人は柔軟な考え方が出来るのだろうか。魔法なんてものが存在するくらいだし、そのくらい不思議でも何でもないのだが。


「……僕の友人が、別の世界から来た人なのですよ」


「別の、世界から?」


「……恐らくはあなたと同じ世界の人でしょう。あなたと同じ髪と瞳の色をしている」


「それは……よくあることなのですか?」


「10年に一人か二人程度でしょうかね」


 まずまずな頻度のように思うが、青年はさらりと言ってのける。次々と明かされる真実に、頭が置いていかれそうだ。


「あなたは、どうして私の言葉を理解できるのですか?」


「――先ほど言った友人に教えてもらったのです。流暢なものでしょう?」


 その友人に会ってみたかった。私と同じ言葉を話すということは、同じ国から来た可能性が高い。どんな人かは分からないが、一人ぼっちよりずっと心強いのは確かだ。


「大丈夫です。そんなに不安そうな表情をなさらずとも、帰りたければすぐにでも帰れますよ。――その指輪があるうちは」


「指輪?」

 

 青年の視線の先を辿るようにして、私は自らの右手をじっと見つめた。まったく気が付かなかったが、そこには濃い赤色の小さな石が嵌められた銀の指輪があった。見事に私の指にフィットしており、違和感を感じさせない造りになっている。


「……私、こんな指輪に心当たりはありません」


「そうでしょうね。でも、こちらの世界で目覚めたときからあなたの傍にあるはずですよ」


 そうだっただろうか。あまりにも周囲のことに気を取られすぎていて、こんな細い指輪のことなど気づく暇もなかった。私も相当、気が動転していたらしい。


「まあ、細かいお話は後程お聞かせするとして……あなたのお名前をお聞かせ願えませんか?」


 思えば自己紹介もまだだった。私は軽く視線を正し、青年に向き合う。


「申し遅れました。時雨しぐれ瑛奈と申します」


「……シグレ?」


 この世界の人には聞きなれない言葉だっただろうか。瑛奈の方がファーストネームなのだと弁明したほうが良いのかもしれない。


「エナ様、カイ、という名に心当たりはございませんか」


 弁明する間もなく、瑛奈をファーストネームだと分かってくれた辺り、この青年はよほど私たちの世界について詳しいのかもしれない。


 だが、今はそれよりもこの青年が「カイ」という名を口にしたことに衝撃を受けていた。指先が軽く震える。


「……私の――」


 カイ。かい。それはまさしく、八年前に亡くなった兄の名だ。一日だって忘れたことは無い。


「――私の、兄の名です」


「エナ様の兄上の……?」


 青年がここに来て初めてひどく動揺した表情を見せる。


 やがて軽く息をつくと、御者のいる方向の壁を叩き、静かに告げた。


「……行先は変更だ。王城に行ってくれ」


 突如飛び出した王城という言葉に、いよいよ私は思考を手放した。最早私があれこれ考えたところでどうにかなる段階にないのだ。きっとそうだと言い聞かせて、質の良いソファーの背もたれに体を預けた。


 一体、私の身に、何が起ころうとしているのだろう。

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