夜行列車
くるみ
夜行列車
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
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秋晩のある日のことである。
その夜は鈴虫でさえ鳴き止んでしまうほどに、秋という季節にしては冷え込んでいた。抜けるような空の暗がりから冷気が真下に押し寄せる感覚と共に、丁度、人肌恋しいと思い始める時期である。
工場の立ち並ぶ海沿いの地域から名古屋のターミナルを通り越し、山間を抜けて
端のほつれた、みすぼらしいTシャツを着た男である。何度も繰り返し着用しているのか元々白かったであろうそれはとっくに薄汚れ、シミと黄色い斑点が規則性のない、人を不快にさせるような模様のようにすら見えていた。
体は大きく、体格自体はがっちりとしていて良いものの、なにせ人に見せようと鍛えているわけではないため、筋肉の量がアンバランスで『暑苦しい』人にしか見えないのであった。
彼が、これまた錆びれて色褪せた列車に乗った時、そこには一人のすまし顔をした女がドア近くのつり革に手をかけて立っており、またフードを被った、ネズミのように縮こまった男がすぐ近くのシートに座っていた。見知らぬ顔である。
窓の外を見てみれば、道の両端にある電灯が夜闇の中一定間隔に煌めいて、しかし工場の汚れたトタン板を照らし、より一層廃れた街を強調しているかのようであった。
右手首のほくろを左手で触りつつ、どっしりと列車のシートに座る彼は、先週から海沿いの工場で働き始めたばかりなのだが、それ以前も、そのまた以前も彼は異なる工場で働き、解雇されてを繰り返しているので、職の不安定さを嘆きながらも、大きなため息をついた後、少ない安らぎの時間を与えられてふと思うのだ。
――果たして、このままでいいのだろうか、と。
度重なる再就職、上手くいかない対人関係、一向に増える気配のない給料。
もはや、各工場が手を取り合って、一生『新人』のまま自分をこき使おうとしているのではないか、そう想像をしてしまうほどに彼は傷心していた。
この職場も、一年二年たったら、また解雇されてしまうのだろう。
男自身はもはや、離職の恐怖に怯えることは無かった。ただ淡々とその言葉を胸の中で反復するのみである。いや、その裏にあるのは、そんな離職などとは考えていられないという焦りであって、今日を生きるのに精いっぱいであるに、どうしてそんな未来のことを想像できようかなんていう自分への苛立ちと不満の二つであった。いっそ、別の職に就ければいいのだろうが、彼に教養はなく、それなりに年もくってしまったため、これ以外の道を選べないのだ。
単純作業の繰り返し。
あぁ、もう、嫌になる。
彼はもう一度、大きくため息をつく。
窓の外で輝く電灯の数は減り、森の木々と畑の数が少しずつ増えていた。
列車は夜の空気を切り裂いて進み、その音は静けさへと吸い込まれていく。
一人の大男がその列車に乗っていた。汚れた服を着た、右手首にほくろのある男だ。
いくつかの駅を過ぎ、少しずつ乗っている人数も増えていた。男は、この時間にも列車に乗る人がいることに意外性を感じた。同時にその誰もかれもが、手に持ったスマートフォンに意識を向け、下を向いていることがどうにもおかしく、くすりと笑ってしまいそうであった。
突然ガサガサと音がして大男が顔を上げると、彼が列車に乗るよりも先に乗っていたねずみ男が立ち上がっていて、はて、どうしたのだろうと疑問に思った後、キィーと鉄のこすれる音が鳴り響き、あぁ、次の駅で降りるのかと合点がいった。
大男はさして興味がないのにもかかわらず、男の動向を目で追っていた。しかも、気づかれるのが嫌なので何処か伏目がちに追っているのである。こんな時間、こんな夜にあんな遠くから列車に乗りつづけるのは自分一人だけだと思っていたがために、妙な同族意識を感じたのだ。
列車が止まる。慣性に従って乗客の体が揺れた。ネズミ男がすまし顔女の体にぶつかる。二人の体がふらついていた。
――その瞬間、大男は見たのである。
ねずみ男が女のカバンからするりと何かを盗みだしたのを、蛇のように腕をくねらせながら赤い何かを取り出したのをその目に映したのだ。
女は呆けていたのか、何が起こったのか分からないかのように困惑し、しまいにはねずみ男に謝ってすらいた。
これは盗みに違いない。
白い蛍光灯の光を浴びながら男は即座にそう確信した。きっと奴は、あの女性から財布を奪ったのだと。
財布を盗んだのか、それとも他の何かを盗んだのか、大男には見分けられなかったのだが、彼の中には『盗む』ものといえば『財布』だという固定観念があった。というのもかつて、食いつなぐために盗みを働こうと考えたことがあったからだ。この世はお金さえあれば大抵のことはなんとかできるからと、道行く人の財布を奪おうとしたこともあったのだ。
結局、当時、それを実行するだけの勇気がなく、計画は頓挫してしまったのだが、今となってはそんなこと忘れているのにもかかわらず、そのころの思想がいまになって影響していた。
盗みは悪である。絶対的な悪であると大男は理解しているためその心中は怒りに震えていた。悪に対して寛容であっていいはずがないのだ。
今すぐにでもひょうひょうとした顔のねずみ男に声をかけ、「財布を取っただろ」と問い詰めて怒鳴ってやりたい。そして、財布を奪い返してあの女性に返してあげたい。
しかし彼がそう行動することは無かった。
そっと目線を下げると、知らぬ存ぜぬとばかりに右手首のほくろを何度も撫でたりつねったりを繰り返していた。
会社に迷惑をかけてはならない、とそう自分に言い聞かせて怒りを鎮める。
もしここで声をかけて、財布が女性のもとに返されたとしても、盗みは悪であるため警察が関わってくる。そうすれば、大男にも何らかの影響があるだろう。しかし決して、大男の職場環境は良いとは言えない。実際、そんなところまで捜査が及ぶことは無いだろうが、もしも大男の服などから労働環境を怪しまれ、職場を調べられたら、自分だけでなくそこで働く社員たちにまで迷惑をかけてしまう。間違いなく解雇だ。しかも再就職はできないだろう。なんせ工場のコミュニティーで『面倒なことに頭を突っ込む厄介な男』と認識されるに違いないからだ。そんな奴、誰も雇わないだろう。
男はそう無理くり理由を作りあげ、それまで心になかった離職の恐怖に怯えた。
クリーンなホワイト企業なら違うだろうが、彼にそんな会社に入る脳はない。
あぁ、会社に迷惑はかけられない、と大男は自分で自分を納得させる。必死に自己弁護をして、ようやく犯罪を見逃す決心をした。
プシューと空気の抜ける音と共に列車の扉が開く。
あぁ、早く出ていってくれ、とねずみ男に向けて大男は心の中で呟くが、ねずみ男は列車に居座り、出ていったのはすまし顔女であった。
それを不自然に思ったのは大男だけである。乗客は皆目線を下げ、新たに乗り込む乗客がいないからだ。
女が出ていくその時、有り得ないと分かっているのに、大男は女だけでなく乗客全員にギロリと鋭く睨まれたような錯覚を覚えた。
外はまだ暗かった。
女が下車した後、大男は既に本来降りるべき駅を通り過ぎているのだがどうにもそうできず、名古屋のターミナルでどっと人が下りるのを見届け、それに乗じてねずみ男も下りたため、あとをついていった。
冷たい外気が体を覆う。外は電灯だけでなく、ビル群の部屋からでさえ光が漏れだして、真昼とまでとはいかないものの眩しいと感じられるほどに明るかった。駅前近くには活気があったものの、ねずみ男の後を歩いて着いた駅裏の路地では人などほとんどいなかった。
ねずみ男を追っていると、なんせ相手は犯罪者の為何となくスパイをしているような気分になって、一層暗がりに入った時、
「なんで、さっき、財布を盗んだ」
などと大男は後ろからそう尋ねた。この勇気がどこから出てきたのか、大男にはさっぱりわからなかったが、ある種の好奇心があったことに変わりはなかった。あまりに突然のことだったため、ねずみ男は直ぐに後ろを向き、それが図体のでかい男だと知るや否や逃げ出そうとしたのだが、時すでに遅く、大男に腕を掴まれてしまった。一呼吸置いた後、ねずみ男は次のように答える。
「なんのことだ」
大男は何も言わなかった。ただ己の筋肉に物を言わせ、痛めつける程度に腕をつかんでいるだけで、ここにきて何を言おうかなんて考えていなかったのである。ただ悪人を追い、気分が乗ったから捕まえた。それだけのことであって、返答は、なめられないように少し握る力を強めただけだった。
しかしねずみ男はそれを「はぐらかすな」という意に捉えたようで、慌てた様にへらへらと笑顔を見せながら話した。
「いいや、少し待っておくれ。あんた今、どうして財布を盗んだかって聞いたよな。あぁ確かに、俺はあの女の財布を盗んださ。でも考えてくれたまえ。もしかすればあの財布はもともと俺の物だったかもしれないじゃないか。あの女が俺の財布を盗み、俺が盗み返した。そういう可能性は考えられないか? だとすれば、誰が俺を悪いというだろうか。どうしてもこうしても、盗まれただけだろうに」
そう言われた大男は、確かにそうかもしれないと思いつつあの場面を回想すると、しかしその色を思い出した。
「あの財布は赤色だった。赤色の財布が男の物であるはずがない。つまりあれは女の財布だ。それにお前は今、俺を見て逃げ出そうとした」
「そういうくだらない先入観を持つのはいけないと思うんだ。赤色が好きな男もいるかもしれないし、黒色が好きな女もいるかもしれない。それにこんな夜、あんたみたいな人間を見れば誰でも逃げたくなるだろうよ」
聞いていて、これまた確かにと大男は納得した。でも同時に、これがこのねずみ男に当てはまるわけではないことも分かっていた。
そして大男は、それで理由は、と再度唸るような声で問いかけた。
その声があまりにも低く、それこそ鬼のようであったため、ねずみ男は委縮してしまい、怯えながらも話し始める。
「確かに、確かにな、俺は今、本当ではないことを言った。あの財布はあの女の物だ。俺の物じゃ決してない。けれど、けれどな、俺は知っているんだ。俺はあの女のことをよく知っている。あいつの金はな、実は、奴の親から無理やり奪ったものなんだよ。あいつはな、あいつ自身の親を虐待してるんだよ。そうして年金やら貯蓄やらから金を吸収しているんだ。つまりな、あれは奴の金であって奴の金ではない」
大男は話を、ねずみ男から手を離して、右手首のほくろを撫でながら聞いていた。
もはや、大男がねずみ男の話を信じることは無かった。なんせ自分から、本当のことではないことを言ったと話したのだ。そんな人間をどうやって信じようか。
くだらない屁理屈を話す男もいたものだと、大男はねずみ男を冷ややかな侮蔑とともに睨みつける。怒りではない。侮蔑である。大男の中にあった好奇心も盗みも働いたことに対する怒りも何もかもが呆れに変わった。おでこに深く皺が寄って、どこか怒っているようにも感じられるその風貌にねずみ男は恐れおののき、ひきつらせた笑みを浮かべた。
「結局何が言いたいんだ」
「つまり、つまりだな、俺は良いことをしているんだ」
大男は、何を言ってるんだと思った。
「悪を成敗するのが正義だろ? だったら俺がしたことは正義じゃないか。金を無理やり奪った女から奪ったんだ。あの女もきっと分かってくれるだろうよ。なんせ、あいつは金に困っていて、俺も金に困っている。金が無ければあの女も俺も死ぬしかない。けれども、けれどもな、この国では今『死』ということに対して強い批判があるんだ。生きていれさえいれば正しいんだ。盗みは悪かもしれない。けれども正義のための悪はしてもいいんだ」
と、ねずみ男はそんな感じの、訳の分からない、いまいち真意の分からないことを唾を飛ばしながら捲し立てた。けれども同時に、これを聞いて、大男の中からは勇気が湧いて出てきた。いつかは出てこなかった勇気である。
大男はこれらを聞いて、右手首から左手を離した後、強気にこう問いかけた。
「俺はあの女が、親を虐待して金を得ていたということを知らない。だから俺からしてみればお前が一方的な悪なんだ」
ねずみ男はこう返す。
「俺が知ってるんだ。正義というのは誰かに見返りを求めるものではない。だから俺がその正義を知っていれば許されんだ。俺は今日を生きるのに精いっぱいだから、きっと神も許してくれようよ」
「そうだな……」
大男は冷めた目をねずみ男に向け一呼吸置いた後、こう話した。
「ならば、俺がここでその財布を盗んでも、神は許してくれような。俺も今日を生きるのに精いっぱいなんでね」
そういってねずみ男に殴りかかると、胸ぐらの財布を手に入れた。
男は再度、北行きの列車に乗り込むと、暗闇のなかを急いだ。
鈴虫の音が鳴り響いていた。
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ご覧いただきありがとうございます。
10/22 結末部分 『南行きの列車』を『北行きの列車』に変更
同部分 『男はこれから、二つの職を兼ねることとなる』を削除
その他更新は↓で
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