最後の灯火を運ぶ馬

金糸雀

第1話


最後の灯火を運ぶ馬

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『お主を拾ってからどれくらい経ったかのぉ』

『今年で六十四年になります』

『なるほどなるほど、もうそんなに経つんじゃな。道理であんな小さかった子供が老いぼれた老体になる訳じゃ』

 街の片隅で毛布に包まって寒さを凌ごうとしている一人の少年がいる。気温が零度を下回る極寒の地で薄汚れたボロボロの毛布を一枚だけ、その程度では気休めにもならないのか肌を突き刺すような冷風に晒されて少年の体が尋常じゃないほど震えている。

『くくっ、随分と寒そうじゃのぉ』

『……実際に寒かったですよ。あの頃は一晩越すのですら命懸けでしたので』

 少年が毛布に包まって必死に寒さに耐えている所に、少年よりも数歳ほど年上の少年たちが現れて少年が持っていた毛布を剥ぎ取ろうとする。少年は必死に抵抗しているが多勢に無勢、何度も蹴られた挙句毛布は奪われてしまう。残されたのは毛布よりもボロボロな服のみ。痛みが走るような寒さに少年の顔色が徐々に悪くなって行く。そこに、一人の少女が現れる。腰まで伸びる黒光りの髪に、右目の瞳が黒色、左目の瞳が白色のオッドアイ。肌の色は何者にも触れられて事のないほど穢れなき白さを保ち、それを際立たせるように闇夜に溶けこむような黒いゴシック調のドレスを身に纏っている。少年よりかは少し年上だが、それにしては表情や立ち居振る舞いが余りにも大人びた風貌を醸し出している。幼さの残る容姿で浮かべる妖艶な笑みが、少女の歪さを強調している。

『風前の灯とはまさにこの事じゃのぉ。お主もそうは思わんか?』

『ええ、私もそう思います』

『今のお主ならそう答えるんじゃな』

『それくらいの余裕が今の私にはあるという事です。それも全て、ご主人様のおかげですよ』

 少女は貴賓な見た目を崩すように、声を出しながら高らかと笑う。少年はそれを冷たい地面に這い蹲った状態で見上げている。その瞳には何の感情も浮かんでいない、ただただ相手の姿を映し出すだけの鏡となっている。そんな瞳に見つめられた少女は面白そうに含み笑いを浮かべ、膝を曲げて這い蹲っている少年の耳元に顔を寄せる。そこで何かを言われたのか、少年は寒さで悴む唇をゆっくりと動かす。その言葉に少女は満足したように口元を歪め、少年へと手を差し出す。

『あの頃は可愛かったのぉ。それが今となっては皺だらけの老体になりおってからに』

『私は人間ですから。魔女である主人様はあの頃から変わらずお可愛いことで』

『ほほぉ、主人に向かって可愛いと申すとは、お主も言うようになったのぉ』

 二、三歳成長して少女と同じくらいの背丈になった少年が、少女の体にしがみ付きながら箒に跨って空を飛んでいる。太陽が煌めく青い空を、髪を強く靡かせながら自在に飛行し、その度にしがみ付いている少年の力が強くなっていく。少女は恐がる少年を悪戯っ子が浮かべる様な目つきで見て、急降下と急上昇を何度も繰り返す。その度に少年が上げる悲鳴を聞いて少女は高々と笑う。

『あの頃は本当に可愛かったのぉ。……あの頃に戻らんかねぇ』

『……乞うご期待とだけ言っておきましょう』

『くくっ、楽しみにしておくとしよう』

 散々虐め倒して満足したのか、少女は安定的した飛行状態に戻す。そして腰に頭を埋めながら震えている少年に声を掛ける。少年はそれでも顔を上げなかったが、少女に何かを言われてから恐る恐ると顔を上げる。そして暗かった少年の表情が徐々に明るくなっていき、ついには子供らしいあどけない笑みを浮かべて燥ぐ。その度に箒が揺れるのだが、今の少年にはそんな事は気にもなっていない。そんな少年の姿を、少女は我が子を見守る母親の様な優しい目で見ている。

『……もう一度、一緒に飛びたかったと思うのは、我儘なのでしょうか?』

『もう少し前に言っておれば、それも可能だったじゃろうな。今となっては叶わぬ夢じゃよ』

『ですね……』

 少年の背丈が少女よりも二〇センチも高くなり、顔つきや体つきも少年らしさが抜けて青年へと変化しつつある。少年は焚火を前にして厳しい表情を浮かべながらスープを煮込んでいる。時折お玉を上げて味を確認するが、その度に微妙な顔になって調味料や具材を加えていく。それを正面で見ている少女の表情は若干引き気味である。

『お主の料理が美味くなるまで、随分と時間が掛かったのぉ』

『面目次第もございません。調合のコツはすぐに掴めたのですが、どうも味を良くするコツを掴めなかったもので』

『そうじゃな、料理はイマイチじゃったのに調合は上手かったからのぉ。魔女の従僕としてはそちらが出来れば問題ないんじゃが、ワシの従僕としては半人前じゃったな』

 少年は煮込んだスープをおたまで掬い取り、陶器製の器に移していく。ある程度器を満たしてから少女に手渡し、もう一つの器に自分の分を満たしていく。少女に促されて少年はスープを口に運ぶ。眉を顰めながらゆっくりと味を噛み締める。続いて少女もスープを口に運んで一回噛み、顔を顰めつつ強引に飲み込む。そして残ったスープを全て鍋に戻し、少女が手を加え始める。

『今となってはあの味も懐かしいもんじゃな』

『あの味を懐かしいと感じるのは、流石に如何なものかと……』

『お主の成長過程の一環と思えば、あの味もワシにとっては思い出じゃよ』

 少年は今や少女が見上げなければならない程に背丈もガッチリと成長した青年は、両手で抱えられる限界以上の荷物を持ちながら少女の跡をついてパリ市の街中を歩いている。その多くは食料だが、中には怪しげな薬草や鉱物も含まれている。大の男とはいえ荷物の重量は相当なものなのか少女に助力を乞うている様だが、少女は笑いながらまともに応じようとする気はない。

『あの程度の量で根を上げるなど、まだまだ根性が足らん証拠じゃな』

『腕が捥げるのではかという量の荷物を、あの程度と仰いますか……』

『普段は熊や猪を運んどったじゃろうが。あれに比べれば大した量ではなかろうに』

『あれも実際は厳しかったのですよ。ご主人様は毎回手伝っては頂けませんでしたし』

『当然じゃろ。その為にお主がおったのじゃかならな』

 腕の限界を感じたのか、青年は休息を求める。少女は一旦は呆れた表情を浮かべたが、一度ため息をついてから近くに見えたレストラトゥールを指差してから青年を置いて入っていく。青年は慌てた様子でその後を追ってレストラトゥールに入る。閑古鳥が鳴いている閑散とした店内で、先んじて中に入った少女と店主が揉めている。少年は荷物を置いてその中に割って入ろうとするが、少女と店主の言い争いは止まらない。

『まさか入って直ぐに揉め事を起こすとは思いませんでしたよ』

『あれはあの店主が悪いんじゃ。魔女に出す物はないとほざきおったからのぉ』

『仕方ありませんよ。革命の余波でギルドが潰れて、レストラトゥールも多くが営業停止に追い込まれましたから。その原因の一旦は魔女の方々ですし』

『ふん、ワシは関わっとらんから関係のない事じゃ』

 言い争いの決着がついたのか、店主は忌ま忌ましそうな表情で店の奥へと入っていく。少女も不機嫌そうに青年が引いた椅子に腰掛ける。青年は少女の正面の椅子に腰掛けて待つ事幾ばく、店主が大きな鍋を持って来る。見境なく様々な具材を香辛料と共に鍋で煮込んだだけの、大雑把な煮込み料理だ。それを見た青年は料理を口にしてから、視線を前方に移す。目の前に座る少女の怒りに震えた表情からその後の顛末を察したのか、こっそりと立ち上がってそばに置いた荷物を回収して外に出る。その直後、少女の怒りの叫びと嵐の様な轟音、そして店主の叫び声を耳にして、青年は溜息を吐く。

『齢三〇〇年を越えるのですから、今後は人間相手に大人気ない行動は慎んでくださいね』

『一〇〇にも満たん小童が何を申すか。ワシは魔女じゃ。礼節を弁えた者にはそれなりの対応をしてやるが、礼節を知らん者にはそれ相応の報いを与えるのが道義じゃ』

『…………他の方々もそうですが、相変わらず頭が固いですね』

『今、何か言ったかのぉ?』

『いえ、何も言っておりません』

 より一層、精悍さを増した顔つきになった青年は、必死な表情を浮かべながら今にも爆発しそうな少女を宥めている。しかし逆効果となっているのか、少女の逆鱗によって青年が吹き飛ぶ。その光景を見ていた青年よりも更に屈強な船乗りの男達が、怯えた様子でなんとか落ち着いてもらおうとするが、少女の怒りが収まる様子はない。少女は何度も海をさしながら叫ぶが、船乗り達もその願いは聞き入れられないのか、一向に場が収まる気配はない。

『……お主は何でこんなしょーもない事ばかりを思い出すのじゃ』

『そ、そう言われましても、私が選んでる訳ではありませんから……』

『だとしても、もっとマシな思い出があるじゃろ!』

 しばらくすると騒ぎを聞きつけたのか、二名の警察官が港に近づいてくる。船乗り達は警察官達に事情を説明すると、警察官達は険しい表情を浮かべながら少女に詰め寄る。それを気にも返さない少女は、警察相手にも関わらず自分の主張を押し通す。その内容が警察官には看過できなかったのか、少女を無理矢理連れて行こうとする。それが少女の線を越えたらしく、少女は腕を掴んできた警察官の股間を蹴り上げた。警察官は顔を真っ青にして股間を押さえながら蹲る。同時に周りにいた青年と船乗り達の表情も青くなる。もう一人の警察官が少女を取り押さえようとするが、少女が何かを口にした途端、警察官がその動きを止める。動けなくなった警察官にゆっくりと近付いた少女はその体に触れる。すると警察官は突然睡魔に襲われた様に地面に倒れる。周囲が呆然とする中、一番に我に帰った青年は慌てて少女を脇に抱えて、一目散にその場から立ち去る。

『自分の我儘のために魔女の力を使わないで下さいよ』

『言ったじゃろ。ワシは礼節を弁えん者にはそれ相応の報いを与えるとな』

『彼らは仕事でやっていただけなんですから、そんな相手にまでムキにならないで下さい。俗世で生きようとするなら、せめて忍耐力がないと困ります』

『……ふん、最近の小童どもが魔女に対して敬意を払わんのが悪いんじゃ』

 顔に皺が増えて、徐々に貫禄さが見え始めるおじさんになった青年は、透き通る様なマリンブルーの大海原で簡素なボートを漕いでいる。雲一つとない晴天の真っ只中、ボートの上で優雅に寝転がっている少女を恨めしそうに見つめながら汗を拭う。それでも文句を言わずに舟を漕ぎ、ようやく目的の場所に到達したのかオールを置いて少女を起こす。少女は渋々ながらも起き上がり、ビンに入っている薬を大海原に流す。すると青い海が徐々に赤く染まって行き、突如、苦痛に喘ぐ獣の様な叫びが響き、ボートを飲み込む程の大きな波を起こしながら、海中から巨大なイカが出現する。

『ほぉ、クラーケンの討伐じゃな。懐かしいのぉ』

『ご主人様と討伐した中では、一番の大物でしたね。海の上でしたし、危うく死ぬかと思いましたよ』

『神獣の類を相手にするには、真祖たるワシの従僕とはいえ厳しいからのぉ』

 波に飲まれた小舟から大海原に叩き出された小父は、持っていた薬を飲んで急いでその場から離れていく。その間も箒に乗って空を飛ぶ少女は、海中から伸びる白い触手を躱しながら魔女の力を持って応戦している。足手纏いにならない様に距離を取った青年は、流された小舟を探して潜り続ける。流石に荒れ狂う大海原に漂う小舟を探すのに苦心したのか、ようやく見つけた時には息絶え絶えの状態だ。それでもすぐに舟を起こして乗り込み、巨大なイカが出現した場所まで戻る。空が茜色に染まり始める時刻、既に少女とイカとの戦いには決着がついており、小父が戻ってくるのを待っていた少女の真下には死体となった巨大なイカが浮いている。小舟に降り立った少女は相当疲れているのか、一言だけ口にしてからすぐさま眠りにつく。小父は舟に括られていたロープを一端をイカの死体に投げる。魔女の力が働いているのか、ロープは勝手にイカの全身に巻きつく。それから小父は懐にしまっていたもう一つの薬を飲み、巨大なイカを引っ張りながら小舟を漕ぐ。

『港に戻った後に食べたあの味は格別でしたね。あんな化け物が美味しいとは思いませんでした』

『そうじゃな。あの巨大さではロクな味が出んと思っとたんじゃが、流石は神獣といった所じゃったな』

『まあ食べる前は、神獣を食べるのは中々罰当たりだと思いましたけどね』

『気が小さいのぉ。神獣とはいえ所詮は獣じゃ。食うた所で天罰が下る訳なかろうが』

 顔つきから若さが消え、貫禄あるダンディな男になった小父は、膝に腰かけている少女と共に地上を疾駆する鉄の箱、蒸気機関車に乗っている。窓を開けて外からの風を受けながら、地上の景色が流れるように去っていく光景に、いい大人でありながら目を光らせている。

『人間の力というのは偉大じゃな。よもや馬も使わずに走る車を開発するとは思わんかったぞ』

『ご主人様ほどではないですが、私も四〇年という短い年月ながら、節目ともいえる激動の時代を生きましたからね。技術の進歩には目を見張るものがありましたよ』

『うむ。魔女の術とは全く異なる系統じゃが、まこと素晴らしき知恵と力じゃ。いずれワシら魔女のように、人間が空を飛ぶ日が近いやもしれんな』

 大いなる大地を風切る如く走っていた蒸気機関車は、しばらくして終着駅に到着し、乗っていた乗客たちは次々と下車していく。僅か七刻という時間で三十五マイルもの距離を横断した速さに、少女は歓喜の絶頂を迎えているらしく、興奮冷めやらぬ様子だ。その様子を小父は背後から見守っている。周囲の人間には、嬉しそうにはしゃぐ子供とそれを優しく見守る父親とでも映っているのだろう。生暖かい視線が二人に向けられている。

『他の魔女様方と違い、ご主人様は様々な俗物に多大な興味を持たれますね』

『うむ。常に新しいものを見て触れるのが、ワシの楽しみじゃからな。魔女じゃからと言うて、森の奥に引きこもっておるだけではつまらんからのぉ。ついタガが外れてしまうのも致し方ない』

『ですが、少々外れすぎだと思われます。威厳ある魔女様の威光が見る影もありません。あれでは見た目相応です』

『仕方あるまい。ワシは老獪な魔女じゃが、同時に幼き好奇心も持っておる。お主ら人間とは成長の速さが異なるんじゃからな』

 濃く深まった貫禄さを漂わせる爺になった小父は、森深き泉の傍に建てられた小屋の前で開かれたお茶会で、少女の同族を相手に給仕をしている。見た目は少女のような幼き童女の姿から、活発さの混じるうら若き少女、妖艶さを醸し出す怪しげなレディ、婦人と呼ぶに相応しき気品さを持つマダムと様々だ。しかしながらその見た目とは裏腹に、数百年の時を生きる存在だけが放つのであろう奇怪な雰囲気に、もっとも見た目が老いた爺が飲み込まれている。

『お主も何度か会うておろうに、ビクついた態度を取るとは情けないのぉ』

『例え何度でもお会いしようと、慣れるものではありませんよ。皆様、私のような若輩者とは比べ様もなき方々ですので』

『お主も人間としては長く生きとろうが。ワシの従僕となったおかげじゃが、七〇を数える人間はそうはおらんぞ』

『ですが、所詮は人間の身です。時の流れに支配されない魔女様方とは、根本的に拭えない差異が御座います』

 新たに製薬した薬の話や、遠き地で経験した話、人間と咲かせた恋の話などの談笑に花咲かせる四人の魔女たち。その間、爺は傍に控え、必要に応じて紅茶やお菓子などを、魔女たちの会話を邪魔しないように気配を消しながら運んでいく。手慣れた手際で給仕していく様は、まるで手練れた執事のような風格を醸し出している。穏やかな風が徐々に冷たさを帯びていく時刻、すでに夕暮れが差し迫っていながらも、魔女たちの会話は止まらない。晩鐘の鐘が響き渡る最中、夕暮れに照らされた永劫の時を生きる美しき魔女たちに、爺はただ見惚れている。

『……私のような人間には、あの様な時間の感じ方は出来ませんね』

『……時間は所詮時間じゃ。ワシらの様な悠久に近き時を生きようと、お主らの様な儚き僅かな時を生きようと、変わりはない。道中に何を思おうと、最後に思った事こそが、最も重要な事なのじゃからな』



 美しくも儚き夢は終わりを告げ、暗闇に閉ざされた世界に、爺と少女は立っていた。

『こうしてみると、私の人生はご主人様の気紛れに振り回されて来たようですね』

『なんじゃ、文句でもあるのか。さ、最後じゃからな、素直に聞いてやらんことも、……ないぞ』

 少女は少女らしからぬ身構えた様子でそう答えた。

いつもは傍若無人に振舞いながらも、魔女として確かな威厳と風格を見せていた少女の思わぬ動揺した姿に、爺は老いぼれた表情に小さな笑みを作った。

『文句など御座いませんよ。私はご主人様の気紛れで拾って頂き、今日この日まで長く楽しき時間を共に過ごさせて貰いました』

 それは、爺が抱いた紛うことなき本心だった。

極寒の地で誰からも看取られることなく消え去ろうとした幼き灯火は、今や大きな松明の如く周囲を照らして温もりを放つ様な灯火にまで成長していた。四〇も生きるのが難しい時代に、その倍近くの時を共に歩めて来れたのは、間違いなく少女のお陰であった。

『勿論、これまでのご主人様の振る舞いに不満がないとは言えません。ですがあの日、ご主人様に救って貰ったこの命と時間を、ご主人様ために使えたことは、私にとって一番の幸福でした』

 魔女の従僕としての時間は決して楽なものではなかった。手慣れない家事を覚えるのに四苦八苦し、知識のない状況から魔女の術を学ぶのは容易ではなかった。少女の悪戯で調合に失敗して死にかけたこともあるし、魔獣狩りでは常に死と隣り合わせだった。少女の気紛れで死にかけたことなど、両手の指では足りない程だ。

 それでも水の街で眺めた夕焼けは美しかったし、幾へも聳える雪山の頂上で見た朝日は絶景だった。船の出入りの激しい港で食べた異国の食べ物は不思議なほど美味く、北の大地で食べた料理は名状し難き不味さだった。箒に乗って大空を自由に飛び回り、巨大な船で大海を渡り、鉄の箱で大地を駆けた。幾多の国を跨ぎ、様々な人間たちと交流して、多様な文化に触れ、普通に生きていてはとても得られないであろう、得難き経験を得た。

 その隣には、時に優しく諭され、時に子供っぽく振舞う姿に翻弄され、時に厳しい態度で突き放され、それでも共に笑った少女がいた。

 どんな経験も、爺にとって替えの利かない、かけがえのない財産だった。

『ご主人様』

『……なんじゃ』

 残された時間も僅かとない。灯火が消える感覚が、確かに感じられた。

だからこそ、少女に言うべき言葉があった。最後に言わなければ、後悔するであろう言葉が。

『有難う御座いました』

 多くは語らない。必要なのは言葉の多さではなく、心の籠ったただ一言のみ。それだけで十分だった。

 それに対して少女は何も答えなかった。ただ爺の顔を、感情の読めない表情で見詰めていた。

 それがどんな意味を持つのか分かっているのだろう。

爺は最後に小さな笑みを残し、消えていった。



 少女は目を覚ました。暗闇に閉ざされた世界から、光と色に溢れた世界に戻ってきた。

 ここは少女が居を構える木で組み上げられた家。少女と、そして爺が六〇年間過ごした家だ。

 室内には統一感のない異国情緒溢れる家具や小物が、所狭しと置かれている。全て少女と爺が共に歩んで集めたガラクタである。かつて、欧州の貴族が愛用していたという曰くがある椅子に腰かけている少女の傍には、ベッドで横になる爺の姿があった。

 しかし既に息はなく、心臓の働きは止まっている。触れると徐々に温もりが奪われ、冷たい死体になって行くのが分かる。かつて艶のある幼かった姿から、皺だらけの老いぼれへと変貌した爺の体は、もう二度と動くことはない。

人として、そして魔女の従僕として天寿を全うした爺は、今日この日に天へと召された。

 少女は冷たくなって行く死体に触れながら、魔女術を行使する。人間が安全に天へと昇り安らかな眠りへと付けるよう、遥か昔の魔女が編み出した、魔女術の秘術中の秘術。

 その術を受けて、爺の体は今にも消えそうな微かな光を放ち始めた。それは小さな粒となり、それが何十、何百となって、爺の体から天へと昇っていく。徐々に小さな粒が天へと昇る時間も早くなり、爺の体はベッドのシーツが見えるほどに透き通って行く。

 そして爺の体がとうとう最後の一粒となり天へと昇って行く。それを目で追うように天を仰ぎながら、最後の別れを口にする。

「さらばじゃ。我が愛しき従僕よ」

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