猿たちよ檻の中で吠えろ

胤田一成

猿たちよ檻の中で吠えろ

 五月下旬。今年の梅雨はから梅雨なのか、生ぬるい空気が悪戯に印刷準備室の内を占めていた。

冷房機すら付属していないこの小部屋に四人の男女が瑣末な机に伏せるようにして、学習指導要領を睨みつけ、学習指導案の作成に取り組んでいた。彼らは今年、母校であるK高等学校に赴任した教育実習生である。

沼田は今朝の職員室での会話に胸を弾ませていた。まだ赴任して一週間も経っていないのに、沼田はこの実習に確かな手応えを感じていた。

「いや、沼田先生の授業は実際、素晴らしいですな。我々、現役教員も見習わなくてはなりませんな」

 世事であることは分かっていても、赴任する前、担当の大学教授に「教育実習の心得」を散々聞かされていた沼田からしては、これは望外の喜ばしい評価であった。しかし、学校という場は教えを請う師であるとともに巨大に入り組んだ監視者でもある。それには生徒とても例外ではない。沼田は己の心境を覚られないように細心の注意を心掛けるようにしていた。

 一方、三宅は二度目の教育実習生であったが、彼女の指導教諭の厳しさに早くも頭を抱えていた。冷房機も付いていない印刷準備室の中で、彼女は華奢な首筋に汗の玉を浮かばせながら、数度目になる学習指導案の訂正に頭を悩ませていた。あまりの蒸し暑さにボタンを一つ外した姿は中々に悩まし気である。彼女の取り柄はただ一つ、「男子生徒から人気を集めること」だけであった。沼田は彼女の授業スタンスを毛嫌いしていた。

「ああ、この指導案になんの意味があるっていうの。どうせ現役の先生になったら滅多に書かなくなるっているのに。あたしの指導教諭だって、普段なら絶対書いてないわ」

 また、三宅の愚痴が始まった。もう何度目になるか、いちいち沼田は数えてはいなかったが、日に数度は繰り返されるこの問答に飽き飽きしていた。沼田は彼女の相手をしないよう、無視することを心掛けていたが、長澤は違った。長澤は沼田の心持ちを代弁するかのように三宅を諭し始めた。

「意味ならあるさ。確かに現役の教員に成ったら指導案を書く頻度は減るだろうよ。でも、いつかは求められるスキルなんだぜ。今ここで身につけなきゃ、どこで身につける機会があるっていうんだ。俺たちの実習期間の大半はこの指導案を書くということに意味があると思うね。自分らしい授業が早くしたいなら、今ここにある学習指導要領を読み込んで頭に叩き込むことだな」

 長澤は歯切れよく、三宅の愚にもつかない主張を一刀両断して見せた。しかし、そうは言いつつも長澤自身、学校内での人間関係に手を焼いていることも確かであった。

長澤は塾で講師を三年間以上勤めていたが、学校教育側は塾的指導を倦厭していた。一握りの優等生を育む塾的指導と一人でも劣等生を生み出さない、分かりやすく、公平な授業を求められる学校指導には根本的な相違がある。長澤は優秀な塾講師ではあったが、学校現場では認められ難い存在であった。

このような議論を穏やかに見守っていたのは社会科の実習生である太田であった。

沼田は彼には特別な好意を感じ取っていた。二度目の実習生である三宅にしても、塾で講師を勤めていた長澤にしても、いくら難儀しているとはいえ、彼らには教育に関してキャリアがあった。その点、沼田も太田もこれが実質初めての教育実習であり、経験の面からいったら二人とも五十歩百歩のノンキャリアの学生であった。沼田は太田の助力には力を惜しまないつもりであった。同じ穴の狢という不純な動機であったとしても、沼田は太田に密かなシンパシーを感じていた。その一方で、沼田は太田が教員には向いていないことも見抜いていた。彼には知識が大きく欠落していたからである。この実習に来るまで学習指導要領なるものすら知らなかった太田である。学習指導案の書き方も覚束ない彼が将来、立派な教員に成れるとも沼田は考えていなかったのも事実であった。

四人の男女は議論もそこそこに各々、次の授業に向けて学習指導案の作成の作業へと戻っていった。開け放たれた窓の外から生温い空気が忍び込み、印刷準備室の狭い空間を占めていた。


三宅が病院に行くと言って学校を休んだのはそれから五日ほど経ったころであった。教育実習の期間は三週間と厳密に定められているため、三宅の休息は致命的なものであった。彼女は「朝起きたら身体が動かせなかった」と泣きながら弁明していたが、それは怪しい理由として学校側は判断した。

事実如何は別にしても学校側の監視の目が鋭くなったのは確かであった。三宅の指導教諭が彼女に対して冷淡になったのは当たり前ではあったが、その余波は長澤や沼田、太田にもやってきた。

教育実習生はある種の運命共同体と類似している。小さな綻びが命取りになり得るということを沼田たちはまだ知らなかった。誰か一人がヘマをすれば、実習生全体が弛んでいると見なされるし、今回の件もその例外ではなかった。沼田たちは「弱い世代」というレッテルを貼られ、指導も一層厳しいものとなった。沼田は一度のミスがこれほどまでに看守の目をギラつかせることになるとは思ってもいなかった。授業は指導教諭たちによる粗探しという嫌がらせじみたものへと姿を変え、公平な授業評価とはどこかへと消し飛んでしまったかのようであった。

三宅は印刷準備室で頻繁に涙をポロポロと流しながら学習指導案を書き直すようになった。長澤の顔からは笑顔が一切消え、常時眉間に皺を寄せ、見るからに荒く印刷準備室の戸を開閉するようになった。沼田は授業を行う前にトイレへと駆け込み、反吐をもどすという変な癖がついてしまった。太田は一切昼食をとることがなくなり、元はふっくらとした容姿であったが急激に痩せ始め、ベルトの穴が二つも減るようになっていた。

かつては教えを学ぶ場であった学校が急速に囚人を収める檻の中へと変貌していった。教師たちは看守であり、監視者であった。四人の実習生たちは看守の厳しい視線に怯え、自身という人間性を次第に失っていき、ただ指導教諭の満足のゆくものを模索するだけの機会的な授業を行うだけの人形となり果て始めていた。


教育実習期間の二週間が過ぎたころ、実習生の仲間であった太田が倒れた。

印刷準備室で沼田と太田が差し向うようにして黙々と作業をこなしている最中であった。沼田は自身の授業のことで頭がいっぱいになっており、すぐ前の席で太田が小さく、「うう」と呻いたことに初めは気が付かなかった。沼田がふと視線を上げると、太田の姿が消え去っていくのと同時にゴンという鈍い音が印刷準備室に響いた。彼は急ぎ立ち上がると、太田の元へと駆け寄った。しかし、沼田の手ではどうすることもできなかった。

太田は白目をむき、泡を吹きながら、ビクビクと痙攣を起こしていた。沼田は普段なら入ることすら躊躇する職員室にノックもせずに飛び込み、太田が印刷準備室で倒れ伏している旨を急いで報告した。

屈強な体育科の教師が二人と、それに保健教諭が印刷準備室へとやって来た。太田は反吐を吐き散らしながらもんどり打っていた。保健教諭が必至に痙攣を抑えようとしている最中、二人の教員は太田の苦しむさまを物珍しそうに睥睨していた。冷徹な眼付であった。沼田は憎しみを込めて二人の教諭を睨めつけたが、彼らにそれが届くことは無かった。

太田はそのまますぐさま救急車に搬送された。付添人は誰一人としていなかった。全てがあっという間に片付けられた。

授業を終えた長澤と三宅にそのことを告げるのは沼田の役割となった。彼は小さく消え入りそうな声で「太田が倒れたよ」と告げた。二人は学校に救急車がやって来たことすら気付いていなかった。気まずい沈黙が流れたが、その幕を切って見せたのは三宅であった。

「男子生徒から聞いたんだけどね。太田君、この学校に赴任してから一度も授業を最後までやらせてもらってないんだって。指導教諭の先生が意地悪な質問をしたり、授業中にいきなり怒鳴り始めたりしてさ。授業の妨害をしていたみたい。生徒たち、皆、可哀想だって言ってた」

 彼女からの報告を聞き、長澤が蒼い顔をしてヒステリックに喚いた。その声は狭い印刷準備室に容易に反響した。

「授業をさせてもらってない…。だってあいつ、一回の授業するために十五回以上指導案の訂正をさせられてたんだぜ。毎日、深夜近くまで学校に残ってさ。それなのに一度も授業をさせてもらってないのか。理不尽にも程があるよ」

 気まずい沈黙がまたもや流れた。太田は教師には向いていない、それは確かである。しかし、指導教諭の行き過ぎた指導も許せなかった。これは明らかな横暴であった。

 長澤は先程の興奮からか、ぼうっと突っ立っていたかと思うと、足の力が抜けたのか、堪らず開け放たれていた窓のサッシに手をついた。六月に近い雨気をはらんだ温い風が印刷準備室に舞い込んだ。


 太田が教育実習に戻ってくることはついになかった。太田の指導教諭は素知らぬ顔で教壇へと戻り、三人となった教育実習生たちは教頭から「太田君が倒れたのは熱中症のせい。本人から教育実習の希望をなかったことにして欲しいとの要望があった」という支離滅裂な説明を一方的に聞かされただけであった。長澤だけが指導教諭のせいによる過労が原因であったのではないかと食い下がったが、「それは勘違いだよ」の一言で済まされてしまった。

 沼田は急激に恐ろしくなった。もし、自分が太田の立場にあったとしたら、やはりこの印刷準備室で倒れる運命であったのであろうか。自分はただ、指導教諭に恵まれたという偶然を経て、ここまでようやく辿り着いただけなのではないか。ノンキャリアであった自分がもし、太田と入れ違いの目に遭っていたら―沼田は震えが止まらなくなり、反吐を催す回数も目に見えて増えていった。

 三宅が指導教諭の変更を申し出たのも仕方のないことであった。無論、「これまでに前例がない」という理由で教頭には突き放された。三宅も半狂乱になって切望したが、やはり徒労に終わったようであった。三人の実習生は疲弊し切っていた。大学では教わらなかった事件を境に印刷準備室には異様な空気が流れ始めていた。底の見えない混乱がそこにはあった。もはや、三人が三人とも教員としての道を諦めていた。残された感情はただ一つ、この底無しの混沌から早く抜け出したいという単純な願いだけであった。教育実習期間終了まであと二日。沼田も三宅も長澤も精神的に限界が来ていた。

 

教育実習期間最終日。沼田の研究授業参観の時間に事件は起こった。

沼田が想定していたよりも多くの教員参観者が狭い教室に押し掛けてきた。沼田は震える声と指でチョークを掴み、汗まみれになって授業に熱中していた。これですべてが終わる、そう考えると不思議と肩の力が抜けるようであった。計算に計算を重ねた変化球で生徒の心を擽り、時には直球を投げかけては生徒の心を根底から揺さぶる。沼田の得意技が滞りなくその日も繰り広げられるはずであった。

 突如、教室のチャイムが鳴った。授業が終わるまであと十五分も残っている。沼田だけでなく教室中の皆が備え付けられた放送機を見上げた。


「あー…。あー…。テステス。

私の名前は長澤豊といいます。今日はあなた方に申し上げたいことがあり、放送室をジャックさせていただきました。

 あなた方は俺たちを舐めている。誰にでも牙があることを忘れるな。太田のことをなかったことにするな。やつはお前たちに潰されたんだ。熱中症…ふざけたことを言うな。太田を受け持った指導教諭を俺は生涯かけて呪ってやる。」


『ドンドンドン…。今すぐに止めなさい!

 馬鹿なことをするんじゃない!

 生徒たちが聞いているではないか!

 教員になりたくはないのか!』


「うるさい、少し黙っていろ。教師なんてこっちから願い下げだ。辞めてやるよ。

 いいか、よく聴け…、猿どもよ檻の中で吠えろ。この理不尽な世界に甘んじるな。俺は吠える。俺は反抗する。そこになにも残らないとしても。

 

えい、ちくしょう、離しやがれ!

 まだ話は終わっちゃいないぞ!

 いいか、猿どもよ檻の中で吠えろ!

 諦めるな!

 たとえそれが意味のないことでも、全てを終わらせることになろうとも吠え続けろ!


猿どもよ檻の中で吠えろ!」


沼田は開け放たれた窓の外から吹き込んだ六月の風の中に確かに雄叫びを聴いた。


 全てよし!

 全てよし!


 沼田はざわめく教室の中で静かに涙を流した。


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