第3話

 気づいたのは数日経ったのちだった。

「キュアコンパクトが、ない!」

「ちゃんとしまわなかったからでしょ」

 あちこちひっくり返して騒ぐサトに、母親は呆れて声を掛ける。ママはなんて、冷たいんだ、と腹を立てながら、ふと思い出した。

「ちがうよ、むっちゃんが…」

 そこで、むっちゃんのことは秘密だったと慌てて口を閉じた。

「むっちゃん?誰?お友だち?」

 聞き逃さなかった母親が、声を硬くしてサトの横に座って手を掴んだ。

「ママがいないときにお友だちは呼んじゃ駄目って言ったよね」

「ちがうもん」

「何が違うの」

 いつもより低く、とがった声を聞くだけで、勝手に喉の奥の方から涙が込み上げてくる感じがする。

「嘘をつく子は嫌いです」

 一気に涙が盛り上がってぼろぼろとこぼれていく。顔も頭も熱くなって、サトは何も口をきけなかった。きらいなんて言うママはもっときらいだ、としゃくりあげながらサトは思った。


 水曜日、いつものようにむっちゃんははしごを降りてきた。

「サトちゃんあのね」

「むっちゃん、サトのキュアコンパクト、とったでしょ」

 何か言いたげなむっちゃんを遮って言い放った。一瞬驚いた顔をしたむっちゃんは、ムッとした様子で、とったんじゃないもん、とぼそっと言った。

「とったんだ!」

「ちがうもん!悪いやつ倒そうってためしたんだもん!」

「魔法なんてうそだ!だから倒せないもん!」

「倒すもん!」

 つんざくようなむっちゃんの叫び声に、サトは我にかえって焦った。

「おっきな声聞こえちゃうよ!」

「知らない!」

 部屋に一歩も入らないまま、むっちゃんは怒って帰っていった。急に冷静になってしまったサトは、学校の友だちよりなんてきょーぼーなんだ、と思いながら、顔を真っ赤にして震えていたむっちゃんを思い出し、なんだか後ろめたい気持ちになった。


 それから次の週の水曜日、むっちゃんは来なかった。そっとはしごを見上げてみても、むっちゃんは顔を見せることは無かった。昇ってみようか、と考えたものの、むっちゃんのように駆け上る勇気は、サトにはやっぱり無いのだった。そして来週は、バレンタインデーだった。


 チョコレートを溶かす甘い香り。大量のチョコレートをヘラでなめらかにするワクワクする感触。昨日のチョコレート作りの余韻に浸りながら、カーペットに座り、ベランダを見ていた。今日は月曜日だから、むっちゃんは来ないだろう。でも、水曜日にだってきっともう来ないのだろうと思うと、サトの目にじわりと涙が浮かんだ。初めてむっちゃんが現れた日のことを思い出す。自分だけのお友だちになると思った、はしごからやってきたむっちゃん。永遠に失ってしまったのだと、暮れていく空を窓越しに眺めていた。その時、大声が聞こえた。


 矢内聡子は、記憶にない記憶が蘇ったように感じてはっと夢想から目を覚ました。慌てて、目の前の新聞にもう一度目を通す。

ー剛被告は睦美ちゃんのお腹を蹴るなど暴行を加え、2月14日午後5時頃、ベランダのはしごを下りようとした睦美ちゃんを怒鳴りつけ、手を踏むなどして突き落とし死亡させたー

 午後5時、バレンタインデー。たしかに部屋にいてベランダを見ていた。あの声は、あの音は、ベランダに転がっていたキュアコンパクトは、幼い自分の記憶の底に、慎重に慎重に隠されてあったのだった。それを今思い出したことに、きっと何か意味があるはずだと思った。まだ何も感じない下腹部に手を当て、聡子はそっと目を閉じた。

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はしご 三条 かおり @floneige

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