第六感のないあなたへ
久里
第六感のないあなたへ
今日という日を、こんな形で迎えることになろうとは思いもしなかった。
正直かなり複雑な心境だけれども、冬の寒い中にも関わらず、想像以上に沢山の人が足を運んでくれたことについては感謝している。
家族、親戚、会社の同期に上席、学生時代からの友達。私がぱっと思いつく限りのお世話になった人たち全員が黒い喪服を身にまとって、一様に沈痛な面持ちをしていた。
その中には、先日将来の仲を誓い合った、恋人の
人波を軽々とすり抜けて、深くうなだれて座る彼の目の前にしゃがみ込む。
私の大好きなその顔は、今まで見たこともないぐらい、痛々しく濡れていた。
「
嗚咽と共に吐き出されたその言葉に、失ったはずの心臓がじくりと痛んだ気がした。
「僕を、置いていかないで……」
正臣さん、私はここにいるよ。だから、泣かないで?
どれほど願っても、私の声は彼に届かない。
一つしか歳が変わらないのに随分と大人びている正臣さんが、私のせいで子どものように泣きじゃくっているのを前にしていながら、なんにもできない。何度も手を伸ばしたけれど、虚しく宙を切ってすり抜けるばかりだった。
眼鏡の奥の、真っ赤に腫れているあなたの瞳に、決して私は映らない。
金輪際、永久に。
悔しくて、やるせなくて、哀しくって、ひどく中途半端な自分に苛立った。
できることなら泣き出したかったけれど、涙すら流せなくなってしまった。
「……本日は、亡き碧のために、いろいろとお心遣いをいただき、誠にありがとうございました」
お父さんが、感情を抑え込みながら震える声で告げるのを聞いて、ああ。私は本当に死んでしまったんだなって、今更のように思った。
そう。
二十五歳になったばかりの冬。
私、
*
まだかすかに肌寒さの残る、春の朝。
私が死んだ冬から、もう、一年と三か月が経ってしまった。
正臣さんは焼いたトーストにかぶりつきながら、今日もどこか浮かない顔つきをしている。私は私で、カーテンの隙間からこぼれ落ちる透明な日差しが彼の顔を照らしているのをぼうっと眺めていた。生前、私がよく座っていたお気に入りの椅子に腰掛けて。
彼は手早くトーストを食べ終えると、簡単に皿洗いをした後に、出社するための身支度をととのえはじめた。
そうしてひととおりの準備を整えた後、黒いスーツに身を包んだ正臣さんは、部屋の隅に置かれた私の遺影にむかって正座をする。
私が死んでから、毎朝、一度も欠かさずに。
「碧。今日は、良い天気だよ。もうじき、君の好きだった桜が咲く季節だ」
そうだね。ところで、その遺影の写りあんまり気に入ってないから、毎朝そんなにじっと見つめないでほしいんだけどなぁ。
お線香をそなえる彼に、私の文句は届かない。
「……愛しているよ。ずっと、ずっと」
彼は、自分の言葉が、私に届いていることを知らずに言う。それから、今日の春の日差しみたいに淡い微笑を浮かべる。
これが、正臣さんの毎朝の日課だ。
そして、そんな彼を呑気に見つめているのが、死んだとは思えないほど穏やかで満ち足りた私の毎朝の日課でもあった。
*
私が死んでから、一年と九ヶ月が経った。
それは、吹きすさぶ風が冷気を含んできた、秋の夜のこと。
会社帰りの正臣さんに、寄り添って歩いていた。一人分の足音だけが、オフィスビルから離れて駅へと向かう道に響く。
月明かりに照らされた彼の横顔にぼうっと見入っていたら、ある足音が、こちらに向かって駆けつけてくるようにどんどん大きくなっていった。
「黒田さんっ」
彼と一緒に振り返る。
そこには、今年の新入社員としてうちの会社に入ったらしい女の子が、少しだけ息を切らして立っていた。
「加藤さん。どうかされましたか?」
「いえ。あ、あのっ……昨日は、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでしたっ。ミスをカバーしていただいて、本当にありがとうございました」
彼女が慌てて頭を下げたのに対して、正臣さんはきょとんと眼鏡の奥の瞳を丸くした。
「えっと。失礼ですが、加藤さんなにかミスをされましたっけ?」
「えっ! あ、あの……お配りした会議資料に、不備があったことで……」
しどろもどろになっていく加藤さんに、彼は「あぁ」とほがらかに笑った。
「あまりにも些細なことだったので、すっかり失念していました。すみません」
加藤さんが、和やかに微笑む彼からおずおずと視線をそらしたとき、何故だか動揺してしまった。
「気にやむ必要は、全くありませんよ。新入社員はミスして当然で、それをカバーするのが僕ら上司の役目ですから」
秋の宵風が、少し離れた距離で見つめあう二人の黒い髪を揺らしていく。
一呼吸を置いた後。
彼女は、桃色の唇を震わせながら言った。
「あ、の……黒田、さん。この後、用事とかありますか?」
「いえ。特になにもありませんが」
「じゃあ、その……迷惑でなかったら、ご飯とか、行きませんか?」
正臣、さん……?
心許ない面持ちで、隣に立っている彼を見上げる。
彼の視界には、なけなしの勇気を奮い立たせてまっすぐに自分を見据えてくる加藤さんしか映らない。
「……ええ。なにか、身体のあたたまる物でも食べて帰りましょうか」
その日、正臣さんは私が死んでから初めて、女の子と二人きりで食事をした。
*
秋から冬へと移り変わっていく間に、正臣さんと加藤さんは、着実に仲を深めていった。
会社の帰りがけに、頬をうっすらと赤らめながら「あの。良かったら、ご飯に行きませんか……?」と彼を誘う加藤さんは、傍から見ていても、健気でいじらしかった。
こうなることは、彼女が初めて彼を夜ご飯に誘ったあの日から、なんとなく予感していた。
だって、加藤さんは、真剣に正臣さんに恋をしている。あの夜の彼女は、生前の私と同じ瞳をして彼を見つめていた。
正臣さんだって、健気で可愛い彼女のことをきっと――
冬に入りかけている今でも彼は、変わらず毎朝、私の遺影に向かって言葉を投げかけてくれている。
「碧。今日は、すごく冷え込むね。寒くない? ちゃんと、あったかくしている?」
でも、私を見つめるその眼差しは、ひりひりと苦しそうだった。
*
今日の朝は、正臣さんが起き抜けに吐き出した吐息が白くなっていた。本格的に冬に入ったらしい。
私が死んでから、もう、丸二年が経ったのだ。
それは、ひどく冷え込んだある休日の朝のことだった。
正臣さんは、出かける間際に、私の遺影を見つめながら静かに泣いていた。
「碧……っ。ごめん……」
涙に濡れた彼の唇から放たれたのは、愛の言葉ではなくて、謝罪の言葉だった。
「ゆるしてくれなんて、言わない。でもっ……約束を守れなくてごめん……っ」
正臣さん、そんなこと言わないで。あなたの選択は、間違ってないよ。
さめざめと泣き崩れる彼を、何度も抱きしめようとした。すりぬけてしまって、全然、うまくいかなかったけれど。
その日の夜、正臣さんはきらきらと七色に輝くクリスマスツリーの下で、加藤さんに愛の告白をした。彼女は白い頬を紅潮させて、瞳を潤ませながらこくりとうなずいた。
その光景は、狂おしいほどに清らかで、満ち足りていて、幸せそうだった。
*
正臣さんと加藤さんが想いを通わせてから、早いもので、もうすぐ一年が経つ。私が死んだ冬から、もう丸三年と数ヶ月になるみたいだ。
二人の交際は、時折羨んでしまうほど、順調に進んだ。
加藤さんは、今時珍しいぐらいに純真で、本当に良い子だった。少しぐらい嫌な子だったらよかったのにと思ってしまうぐらいに。
彼女なら、きっと、正臣さんを幸せにできるだろう。
そして、澄み渡るように眩しい青空に映える桜の木を見上げながら、同時にこうも思った。
今日は、なんて素敵な結婚式日和なのだろうかと。
白くまばゆい協会の中、タキシード姿の正臣さんとウエディングドレスを身に着けた加藤さんが幸せそうに笑っている。二人を見守る、色とりどりのドレスと紳士服に身を包んだ人たちのはじけるような笑顔、歓声、祝福の言葉。
大勢の人たちに見守られながら二人が祝福のキスを終えたとき、招待客に混じってひっそりと彼らを見つめていた私の足下から燐光が立ちのぼり始めた。
ねえ、正臣さん。
私は、あなたのことが、好きで好きで、仕方がありませんでした。
生きていた時はもちろんのこと。
死んだのに死にきれないぐらい、大好きでした。
あなたは、加藤さんと共に歩んでいくと決めた一年前の冬、私にゆるしてくれなんて言わないと言ったけれど、本当にゆるしてほしいのは私の方だった。
やさしいあなたは、変わってしまうことを恐れて、ずっと自分を抑え続けていたね。死んだ私を裏切って自分だけ幸せになって良いのかずっと葛藤していたよね。
長い間、独りきりで寂しい思いをさせてごめんね。たくさん、苦しませてごめんね。
私は、今でもあなたを、愛しています。
愛しているからこそ、もう、
正臣さん、今までありがとう。
そして、今度こそ、本当にさようなら。
もう、幸せになることを恐れないでください。
遠い場所から、あなたの幸せを心より願っています。
第六感のないあなたへ 久里 @mikanmomo1123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます