第3話

 冬の空気は鋭い。人々は皆、寒さのためか人形のような無表情で、足早にすれ違う。寒さは思考をも凍らせてくれるようで、別れの辛さは遠のき、春を待ちわびる気持ちにも知らぬ振りをできる。だから、いちばん平坦な気持ちで彼の樹を見に来ることができる。

 春は夢。霞がかった記憶は、生ぬるい幸福感だけを思い出として蘇る。幼い頃、畳の上に寝転がり、ぼんやりと背中の温もりを感じていた感覚的な幸せ。失ったのではなく遠い昔に過ぎ去っただけの、そんな穏やかさが心地よい切なさと共に私を満たす。

 このまま、今のまま、生きていけるような気がする怖いくらいの穏やかさ。彼と過ごす満たされた幸福より、一人で空っぽでいる穏やかさの方が、私の性にはあっている気がしていた。

「その桜ね、年明けには切ってしまうんだよ」

 突然、70歳ほどの男性に声をかけられた。

「相続放棄した土地でね、更地にしてしまって、国の土地になるんだよ。桜の樹はかわいそうな気がするんだけどね。最後に咲かせてやれなくて」

「…あなたの家だったんですか?」

「いや…そうだね、亡くなった母の家だったよ。私も7つぐらいまでは住んでいた。母とは別々に暮らしていたんだけど、15年ほど介護でね。そちらさん、このあたりの人かな?」

「昔…この空き地にあった家に、住んでいました」

 おじいさんは少し口ごもり、逡巡したようだった。亡くなったお母様から、私の家のことを聞いていたのかもしれない。

「じゃあ、もしかして妹さんかな」

「え?」

「最近は見かけないんだけどね、母が倒れてすぐの頃から、春になるとここを訪れる若い男の子がいたんだよ。おかしなもんだけどね、人を待ってるって言って、いつも樹の下で煙草を吸っていたねえ。ときどき、家にあがってもらったりもしたよ。母が話せなくなってからも、律儀に相手をしてくれたんだよ。桜が好きみたいだったしね、彼にも申し訳ないと思うよ」


 冬の空気は鋭い。寒さは思考をも凍らせてくれるようで、別れの辛さは遠のき、春を待ちわびる気持ちにも知らぬ振りをできる。

 もう、日は暮れかけていた。いつかの彼のように樹に寄りかかって、薄暗くなる空気をぼんやり眺める。桜はもう咲かない。春はもう、彼を連れてこない。引き止めようと、もがきたい気持ちを押し殺した。彼のこともいつか、子どもの頃の懐かしさのように遠い幸福になるのだ。大丈夫、一人で空っぽでいる穏やかさの方が、私の性にはあっている。


「泣いてんの」

 声が聞こえて私は、震える喉でゆっくり息を吐いた。片膝をたてて樹にもたれかかった彼が、気だるげに私を見上げていた。

「どうして」

「多少の無理はできる」

 彼が指差した先には、一輪の桜が弱々しく咲いていた。崩れ落ちた私を、彼は少し首を傾けた格好で静かに見つめ、口を開いた。

「この花、食べてほしい」

 何を言っているの。咄嗟に声にならなかった。

「……どういうこと」

「そのままの意味だよ」

「そんなことをしたらあなた死んでしまう」

「いいや、死ぬんじゃない。いつもと同じだ。樹に還るだけ。そして春を待つ」

「春なんて」

「いいや、春は来る。俺がどうなろうとね」

 そう、確かに春は来るのだ。彼を置いて。そして二度と彼は私の前に姿を現さないだろう。

「俺は春の間、君をずっと見ていた。目を閉じても、はっきり君の姿が描けるように。だから樹の中にいる間も、ずっと君と生きていられた。君との春が、俺に力をくれる。会わなくても、触れられなくても、俺にとっては」

「私には無理!」

 遮って叫んだ。

「私は、幸せが恐ろしかった。あなたとの生活を幸せに感じるほど、別れが怖くて、春なんていっそ来なければいいと何度も思った。一人でいることに慣れてきた頃、春はあなたを連れてくる。確かに幸せよ。でもそのあとの別れは、どんどん、苦しくなっていく」

「それでも、俺と何度も春を過ごした。もう俺は、君の中に生きているんだ。だから、大丈夫」

 彼の手がすっとのびる。止める間もなく桜を摘み取ったものだから、私は小さく悲鳴をあげた。大丈夫だって、と彼は笑うけれど、樹にもたれる様子はよりいっそう疲れて見えた。

「でも、あんまり時間はないかもな」

 私は震える手で桜を受け取った。カタカタと震えの止まらない私の頬に触れる彼は、今までに見たことのないくらい、優しい顔をしていた。たまらず私は彼に手を伸ばした。抱き締めた身体は熱く、回された腕は力ない。のし掛かってくる彼の重さが私の胸を押し潰すようだった。

 そっと、彼の前髪をかき分ける。真っ直ぐに私を見る彼の瞳は揺らがなかった。

 長い時間、そうしていた。彼がふっと笑って、こつんと、おでこがぶつかる。私は、口を開いた。震える右手には一輪の桜。その花びらが、唇をくすぐる。

「ありがとう、愛してる」

 口の中に桜が入った瞬間、彼はそう言った。答える間もなく、口を塞がれる。最後のキスだった。彼の熱と共に、私は、桜を飲み込んだ。彼の温もりも、重みも、ふいとたち消えたあと、冬の寒さは一層肌を刺した。しかし目を閉じると、微かに桜の香りを感じる。それはまるで満開の桜の下にいるかのように、私を包み込んでいた。



「ママ、いい匂いねー」

 私にしがみついて、娘が言う。

「春が来たからね」

「パパ帰ってくるの?」

「もうすぐね。あ、ほら」

 がちゃりと、玄関のドアノブの音がする。帰ってきたー!と、はしゃいだ娘が玄関に走っていく。ドアが開くと同時に、ふわりと桜の香りが届いた。洗いざらしのシャツ、煙草の匂い。

「ただいま」

 懐かしくて、愛しい声。

「おかえりなさい」

 窓の外、若い樹に初めて膨らんだ桜のつぼみが、春を告げていた。

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桜の彼 三条 かおり @floneige

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