もう半分の君と

らいむ

第1話 もう半分の君と

 ――また少し背が伸びた? けれど体の線は相変わらず細く、しなやかだ。

 長いまつげが影を落とす瞳は物憂げで、見てるだけで溜め息が漏れる。


 高校3年生の弟、朔が制服のネクタイを結ぶ姿を眺めながら、私は彼の朝食の後片付けをする。見てる事に気づかれないように、私はいつも意識して視線を逸らした。


「葉月。じゃ、行ってきます」

 そして弟はいつもと同じように伏し目がちに私に礼を言い、登校していくのだ。

「気を付けてね」母親のように声を掛ける。


 実際私たちにはもう2年前から両親はいない。そして私と朔は、血の繋がりもない

 私の父と朔の母が再婚したのは5年前。そしてたった3年、家族ゴッコのような日々を過ごした後、二人は車で出かけた先で事故を起こしたあげく、あっけなく他界してしまった。


 残されたのは小さなこの家と、物静かな15歳の少年と、短大を出たばかりの20歳の私。資産など無く、僅かな保険金も事故の賠償で消えてしまった。


『私が働いて高校と大学は出してあげる』

 葬儀の後、途方に暮れた目で私を見つめて来た朔に、私は力強く言った。

 姉としての責任もあったが、けれどいっしょに暮らし始めて改めて気づいた。私は単純に、朔が自分の元から消えてしまうのが嫌だったのだと。


「なんでバイトの子、休むかなあ」

 私はむかつきながら、カフェのテラス席の後片付けを急いだ。

 自宅に近いこのカフェで仕事を始めたのは、なるべく早く帰宅し、朔に食事を作りたいからだったのに、今日も定時には上がれそうに無い。


 けれど悪い事は重なる。

 飲み残したっぷりのコーヒーや積み重ねた皿を抱え、日の暮れていく空を仰ぎ見た刹那。イスの脚に躓き、座っていた黒づくめのスーツの男に、見事にコーヒーをぶちまけてしまった。


 ああ、終わった。テーブルの上の書類までぐっしょりだ。


 店中のダスターとタオルをかき集めて拭き、思いつく限りの謝罪の言葉を並べてふっとその男の顔を見ると、驚いたことに微笑んでいる。

 精悍な浅黒い顔にあご髭。どこか堅気でない雰囲気の男の意味不明の笑みに、体が粟立った。


「君、日向さんって言うんだね。下の名前は?」

 私の名札を見つめ、男は更に微笑む。私は嫌な汗が止まらない。

「葉月です。すみませんでした、あの、お洋服はクリーニングさせていただ……」

「その必要はない」

「え?」

「君、どうやら弟がいるみたいだね。高校生?」


 いったい何。なぜ弟の存在と歳を? 不気味過ぎて返事もできず引きつる私に、その男は更にあり得ないことを言って来た。


「3日だけでいい。君の弟の体を半分僕に貸してくれないか? 日が昇ってる間だけ僕が体を支配する。夜はちゃんと返すから。いいだろ?」


「意味がわかりません」

 そうか、この人ヤバい人だ。店長を呼ぼう。そう思った端から男が畳みかける。


「このスーツと重要書類の弁償として3日だけ昼間の弟の体を貸してほしい。他に選択肢はないよ。弟はちゃんと学校も行けるし、何も問題は起こさない。中身が僕に変ってるってだけで」


 不気味すぎて泣きたくなるのをぐっとこらえる。そう言えば今、店長は不在だ。

「ますます分かりません」


「僕は今、人間というものをいろいろ試着してる研修員なんだ。人間には悪魔なんて呼ばれてる種族なんだけど、こうやってちゃんと交渉してるところが紳士だろ?」

「わかりました。今日は店長が不在なので、後日また…」

「了解なんだね?」

「いえ、そうじゃなく……」


 けれど自称悪魔は笑みを浮かべたまま、濡れたスーツを気にすることも無く、宵の雑踏に消えてしまった。


「お疲れ様。今日は少し遅いね」

 帰宅すると朔が穏やかな笑顔を向けてくれた。それだけで一気に疲れが吹き飛ぶ。


「うん、ちょっといろいろあって……。あ、それよりすぐご飯作るから!」


 けれど朔は相変わらずの遠慮がちな笑みを浮かべ、「適当に済ませたから平気。俺の事、あまり気にしないで」と、部屋へ引っ込もうとした。手には大判の冊子のようなものを丸めて持っている。


「大学の入試案内?」

「え……違う」

「ちゃんと入試受けてね。朔を大学に行かせるくらい、何とかなるから」

「言ったろ。高校を出たら働く。葉月の金は葉月が使ったらいい」

「もったいないよ、朔は頭いいのに。高卒じゃあろくな就職口は……」

 けれどこの話は打ち切りとばかりに朔は視線を逸らし、自室に引き上げて行った。


 堂々巡りだった。朔をちゃんと一人前の大人にしたいのが私の願いなのに、どこか朔は遠慮し、何かを諦めているように見える。

 その夜もそれっきり朔は姿を見せず、私は悶々と家事を片付けた。


 ――けれど次の朝。

 リビングに居た制服姿の青年は、朔であって、朔ではなかった。


「葉月ちゃん、昨日は契約ありがとう~。いいねえ高校生の体。制服っていっぺん着てみたかったんだ。どう?」


「どう……って。なに」


 認めたくなかった。けれど到底ありえない出来事が起きてしまったのだ。

 朔の口から出て来た言葉はまるっきり昨日の男の口調だ。でもまさか。そんなバカな。


「ちゃんと理解してくれてる顔だね。心配しなくていいよ、朔の記憶はちゃんと引き継いでるし、僕は普通に朔として学校に行って、楽しくお勉強して帰って来る。日が沈んだらちゃんと抜けてあげるし、たった3日間だ。安いもんでしょ」


「いったい何が目的で」

「研修をクリアしないとボスに認めてもらえないんだ。悪魔だって規律があってさ。かわいいJKと不埒な事しようとか思ってないから安心して」


「当たり前でしょ! その体で何か問題起こしたらただじゃ置かないから!」

 頭の血管切れるんじゃないかと思うほど叫んだが、朔の顔をした悪魔はニヘラっと交わす。


「殴っても刺してもいいけど、体は朔だからお忘れなく。ねえ葉月ちゃん、3日間は日没までに帰っておいでよ。悪魔な弟と話をするのも、ちょっと楽しいかもよ?」


 そう言って不意に肩を抱き寄せて来た。ふわりと朔のコロン。心臓が跳ねる。中身は朔じゃないと分っているのに振り払う事が出来なかった。


「じゃあね。また夕刻」

 色気をたっぷり含んだ視線を投げ、朔の体を乗っ取った悪魔は玄関を出て行った。


 けれどしばらく私の体の硬直は解けなかった。

 選択肢がなかったとはいえ、私はとんでもない事を許してしまったのかもしれない。


 心臓がザワザワと騒がしい。触れられた肩が、いつまでも熱かった。


 その日私はきっちり定時に職場を出て、買い物もそこそこに家路を急いだ。


 今朝のはもしかしたら自分の勘違いか、もしくは朔の悪ふざけなのかもしれないと、仕事中ずっと考えた。

 大体悪魔とか、馬鹿げている。早く帰って真相を確かめたかった。


 西日が差す玄関を開け、リビングに飛び込むと、ラフな私服姿の朔がソファに座り、テレビを見ていた。普段観ることも無いスプラッターホラー。


「葉月ちゃんお帰り。一緒に見ようよ。スッゲーよくできてるよ、このゾンビもの。肉片すごい」

 人懐っこい笑顔で手招きする。あんなに砕けた朔の表情を、私は見たことが無かった。


「学校で変な真似しなかったでしょうね。朔は受験控えてるんだから、内申点下げるようなことしないでよね」


「ん? 朔は大学行く気無いよ。卒業したら独り立ちしたいみたい。姉の世話になるのが苦しいみたいだね」

「え」

 ドキリとした。まさか……。何かの間違いだ。


「ねえ、そんな事よりもっと楽しい話しようよ。朔の高校生活興味ない?」


 しなやかな筋肉を感じさせる腕を伸ばして私の手首を掴む。

 力に委ねて横に座ると、すぐそばに、血のつながらない弟の端正な顔があった。


 途端に息苦しくて、逃げたくなる。


 私が見守って来た朔は控えめで礼儀正しく、少し触れただけで顔を赤らめるシャイな少年だった。そんな朔に、私はどこか惹かれ、そして守らなければと思った。

 けれど目の前に居る青年はそれとは違う、言葉で形容できない感情を私に抱かせる。

 ドキドキするとか有り得ない。これは朔じゃない。なのに……。


 この状況をどう理解しようと、戸惑いつつ座っていると、悪魔はフッと立ち上がった。

「いいとこなんだけど僕トイレ行ってくるわ。そして残念ながら交代の時間。また明日ね、葉月ちゃん」


 悪魔がドアの向こうに消えたあと窓の外を見ると、いつの間にかすっかり日が暮れていた。

 そしてしばらくして戻って来たのは、私の良く知る、いつもの朔だった。


「葉月……、どうしよう。俺、……朝からの記憶がないんだ」


 ホッとすると同時に、なぜか涙が滲んだ。そう、この純粋な青年が、本当の朔。

 触れることの出来ない、大切な弟。


「きっと疲れてるのよ。心配しなくて大丈夫。ぐっすり寝れば……2日後にはすっかり元に戻るから」


 人懐っこい笑みを浮かべる、触れたがりの悪魔は、もう2日で居なくなる。


               ◇


「目玉焼き半熟じゃないからヤダ。野菜はいらない」

「黙って食べなさい。あんたじゃなくて朔の体のための朝食なの」


 翌朝も、やっぱり悪魔だった。


 けれど朔の顔をした生意気な生き物とのやり取りは、不思議な事に、私の中にしっくり来ていた。邪悪な感じのしない悪魔を、少し可愛いとすら思えてしまう。


「担任の中沢は冴えないオッサンだが女の子のレベルは高くて、3年2組はなかなかいいコミュだね」

「絶対に妙な事しないでね。朔の体なんだから」

「JKとイイ事するのも?」

「当たり前でしょ」

「1回くらい」

「だめ」

「それってジェラシー? JKに」

「悪い?」

 思い切り睨みつけると悪魔は眉尻を下げて笑った。


「ちょっと僕の恋心が疼いちゃったけど。そっか、まさかあんなガキをね」

「朔に言わないでよ」

「そんな事に悪魔は時間を割かないからご心配なく。じゃあ学校行ってくる」


「ねえ、待って、あんたは朔の記憶とかは読めるのよね。あの子は……」

 ああ、と振り向いて悪魔は笑う。


「葉月ちゃんの事、朔がどう思ってるか知りたい? じゃあ今夜は早く帰っておいでよ。たっぷり教えてあげるからさ」


 悪魔を見送った後も鼓動のざわつきが止まらなかった。仕事中もずっと。


 ―――朔の本心。


 ジワリと不安が募る。


 けれどその日も予定外の残業になってしまった。

 遅くに帰宅すると昨日と同じく不安そうな表情の朔が待っていた。


「SNSでみんなが、昨日から朔はテンション高いよなって……。でも学校の記憶がない」

「大丈夫。すぐ元に戻るから」

「なんでそんな事が分かるの」

「経験値よ。ほら、ご飯作るから、先にお風呂入って来なさい」


 納得いかないながらも、素直に従う弟の背中を見送った。そして思わずため息がこぼれる。


 何故だろう。今日、日没までに帰れなかったことを悔やんでいる自分がいる。


 いや、私が悪魔に会いたかったのは、ただあの答えを早く知りたかっただけ。


 ―――きっとそれだけだ。


「なんで昨日、日没までに帰って来なかったのさ。待ってたのに」


 翌朝、悪魔は不服そうに言った。けれどなぜか今日は朝食に文句を言ってこない。

 和食が好きなのだろうか。朔が苦手な長ネギの味噌汁を美味しそうに飲んでいる。

「ごめんね」

「やめてくれよ、マジで謝られると面食らう」

「ねえ、悪魔さん」

 呼び方が変だったのか、悪魔が笑う。


「そっか、葉月ちゃんは朔の気持ちが知りたいんだったよね。聞きたい?」

 箸を置き、面と向かって来た悪魔に、私は胸がぎゅんと痛んだ。


 今やろうとしてることは、とんでもない事なのかもしれない。

 朔の隠された本心を、悪魔を使って聞き出すなんて。

 信頼関係を崩す背徳行為だ。


「やっぱりいい。言わないで!」

 咄嗟に悪魔の腕をぐっと掴んで止めた。

「なんで?」

「朔に申し訳ないもん。こんな事で気持ちを探るなんて卑怯よ」


 大きくて綺麗な瞳がじっと至近距離で私を見つめてくる。不意にじんわり涙が滲んで視界がぼやけた。


「朔とは、ちゃんと面と向かって話がしたい。卑怯な事、したくない」

 ヤバイと思った時にはもう遅かった。涙が座った悪魔の膝にこぼれる。

 制服のズボンに黒いしみが出来た。


「葉月ちゃんに、また濡らされちゃったな」

 悪魔は手を伸ばして私の頭をそっと撫でた。


 驚いて首をすくめたが、胸がジンと熱くなり、あまりの安心感に、そのまま動けなくなった。


「葉月ちゃんってさ、ちょっと頑張り過ぎじゃない? 年上だからしっかり弟を支えなきゃとか、そんな事ばかり思って自分を追いつめてるでしょ。もう自由になればいいのに。朔だってもう子供じゃないんだ」

 フッと手を離して、悪魔は立ち上がる。


「今日で僕の契約は終わる。明日からは大富豪の67歳のおっさんが僕の宿主だ。因果な研修期間だよ、ほんと」

 ネクタイをほんの少し緩め、視線をまた私に向ける。


「仕事が終わったらなるべく早く帰っておいで。君と、ゆっくりお別れがしたい」

 悪魔はそう言い残して、出て行った。


 悪魔がそんな優しいなんて、どんな書物にも書いてなかった。ずるい。

 今日は早く帰って、その正体を突き止めてやるんだ。


「そのために……早く帰るんだから」


 ぽそりと、言い訳のように呟いてみた。


              ◇


 けれど今日も予定通り仕事は終わらず、結局自宅前にたどり着いたのは、陽がずいぶん陰った頃だった。


 もうアウトだろうか。それともまだ悪魔は待ってくれているのだろうか。

 息を切らせて玄関に飛び込むと、弟が廊下まで出て、私を待っていた。腕組みをしてニンマリ笑う。


「遅い」


 ――悪魔だ。


 私は気が緩んでその場にへたり込みそうになる。その体を悪魔は支えてくれた。


「なんとも劇的なラストシーンじゃない。でも気絶しないで。日没まであと3分だ」

「残念。もう行っちゃったと思ったのに」

「その憎まれ口、もっと聞きたかったなあ。葉月ちゃんに惚れてもらえなかったのがほんと、唯一の心残り。やっぱ朔には勝てなかったのかな」

「当たり前でしょ。なんで悪魔なんか」

「残念。やっぱり3日じゃあ、このイケメンでも無理かぁ」

「この顔は朔のものよ。借り物で、都合よすぎる」

「あと3日あれば、きっと僕の気持ち届いたのに」

「何日だって一緒よ。さっさと消えちゃって」


 言う端から、鼓動が騒ぐ。自分が何に混乱しているのか分からない。

 ホッとしてるのか、悲しいのか、寂しいのか……。


 悪魔が立ち上がり、握手を求める。


「お別れだ。3日間ありがとうね。君と出会えて嬉しかった。元気で」


「あなたは……もっと悪魔らしくなった方がいいよ」


 しなやかな、けれどしっかりと力強いその手を握り、私は胸が張り裂けるような寂しさを感じた。


 ―――そう寂しいのだ。もう、この生意気で優しい悪魔とは、お別れなのだ。


「さよなら」


 手を離さなければ。もう、この手は……。



「……え。葉月? ……俺、ここで何してたんだろ」


 張りつめた不安げな声にハッと私は飛びのいた。

 悪魔と入れ替わった朔が、自分の手と私を困惑気味に交互に見つめている。


「何って、今帰って来たところでしょ? さ、早く着替えて来なさい。ご飯すぐしたくするから」

「手、握ってなかった?」

「やだ、なんで。そんな事しないわよ。ほら早く……」

「葉月は何でいつもそうなんだよ」


 思いがけない尖った朔の声に、私は思わず振り返った。


「俺はここ最近葉月と、ご飯の話と進路の話しかしてない気がする。今、確かに手を握ってたよね。なんで誤魔化す? ここ数日、おかしなことばかりでタダでさえ混乱してるのに。飯なんて何だっていいよ。俺は葉月に母親になってもらいたいわけじゃないんだ」


 ぐっと眉根を寄せて見つめて来る朔は、今までとは別人のように感じた。

 従順で優しい彼のイメージが、ふっと遠のいた。


「……ごめん。でもまだ朔は17歳で。普通の家庭の子のようにしてあげたくて」

「普通の家庭じゃないからいいんだよ。俺も葉月も親を亡くして悲しいのは一緒だし。血だって繋がってないんだ。葉月にずっと世話になるつもりもない」


 朔の声は、内容とは裏腹に、とても優しかった。それが余計に私の心をえぐる。


「卒業したら義理の姉弟を解消しよう。そしたら葉月はもう、変な責任を感じなくて済むだろ。俺も自由に進路を決めるから」


「そんなに嫌だったの? ここで家族として暮らすのが。朔には苦痛だった?」


 泣くまいと思った。泣いたりせずにちゃんと朔の言葉を聞こうと思った。

 これは昨日の夜、悪魔に聞くはずだった朔の本心なのだ。

 ちゃんと朔の言葉として聞けただけ、よかったじゃないか。少なくとも私は卑怯者にならなくて済んだ。ただ、胸が痛くて苦しくて、ひたすら悲しかった。


 悪魔の口を通して聞いたなら、もしかして悪魔に縋りついて泣いたのかもしれない。

 でももう、あの優しい悪魔もいない。


「ごめんね。葉月にはすごく感謝してる。……今日はもう、ごはんいらないから。おやすみなさい」


「朔……」


 朔はそのまま部屋に消えてしまった。

 私も食事などする気にもなれずそのまま冷たいシャワーを浴びながら泣いた。


 ―――これから、わたし、ひとりぼっちなんだ。


 翌日は土曜日で、私も朔も休日だった。けれどそのことが余計に気を滅入らせた。あんなに大切な存在だった朔なのに、顔を合わせるのが辛い。


 いつものように朔に朝食を作っていいものかどうかも分からないまま、リビングに行くと、休日は遅くまで寝ているはずの朔が、なぜか庭に立っていた。私に気づいたのか、まぶしい光を浴びながらゆっくり振り向く。


 戸惑いはすぐに驚きに変り、私の鼓動は馬鹿みたいに高鳴った。


「悪魔?」


 朔の姿をしたそれは、あの人懐っこい笑みで私を待っていたのだ。

「起きるの遅いよ葉月ちゃん」


「なんで? どうして? 大富豪のおじさんは?」

 私は思わず庭に走り出てその腕を掴んだ。頭が混乱し、心臓がバクバク音を立てる。


「ここの3日間は今までで一番刺激的だったから戻って来た」

「戻ってって……契約は?」

「あれ? 葉月ちゃんは悪魔がちゃんと約束を守る輩だと思ってた?」


「……あ」


 そう言えばそうだ。なぜこの悪魔は嘘をつかないと思ったのだろう。人間には非情でわがまま放題のはずの種族だ。


 悪魔は言葉を失くした私に視線を合わせ、そっと肩に手をのせて口を開いた。


「昨日の夜、朔は酷い事を言ったみたいだね。こんなに一生懸命な君を悲しませる奴を僕は許せない。だから戻って来た。これまで通り昼間は僕、夜は朔に体を返す。……ね? いいだろう? 朔が夜、君に素っ気なくしたら、昼間の僕が慰めてあげる。朔がここを出て行こうとしたら。僕がくい止める」


「でも……悪魔は約束を守らないんでしょ? いつか夜の朔もあなたが乗っ取ったりしない?」


「そうだね、なかなか鋭い。でもどうだい、あんな恩知らずで素っ気ない朔なんかより、僕と暮らす方が楽しいと思わない? 僕は好きになった人は真剣に守る。これだけは嘘じゃない」


 悪魔の言葉は真剣だった。朔と同じ眼差しで、じっと私を見つめて来る。


 この悪魔の優しさはきっと本物だ。

 きっと辛い時、慰めてくれる。甘えさせてくれる。


 もう、朔の中に私はいない。どんなに私が想っても、その気持ちは届かない。


 だったら……。でも。それって……。


「悪魔さん」


「答えは出た?」


「お願い。この体を朔に返してあげて」


「……え? なんで」


 予想外だったのか、悪魔の声が裏返った。


「悪魔も、朔も、朔の体もみんな好き。でもどれひとつ私のモノじゃないの。朔の事が大好きで、ずっと一緒に居たいけど、そんなこと私が決めることじゃない。朔の事が大事だから、朔は朔として幸せになってもらわなきゃ困る。私の我が儘を通していいわけないのよ。

 だからお願い。この体から出て行ってあげて。全部朔に返してあげて。お願いします」

 私は万感の思いで深く頭を下げた。


「大事な朔……か。ねえそれは、弟として?」

 悪魔の質問に、顔を上げて、首を横に振る。


「愛してる。一人の男の人として」


 悪魔相手になら何でも言えた。きっと笑い飛ばさずに聞いてくれると思ったから。

 この優しい悪魔ともお別れ。朔とも。―――もう全部終わったんだ。



「わかった。じゃあ悪魔は消えてあげる。これからは、君だけの朔だ」


 優しく抱き寄せられ、胸の氷がじんわり溶けていく。もう少しだけ、このままでいたかった。もうこれからは、愛おしい朔も、優しく頭を撫でてくれる悪魔も、いなくなるんだ。


「私だけの朔なんて、いないよ。私、ひとりぼっちだ」


「葉月の朔だよ。これからもずっと」


「……え」


 声質が変わった。悪魔じゃない。けれど、いつもの朔でもない。


 私は顔を上げた。すぐ間近に朔の恥じらうような笑顔があった。


「朔?」

 私が口を開くと同時に、背後から聞き覚えのある男の声が響いた。


「僕の完敗だ。朔くん、君にはウチに来てもらうよ」


 手を叩きながら生垣の裏から現れたのは、4日前、私がコーヒーをかけてしまったあのアゴ髭男だ。


「あなた! 悪魔!」

 一体どうなってるの? 朔は驚くでもなく、「よろしくお願いします」と男に頭を下げている。私は口を開けて呆けたように立ち尽くした。


「葉月さん。朔君の夢を知ってる?」

 アゴ髭男が朔の傍まで来て問う。私は首を横に振った。


「朔君はずっと役者志望だったんだ。うちの劇団に何度も押しかけてね、高校を出たら正式に役者にしてくれと言って来た。ずっと迷惑を掛けてる人がいて、その人を解放してあげたいんだと言って」

「あ、その話は」

 朔が顔を赤らめたが、男は続けた。


「うちも使えない役者を取る余裕は無いんでね。既定の入団試験を受けてもらった。“悪魔に半分乗っ取られる男”を演じ、一番近しい存在の人に信じさせられるかどうか。という難題。

 そして、彼は見事に合格。最高得点だ。いい拾いものをしたよ。彼はきっとうちの看板スターになる」


「入団試験……」


 私はどこか感情と切り離されたところで、ふわふわ浮いていた。


「葉月、騙してごめん。この試験をクリアするために、俺の夢を言い出せなかったんだ。昨日も言葉足らずで不安にさせちゃったよね。でも葉月に自由をあげたいと思ったのは本当なんだ。守られる立場じゃなくて、これからは一人前の男として、君と一緒に居たい。……だめかな」


 あの照れた、私の大好きな朔の笑顔だ。


 不意に劇団の座長が役者のように一礼し、気を利かして植え込みに消えた。

 ここからは二人の舞台だ。


「だめかな……って。ずるいよ朔。私、さっき本人相手にめちゃくちゃ恥ずかしい告白したし」


 視界が歪む。安堵と疲れと嬉しさとで、気持ちのコントロールが利かない。


「いろいろごめん。でもこの試験は俺の一生を左右する難関だったから、バレないように悪魔パートのテンションハイに持って行くのに必死だったんだ。悪魔は、言わば俺の理想。もう半分の俺」


「……もう半分の?」


「葉月への気持ち、ずっと隠して来て辛かった。ばれないように、わざと素っ気ないふりをした。でも気持ちは膨らむし、葉月の気持ちも気になるし。……だから、あの悪魔のキャラが生まれた。あいつは俺。馬鹿だけど正直な、もう半分の俺。卑怯だと思ったけど、このチャンスに葉月の俺への気持ちを確かめたかったんだ」


 言葉が出なかった。涙がこぼれないようにするのが精いっぱいで。


「試験のために葉月を巻き込んで、嫌な思いをさせちゃったけど。でももうこれからは絶対騙さない。今まで閉じこめてた気持ちも全部出していく。だから……」


 腕を伸ばし、ぎゅっと抱きしめてくれたのは、まるであの悪魔。そうだ。この朔の中には、ちゃんとあの悪魔も住んでる。


 ユーモラスで優しくて、ふんわり守ってくれる大きな存在だ。

 ああ。なんだか悔しい。悔しくて、そして嬉しくて、愛おしくてたまらない。


「ずっと一緒に居てくれる?」


 朔が、こくんと力強く頷く。


 私は心地よい日差しの下、しなやかでたくましい体をギュっと抱きしめた。


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