第七話 「発条王の悔悟」

 グロウワットは、苦しまずに逝った。政争の種であることを憂い、国の団結を願った大公の覚悟の自決に、安楽死を促す毒を用いたことは、それを準備させられた獄吏の、せめてもの敬意であるのかもしれなかった。


 呆然自失となったエヴァンスランスの前で、鉄格子の錠が解かれ、屈強な二人の獄吏の手によって、質素な空の棺桶がその内に担ぎ入れられる。彼らと共に、安楽椅子に眠るようにもたれる静謐な遺骸に祈りを捧げに訪れたのは、老境に差し掛かった尼僧であった。

 その小柄な尼僧の、白黒の頭巾から覗く憐れみ深い丸顔に、エヴァンスランスは激しく胸を突かれた。初見の尼僧の上に、いとけない愛娘の面影が重なって、突如湧き上がった思慕の念に溺れそうになった。



尼御前あまごぜ!」

 エヴァンスランスは別の呼称で呼びたい気持ちを懸命に押し留め、納棺の儀式を終えてその場を立ち去ろうとしていた尼僧に、縋る思いで声を掛けた。


「……何でございましょうや?」

 答える声を震わせながら、尼僧は静かに振り返った。尼僧もまた、思いがけない形でのエヴァンスランスとの邂逅に、胸を詰まらせている風に見えた。


 ――ああやはり、この女性は……。


 グロウワットは死出の旅路へ向かうにあたり、不肖の叔父に何という贈り物をしていってくれたのだろうか? 堰を切ったように溢れ出す滂沱の涙を、エヴァンスランスは止めることができなかった。


「国王陛下……?」

 エヴァンスランスは戸惑う尼僧の前にまろび出て、涙で濡れた左手を伸ばした。皺と苦労の刻まれた、幼子の頃から焦がれ続けた温かな手を押し頂き、嗚咽と共に口から零したのは、絞り出すような懇請だった。


「尼御前、どうか余に、いましばらくの時間を……。どうか余の、懺悔を聞いて貰えまいか?」



*****



 グロウワットの柩が安置された礼拝堂で、エヴァンスランスはその真正面最前列の木製の長椅子に、人一人分の空間を開け、尼僧と並んで腰掛けていた。通常懺悔は間仕切りを挟んでするものだが、エヴァンスランスは特別に、尼僧と肩を並べてのそれを希望した。


 その尼僧が誰であるのかは、先王にはあまり似なかった、エヴァンスランスと見比べた時の見た目に明らかで、近衛たちも事情を察して、国王の懺悔に立ち会う野暮はしなかった。

 獄吏がその場を下がるにあたって、尼僧は鉄球の付いた足鎖で繋がれていた。優しげな彼女に似合わぬ重いくびきが、エヴァンスランスには衝撃だった。


「貴女は咎人であられたのか?」

「はい……。妻子をお持ちの、とある高貴な方と姦淫し、生した子を捨てた咎でここにおります」


 淡々と尼僧は答えた。

 それは国教会の規範に背き、人道にもとる罪ではあるが、法によって裁かれる類いの罪ではない。さらにその上に、王族の思し召しという国家権力を前にして、平民の彼女には逆らうことなどできはしなかっただろう。犯した罪に対して重すぎる刑罰に、エヴァンスランスは愕然とした。


「……! それは貴女の、意思ではっ……!」

 今さらながらに、弁護をしてくれようかというエヴァンスランスに、尼僧はゆっくりと首を左右に振った。


「わたくしが強い意思を持たなかったばかりに、今際の際までお苦しみになられた御方がおいででございました。そうしてまたわたくしにとって、選択の余地が与えられなかった出来事でありましょうとも、我が子を産み捨てることになってしまったことは、どれだけ悔いても悔い足りない罪でありました……。世俗と隔てる檻を立てられ守られるここは、この国の貴い方々の、公然の秘密であるわたくしに、ふさわしいついの棲み家なのです」


 何ということだろうか……! この尼僧は、エヴァンスランスの生みの母親は、王宮を追われた後市井に帰されたのではなく、今は亡き王太后のご不興により幽閉されていたのだ。死するまで出ることの叶わぬこのベンジーニ塔に。


「余は……、余は……、貴女に……、何ということを……! 余は、貴女に生み捨てられたことを恨んでなどおらぬ。貴女が過剰な罰を科され、ここに入れられているのだと気付きさえすれば、いつでも救えたはずなのに……!」


 ベンジーニ塔に、誰がいつからどのような罪状で囚われているか? それは国王となったエヴァンスランスが、知ろうと思い立ちさえすれば、いつでも開示された情報であったはずだ。

 けれどもエヴァンスランスは、生母のこの窮状を今まで知らずにきてしまった。発条王として玉座に置かれているのを疑問に思うこともなく、王が負うべき義務を投げ出し、権利を軽視してきたことの代償として。


「何をもって、救いとおっしゃられているのでしょう? 国王陛下。尼僧としてここに在り、投獄された方々の告白に耳を傾け、死して罪をあがなわれた方や、尊い犠牲となられた方の弔いをすることが、わたくしにできる浄罪であり救済でございました。

 さあ、あなた様の懺悔もお聞きしましょう、国王陛下。生涯お会いできぬと思ってきた御方にお会いし、お伝えできると思わなかったことをお伝えし、御志を示して頂けただけで、わたくしは十分果報者にございます。一時の情に流されて、ベンジーニ塔の囚人には、未だかつて発令されたことのない特赦を、軽々しくお口にしようとなさってはなりません」


 泣き笑いを堪えるような表情で、優しく厳しく尼僧はそう諭した。甘やかすだけではない言葉に、エヴァンスランスは包み込むような慈愛を感じた。

 いやそれは、頭の天辺が涼しくなりかけた、いい大人になっていようと馬鹿な子であろうとも、子はいつまでも子であり限りなく愛しいと、エヴァンスランスの愚かさをすら受け止めようとしてくれる、真実の母の愛であったのだろう。


「余が、悔悟しておるのは、何よりも……、后に言われるがまま王太子と、王となってしまったこと……。宮廷が真っ二つに割れてしまう前に、余が、摂政大公としてグロウワットを支えていくと、そう宣言できていたならば……。グロウワットにこのように、むざむざ若い命を散らさせてしまうことはなかったのかもしれないと……」


 やりきれなさで喉を詰めながら、そう告白したのを皮切りに、エヴァンスランスは此度の事件に至る背景や、悲しみに満ちたその顛末、グロウワットに詫びる気持ちなどを、思い付く限りにとつとつと語っていった。



*****



 顧みてみれば、エヴァンスランスの異母兄あにと宰相リリアゴタールの間には、ゆっくりと、しかし確実に、蓄積された齟齬があった。派閥の下地はずっと以前から、水面下で成立しつつあったのだろう。


 しかしそれは先王によって繋ぎ止められてきた。小さくしょぼくれてしまった先王に代わって、そのままはかなくなってしまった父王に代わって、対立し浮き彫りとなった二つの派閥を取り持つことができたのは、リリアゴタールの娘婿であると同時に、グロウワットの叔父でもある、エヴァンスランスを除いていなかったのに……。


 全て自分が、自信と技量と度胸のなさを言い訳にして、己の人生に責任を持たず、主体性を欠いてきてしまったがために、招いてしまった悲劇であるようにエヴァンスランスには思えてならなかった。


 アンリシャンテと大喧嘩をしてでも、傷だらけになった甥っ子の傍にいてやればよかった。それは愛に飢えた子供時代に、心に沁みるような兄弟の情をくれた、異母兄への恩返しにもなっていたはずだ。

 そうしていればグロウワットの心の回復は早まったかもしれないし、その後の彼は、誕生の時から寄せられてきた期待のままに、明君へと成長してくれたことだろう。さらにあの頃の可愛らしいアンリシャンテならば、父親の意のままに夫を操縦することを諦めて、エヴァンスランスについてきてくれたかもしれない。


 それはもちろん希望的観測で、アンリシャンテに、ひいてはリリアゴタールに逆らうことで、エヴァンスランスは愛想を尽かされ、それこそベンジーニ塔へ追いやられてしまうよう、仕向けられていたかもしれないが。


 しかしエヴァンスランスの性格ならば、これもまた運命と受け入れて、小姓や獄吏を話し相手に牢の中に引き籠り、機械いじりに明け暮れることができていただろう。

 模範的な囚人となって、時には重い足鎖をかけてもらって時計塔に上り、大時計の仕掛けの中でそこに息づく祖父の魂と対話をすることも、こうして礼拝堂で生母と面会し、失われた時を埋めることすらも、叶えられていたかもしれない。



*****



「余はどのようにして、グロウワットに報いればよいのだろうか? 王となるべきであった甥を自決に追い込み、余の如く不甲斐ない発条王が、この先ものうのうと生きていてもよいのだろうか……?」


「大公殿下はご自身を殺め、国王陛下を生かされることを選ばれました。そのような真似を、何故、なさったか……? それこそが大公殿下のご遺志にございましょう。

 生きて行かれるからこそ、陛下は、大公殿下に手向ける償いができるのです。大公殿下が、お命をなげうってまで成し遂げたかったこと……、その遺志を継いでゆかれることではありませんか?」


 尼僧は厳かに、グロウワットの遺言をエヴァンスランスに思い出させてくれた。彼がそれを口にした時の、曇りを晴らしたような微笑と共に。


「グロウワットの、遺志……。宮廷から派閥を無くし、この国を、ヌネイルを、一つにすること。他国に付け入る隙を与えぬこと――」

「ええ」

「その際に、大公派にいた者たちを救い上げ、平等に評価し登用すること――」

「はい、国王陛下にしか、おできにならぬことでございましょう」

「発条仕掛けの余には、かなりの難問だが、のう」


 エヴァンスランスはおもむろに席を立ち、祭壇の前に据えられている、グロウワットの柩の前にふらふらと進んだ。

 黒い棺桶の上に右手を添えると、ぐるぐる巻きの包帯の白さがさらに際立った。

 重く蓋を閉ざされた棺桶の表面を、あまり力を込められない、指先だけでそっと撫でる。


 ――たとえ叔父上が、発条王であられることを選ばれましょうとも……。


 そう言いながら、グロウワットは、エヴァンスランスの技師の右手を刺傷した。親指の腱が切れ、元通りにはならぬかもと訴えても、同情する素振りすら見せなかった。

 それはつまり、狙い通りということで……、グロウワットが他のどこでもなく、エヴァンスランスの利き手を刺したのは、発条王と慕われることを喜んで、侮蔑されることを許容する、腑抜けた王に対する苛立ちがあったからではなかろうか?


「グロウワット、余は……、今からでも、そなたに恭順してもらえるに値する、発条いらずの王になれるだろうか……?」


 否。

 なれるだろうか、ではなく、きっとその日を迎えるために、まずは大きな一歩を踏み出すのだ。これを機に、エヴァンスランスがあがき始めようとしなくては、この先何も変えられまい。



「尼御前」

 項垂れていた首をしゃきりと伸ばして、エヴァンスランスは尼僧に向き直った。

「はい」

 速やかに呼応して、尼僧も長椅子から腰を上げた。


「国葬で悼むことこそできぬであろうが、グロウワットの亡骸は、罪人として無縁墓に埋めるのではなく、正しき墓碑を刻んで王家の墓所に葬りたい。祖国を愛するが故に大逆人を装った、憂国の士であったのだと、知るべき者たちに真実を伝えてゆけるように。過ちを繰り返さぬように……。

 尼御前、余が、その準備を整えられるまで、我が甥グロウワットに祈りを捧げてくれるだろうか?」

「はい……」


 物静かに語られた、エヴァンスランスの決意のほどに、尼僧は目頭を押さえながら跪いた。立派になって……という、こそばゆい親の欲目が聞こえるようだった。

 その弱りかけた足が引く、王太后の妄執であり先王の冷酷である鉄球を、辛い気持ちで眺めてから、グロウワットの柩に視線を戻して、エヴァンスランスは改めて誓いを立てた。


 ――必ずや、朽ちる前に迎えに来よう、グロウワット。そなたの死が、巡り会わせてくれた生母ははと共に……。






 【完結】最後までご読了ありがとうございました!

  関連作品に同時代の隣国の物語「緑指の魔女」がございます。

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発条王の悔悟 桐央琴巳 @kiriokotomi

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