第10話 真実と恋です

 佐倉はまた四元に呼ばれ、ギリシア彫刻が並ぶ部屋のテーブルでお茶を飲んでいた。四元は微笑みながら、裸体男性像の彫刻の一つを指さす。


「あれは何かお分かり?」


 こういう場合のために、佐倉も多少なりとも勉強していた。


「ええと、ポセイドンです。海の神様ですよね」

「そうよ。ギリシャにはたくさんの神様がいて、まるで人間のように愛し合ったり憎んだりするの」

「神様なのに、面白いですね」

「ええ、万能ではないの。でも、ギリシアの神様の持つ人間らしさは、今でも私達の心に生きているのよ。地球上に残っている伝説はいくつもあるでしょう? それらは決して壊してはいけないの。なぜなら、私達の心はそうした伝説を元に築かれているから。それが壊されたら、私達の心も壊れてしまう」

「ええ、そうですね」


 ここで四元は立ち上がった。手には黒いアタッシュケースを持っている。


「さてと、私はもう行かなければ」

「お出かけですか?」

「伝説が一つ、壊されようとしているの。それを守りにね。ふふふふ。このカバンの中には偽りのバイブルが入っているの。それは今日で役目を終える」

「偽りのバイブル? それは何ですか?」

「ふふふふ、内緒よ。ねえ佐倉さん」

「はい?」

「トータスセキュリティがなくなっても、あなたなら大丈夫。勉強家だもの。きっといいところに再就職できるわ」

「はい……えっ、ど、どういうことですか? なくなるんですか?」


 さりげなく言った内容だが、驚いてしまう。


「ふふふふ、元気でね」


 何も答えずに四元は笑いながら、エレベーターに乗って出て行ってしまった。



 鶴田は内示書を見て手が震えていた。やはり最近の噂は本当だったらしい。


「やはりそうか……亀の湯対策本部は廃部になる」

「正式には少し先のようですね」


 羽尾も険しい表情をしている。


「しかしもう予算すらない。存在してしないと同じだ」

「結局、何もできませんでしたよね」


 横瀬が半分茶化した調子で言うが、二人とも表情を変えなかった。ただ、鶴田が呟いた。


「お前もだなクソ政治家が。国は本気だと言ったのは貴様だぞ」


 攻撃衛星の『いかずち』を使わせてもらった時は、確かに国は亀の湯対策に本気だと確信したものだった。しかし、あとから出てきた話では、『いかずち』は大国の指示で第三国への攻撃にさんざん使われ、スクラップ寸前だったという。いつ、どこで、どのくらい使われたのかは内部でも分からない。日本の軍隊は大国の犬のように戦争に参加させられている。もちろん国民は何も知らない。


「亀の湯とは何だったのか……」


 鶴田は極めて哲学的な意味を込めて呟いた。


「銭湯じゃないですか?」

「しばき倒したろか」


 そういうセリフもやや元気がない。



 ウサギパンツ騒動で地方営業所に転勤となった坂本浩樹は、歩道を汗だくになって走っていた。営業車での移動にはやや慣れたものの、電車と徒歩が慣れない。営業所に戻ってくるのでも迷ったりする。やっと大きな案件がものになり、大事な契約を交わして戻ってきた。営業所では来客の予定がある。一刻も早く戻らなければいけない時に道に迷ってしまった。


「くそっ……この道じゃないんだよな」


 営業所に電話して確認する手もあったが、まだ道を覚えていないのかとなじられるのもシャクだ。自力で何とかしたい。スマートフォンの小さい画面に映し出された地図を必死で確認しては走り続ける。少し足も痛くなってきた。

 大きな銭湯の前を通り過ぎた。道はこれで合っているはずだ。契約書など重要書類が詰まった黒いアタッシュケースが重い。とにかく足の動くままに走っていたが、不意に目の前に出てきた数名の女性達の中に突っ込んで転倒してしまった。


「危ない!」

「総帥、大丈夫ですか?」


 坂本は落としたアタッシュケースを探しつつ、謝り続ける。


「すんません、すんません。急いでいたもんで」


 慌ててアタッシュケースをつかみ、再び走り始めた。どうにか来客の時間に間に合いそうだ。

 当然ながら、こういう状況で起こりそうなことが起きていた。



 宇賀神以下数名が、コンソールの前でモニタリングしている。コンソールからは四元の声がどうにか聞き取れる。盗聴器の受信した音声だ。


「有沢の奴、うまくやったようだな」


 会員だけのトータスグループ総会が開催されている。そこで何が行われるのか、有沢が盗聴器を仕掛けた。


『皆さんにおたずねしますが、真実の公開に異論はないということですか? それは総意ですか?』


 そう言う四元の声に、会員達が次々と答える。


『ネットワークで情報が駆け回り、宇宙人さえ襲来する時代です。もはや真実の隠蔽は国家としても不可能でしょう。期は熟したのです』

『もはや真実は隠し通せません』

『新しいトータスの時代の始まりです』


 会場内に拍手が沸く。宇賀神が舌打ちをする。


「肝心の真実が何か分からないな……」


 拍手が止み、しばらくして再び四元の声が聞こえた。


『いいでしょう……しかし残念ながら、期は熟しておりません。また永遠に熟すこともありません。そしてもう一つ言いたいことは、皆さんは国家を甘く見過ぎています』


 かなりの雑音が入る。会場内がざわめいたのだ。


『どういう意味ですか四元総帥!』

『言っていることが分かりません!』

『説明を求めます!』


 一通りの要求の後、四元が口を開いた。


『では宣言いたします。トータスグループは、本日今を持って解散いたします』

「なにいっ!」


 宇賀神がデカい声で驚く。周りの人も唖然とした。


『何を言ってるんですか!』

『国家に屈するんですか?』

『バイブルはどうするんですか!』


 次に何名かの悲鳴が上がった。また会場がざわめいている。誰かが入ってきたらしい。


『おとなしくしろ! 動く者は撃つ!』


 男の声だった。


「何だ? 何が起きたんだ?」


 宇賀神がそう言って、ボリュームを最大まで上げた。そこに四元の声が響いた。


『国家に屈する? ええその通りです。私が国家の一員ですから。屈するのはあなたたちです。バイブルはこの中にあります。これは今ここで焼却いたします』

『そんな!』

『やめて下さい!』

『裏切るのですか総帥!』


 宇賀神は苦虫を噛み潰したような顔になる。以前から四元には何かあると思っていた。何か隠しているのだと。こういうことなるのは分かっていたような気もするが、それにしても何のために今までトータスグループを続けてきたのだろう。

 武装したガードに守られているのだろう、四元は余裕の声だ。


『オホホホ裏切りではないのよ。初めからこうなる予定だったの。真実を正視できない人は多いでしょ? 人々が生きるために、伝説は守られなければならないの。たとえ真実とはいえ、隠さなければならないのよ』


 ここで低い音が響いた。何か重い機械が動いているらしい。同時に宇賀神の携帯が鳴った。出ると有沢からだった。


『宇賀神指令、洋館が沈んでいきます』

「沈む? どういうことだ?」

『分かりません。建物ごと地面に潜っていきます!』

「あの会場が地面に潜るのか?」


 総会の会場も大騒ぎになっていた。悲鳴も上がっている。部屋ごとエレベーターのように降下していた。四元の声が続く。


『真実を知る皆さんは、残念ながら、この先普通の人々との接触はできません。でも大丈夫。余生を過ごす施設は用意してあります。十分な居住スペースを確保しておりますわオホホホホ』


 四元の声が聞きづらくなってきた。地下に降下したせいか。宇賀神はボリュームを上げようとするが、これ以上は上がらない。雑音も多い


『さあ、いま……こ……でバイブルを……えっ、何これ? どういうこと?』


 それは四元らしくない、うろたえた声だった。


『カバンが……かわりました……K物産、坂本浩樹……きっとこの人よ。早く取り戻し……』


 何が起きているのか、宇賀神には正確にはわからない。しかし直感で行動する。


「おい、誰かK物産を検索しろ!」


 それからすぐ内線を手にした。



 佐倉は仕事もしていなかったが、ぼんやりもしていなかった。さっき四元から聞いたことが頭にずっと残っている。トータスセキュリティはなくなるのだろうか……

 そこに内線が鳴った。宇賀神からだ。半分無気力に出るが、鋭い声が飛び込んできた。


『神野と二人で、K物産に行き、坂本浩樹という奴からカバンを奪え!』

「……泥棒するんですか?」

『違う。カバンが入れ替わった。取り戻せ』

「じゃ、その坂本さんって人のカバンは」

『ない。先に奪え』

「じゃあ、とりあえず電話してみます」

『直接行くんだ! 時間がねーっ! 急げ! 国家に先を越されるな!』


 あまりの剣幕に、佐倉は思わず立ち上がる。


「こ、国家?」

『四元は国家側の人間だった。あたしたちは全員騙されてたんだ。とにかく急げ! カバンの中身が燃やされるのを阻止する。カバンを奪ってこい。K物産の住所は今から言う』



 帰社早々来客の対応をしていて、やっとそれを終えた坂本は、机に置きっぱなしだったアタッシュケースを机の上で開いた。しかし、中は全く予想もしないもので、紙の緩衝材の中に豪華な装丁の本が一冊入っているだけだった。


「えっ……何だこれ?」


 坂本は辺りを見回す。来客中に誰かがアタッシュケースを取り替えたのか? しかし周囲の机の人は、ほとんど営業に出ていて不在だ。しかたなく本を手に取って広げてみる。厚手の紙に、いくつもの写真が直に貼られてあった。手製の写真集のようなものだった。字は写真のコメントとして書いてあるが、英語か何かだし細かくて読んでいられない。ページをいくつも広げてみるが、どれも同じような写真だ。宇宙空間と宇宙船のようなものが写っている。印画紙が黄ばんでいるのもあり、結構古いようだ。昔のSF映画のスチールだろうか。宇宙船をよく見ると、宇宙船とは思えない妙な格好をしている。

 ここで内線電話が鳴った。受付からだ。受付は電話しかないので、来社した人の声を直に聞くことになる。


「はい、営業の坂本です」

「トータスセキュリティの神野と申します。あのう、カバンをお間違えではないかと」


 若い女性の声だ。ここで、帰社の途中で女性数名の中に突っ込み、アタッシュケースを落としたことを思い出す。


「ああ、はい! 確かに違います。今さっき気づいて、驚いていたところです。今行きます」


 自分のアタッシュケースの中には重要な契約書をはじめ、予備の名刺やら、カタログやら価格表やらが入っている。それらを見て、親切にも届けに来てくれたのだ。ありがたい。坂本は本を元通りにアタッシュケースにしまい、それを持って受付に行った。

 そこに、二人の若い女性が待っていた。


「どうも坂本です」

「神野と申します」


 二人のうち、背が高くて髪の短い女性が、軽くお辞儀をした。後ろにいるやや背の低い女性も黙ってお辞儀をする。坂本はアタッシュケースを差し出しながら言う。


「すいません。ここに来る途中ぶつかって、違うのを持ってきたようで」


 しかし、見たところ二人とも坂本のアタッシュケースを持っている様子はない。


「ええと、俺のは……?」

「ちょっと……違うところにありまして……」


 神野と名乗った女性が、歯切れ悪く言った。少し不安になる。


「大丈夫ですぅ。あとで必ず持ってきますので」


 もう一人がそう言うが、声が何だか可愛らしい。坂本を見てにっこりと微笑み、しばらく坂本は見とれてしまったが、すぐに重要なことを思い出す。あの中には、一刻も早く提出しなければならない契約書が入っているのだ。


「あのう、あとからじゃ困るんで、俺一緒に取りに行きますよ」

「いえ、あの、お待ちいただいた方がいいかと……」


 神野の態度に、何か不可解なものを感じる。なぜ持ってこないのか?


「あの中には、重要書類が入っているんですが」

「とりあえず、こちらは返していただきまして……」


 神野がそう言って手を伸ばすが、坂本は反射的にアタッシュケースを引っ込めた。


「ちょっと待って下さい。交換ですよ。なぜ俺のを持ってこなかったんです?」

「それはですね……あのう……」


 神野はどう言おうか考えているらしい。すると隣の女性が口を開いた。


「あの、ほんと、今すぐ別の者が持って来ますぅ」

「じゃ、その人に渡すよ」

「それじゃ燃やされちゃうんですぅ」

「佐倉っ!」


 神野がたしなめる。


「燃やす? 何で?」


 確かSF映画の写真集のようだったが。そんなに重要なものなのか?


「それは……とにかく時間がありませんので、失礼!」


 神野がいきなりアタッシュケースを奪い取り、ついでに坂本の腹を蹴り飛ばした。不意のことで、坂本は後ろに転倒してしまう。


「いってーっ!」


 その間に二人は出て行ってしまった。腰を床に打って痛い坂本は何とか起きあがって、後を追った。


「ちっきしょー」



 佐倉はアタッシュケースを抱えた神野と歩道を走っている。


「追いつかれちゃいますぅ」

「いいから走りな」

「足に自信ないですぅ……そうだ、私だけ離脱していいでしょうか?」

「ダメよ。私が捕まったら、あんたがこれを持って走って逃げるの」

「えー?」


 佐倉は後ろを振り向く。遠くからもう坂本が追ってきていた。


「来てますよ」

「分かってるよ……あんたが体を張って止めて、私が逃げるってのどう?」

「えー? そういうのは神野さんがやるべきじゃないですか? 狼だし」

「嫌よ! 間違って噛み殺したりしたら目も当てられない」

「甘噛みすればいいじゃないですか」

「……そう簡単に言わないでよ!」

「神野さん、ちょっと止まって下さい」

「えっ?」


 神野が驚いて止まる。佐倉を見ると、道端に座っている二人のホームレス男性の前に立っていた。


「何してんの?」


 佐倉は財布を出し、そこから千円札を一枚出して二人に見せつけた。


「これあげますから、お互い二人でキスし合って下さい!」


 意図が分かった神野は腹を立てる。


「あんたね……なんでそういうえげつない手段をとるの!」

「手段なんて選んでられないですぅ」

「金で釣られたキスなんて、私は微塵も興奮しないからね!」


 二人のホームレス男性は、お互い見つめ合った。


「山さん、どうしよう……」

「徳さん、……実は前から徳さんのことを……」

「ほ、本当かい……じゃ、い、いいのか?」

「いいとも……徳さん」

「山さん……好きだぁ」

「俺もぉ」


 二人はそう言い合って抱き合い、唇を重ね合わせた。これには佐倉も驚く。


「本物だったなんて……」


 そしてすぐ隣では、アタッシュケースを取り落とした神野の全身が変化した。服が飛び散って、銀色の毛皮に包まれた、大きな狼の体が現れる。四つ足で立った狼は天に向かって高く吠えた。


「わおおおおおおおん!」


 すぐ近くに迫っていた坂本は仰天した。前方にいた神野がいきなり狼に変化したのだ。狼は坂本の方を向き、そのまま襲いかかってきた。


「うわあああああっ!」


 坂本は怖かったが、自分のアタッシュケースの行方が分からなくなるわけにはいかない。必死に立ち向かおうとする。


「くっそーっ!」


 飛びかかってくる狼の頭を必死で張り飛ばそうと手を振り回す。狼が脚に噛みついた。


「いってーっ!」


 坂本は、思い切り脚を振って、狼の体を近くの電柱に叩きつけた。狼の口が離れる。


「きゃううううん!」


 そう鳴くなり、狼の体が元の神野に戻った。服が飛び散っていたので、神野は丸裸だった。起きあがるなり自分の姿を見て仰天する。


「うわっ! いやだーっ!」


 そう叫んで、全速力で立ち去ってしまった。後には脚を押さえて呻いている坂本と、今まで呆然と見ていた佐倉だった。佐倉はふと気がつき、アタッシュケースを持って逃げようとする。しかし、走りかけて足が止まった。


「どうしよう……」


 このまま坂本を放っておいていいのか悩む。



「アンチフェーズ確認! 直下攻撃型ヘリ五十二型が迫っています」


 レーダー係の声が響いた。宇賀神が驚いて立ち上がる。


「何だと? 目標は亀の湯か?」

「恐らく……いえ、コースはやや外れているようです」

「佐倉達はどこにいる?」

「神野は行方不明。佐倉は……亀の湯南三百メートル……敵の目標は佐倉です!」

「あのカバンだ! 第一、第二FS部隊出撃! 佐倉を護衛しろ!」

「敵機……十機を確認。今までにない数です。FS部隊で全機に応戦は難しいです。ここにも向かっています」

「くっそーっ!」


 宇賀神はハリセンで机を叩く。



「あのう……大丈夫ですか?」


 佐倉は立とうとして立てない坂本に声をかける。


「大丈夫じゃないよ……いったいどうなってるんだ?」

「私にもよく分からなくて……」

「分からない? じゃあなんでそれ持って逃げてんだよ!」

「命令なの……」


 坂本は、どこか悲しそうに言う佐倉を、これ以上責める気にはならなかった。命令。そうだ命令を守ろうとして、自分だってバカなことやって本社を追われたんだから。

 その時、少し離れたところで爆音がした。方向からすると、トータスセキュリティの方だ。煙も上がっている。ほぼ同時に、携帯が鳴った。宇賀神からだ。佐倉は慌てて取る。


『佐倉、無事か? カバンはあるか?』

「はい……何とか。カバンもあります。すぐ戻ります」

『こっちは今攻撃を受けている。FS部隊で対応しきれない。お前はそのカバンを持って逃げまくれ。神野はいるか?』

「ええと……カバンを守るために狼になって、元に戻ったら裸だったので、どっかいっちゃいました」

『何? お前一人か?』

「はい……いえ、ここに坂本さんが。そういえば坂本さんのカバンは?」

『そんなのどうでもいいだろ』

「大事なカバンなんです。どうでもよくないですぅ」


 このままじゃ坂本が巻き込まれっぱなしだ。佐倉は祈るような気持ちで伝えるが、宇賀神には通じないようだ。


『いいからお前はそれ持って地の果てまで逃げろ!』

「でも……」


 その時、いきなり近くで爆発が起きた。佐倉が爆風で吹き飛ばされ、地面に転がる。携帯もどこかに飛んでいった。坂本は驚いて、自分の脚が痛いことを忘れて、必死で立ち上がり、佐倉の方に歩いていく。。


「お、おい……君……」


 佐倉は転がっていたが、どうにか起き上がり、立ち上がった。そしてふらつきながら、アタッシュケースを手にする。そこに坂本が近づく。


「大丈夫か?」

「持って逃げなきゃ……また攻撃される。あなたはもうついてこないで。巻き込まれるよ」


 佐倉はそう言って、上空を見上げた。坂本も同じように見上げてみたが、そこには今までに見たこともないような光景があった。四つのローターを持つ黒いヘリコプターらしいものが、いくつも停滞していた。しかし音がしない。見ると、ヘリの周囲で何かが飛び回っている。大きな鳥か? いや、飛行装置を付けた人間だ。ヘリと戦っているらしい。


「何だ……ありゃ」

「直下攻撃型ヘリと、応戦するFS部隊。この上空では時々戦争が起きるの」


 倒れそうになる佐倉を、坂本が支えたが、坂本の方も脚の痛みで崩れてしまい。二人で地面に倒れ込んだ。


「ううう……」

「大丈夫。FS部隊は強いから。あなたは帰って。すぐに病院にでも行った方がいいよ」

「そんなこと……できない」

「どうして?」

「いいから、逃げるんだろ?」


 二人は立ち上がって、支え合いながら亀の湯から離れる方向に歩き出した。しかし、前方から何かが見え始めた。黒い大きな車体。それは大型の戦車だった。


「ああっ……!」


 戦車はこちらに向かってくる。


「何だあれは? 敵か? 味方か?」

「うちは戦車なんか持ってない」

「まずいじゃないか……」


 坂本はどうにもできないことが悔しかった。こういう時に、ヒーローはヒロインを守ることだ。でも自分に特別な力があるわけじゃない。せいぜい倒れないように支えてあげるぐらいしかできない。しかも自分だって傷ついている。戦車の砲身が、自分達の方を向くのが分かった。実際のところ、坂本自身は関係ないのだから、ここで逃げてしまえば、自分が狙われることはないだろう。でも、動くことはできなかった。脚が痛いというだけではない。自分だけ逃げて、この子だけが撃たれるのが耐えられない。目の前で見捨てたみたいじゃないか。

 佐倉は坂本にしがみつきながら、不思議な気がした。あまり怖くないのはなぜだろう。この坂本という人が、関係ないのに自分を守ろうとしているからだろうか。

 耳鳴りのようなキーンという音がした。同時に戦車の砲身が火を吹いた。目の前に何かが飛んできたが、何も自分達に当たらなかった。そのかわり、自分達の左右の建物の壁や車道が音を立てて破壊された。そしてその直後、戦車の砲塔が真っ二つに割れた。さらに胴体も二つに割れたようで、直線上に蒸気のような煙が上がっている。耳鳴りのような音が治まった。辺りが静まりかえる。


「何だ……どうなったんだ?」


 佐倉は後ろを振り向いた。道路の中央に長い髪の美しい女性が立っていた。彼女は手を前方に上げ、指で三角形を作っていたが、それをゆっくりと下ろした。


「水無月さん!」


 水無月は微笑した。


「どうにか間に合いましたね」

「あ、ありがとうございます!」

「早くお逃げなさい。私の後ろからも援軍が迫っていてよ。ここは私が防ぎます」

「でも水無月さん一人では……」

「大丈夫。私はいつでも、愛し合う者達の味方」

「愛し合う……者達?」


 佐倉と坂本は思わず顔を見合わせる。


「いや、俺達は別にそんな……まだ……」


 戸惑う坂本の声を聞き、水無月はまた微笑する。


「私は自分の力のせいで、何人もの恋人を失ったわ。そして失ったもののあまりの大きさ愕然とした。あなた方が手にしたものは、自分で思うよりもずっとずっと大きいものよ。手を取り合って行きなさい。私はここで、命の限り守っていてよ」


 佐倉はそれを聞いて、なぜかこぼれてきた涙を拭った。


「水無月さん……ありがとう」

「俺からも、助かりました……行こうよ」


 坂本が佐倉に言う。佐倉はうなずいた。


「ええ」

「さよなら佐倉さん」

「水無月さんも……無事でいて下さい」


 水無月は微笑してうなずいた。風に吹かれ、長い髪が光の粒をまき散らしながら揺れた。

 二人は歩き出した。空を見ると、攻撃型ヘリも、FSも姿がない。戦闘は終わったのだろうか? 町も皆家に引っ込んでいるのか誰もいない。現実とは思えない風景だった。しばらく歩くが、前方の空から黒い影がいくつも出現した。二人は思わず立ち止まった。黒い影の数はあまりに多く、空を覆っていくかのようだった。攻撃型ヘリだ。無数に襲来している。FSはもういない。

 その時、後ろで爆音がした。今来た道の方だ。黒い煙が上がっている。


「水無月さん……」


 佐倉は両手で顔を覆い、その場にうずくまった。坂本もその場にしゃがみ込む。


「大丈夫だよ。あの人強いんだろ?」

「ええ、でも……」


 相手があまりに強大だ。坂本は空を見上げる。攻撃型ヘリの群は、ほぼ真上に迫っている。真上に来たら攻撃されてしまう。坂本は何とか佐倉を立たせようと両肩をそっとつかんだ。


「立とう。行こうよ」

「もういい。あなただけ行って……」

「ダメだよ。俺は……君が傷つくのが嫌なんだ!」

「それって……」


 群が真上に来た。攻撃態勢だ。しかし、別の方向からかなりの速度で飛んできたもの上がある。それは巨大な円盤で、攻撃型ヘリは慌てて上空から逃げ始めた。



「わっはっはー。クソ国家の虫ケラどもがっ!」


 狭い操縦室内で鶴田が笑っていた。


「ほとんど八つ当たりですな」


 羽尾もややあきれてはいるが、まんざらでもない。以前の重力波相殺装置を付けた円盤に乗り込んでいた。


「なんでっ、なんで私まで巻き込むんです!」


 横瀬が縛られて床に転がされている。


「お前は人質じゃ。防衛副大臣だから殺されねえよ」


 その時、鶴田のスマフォが鳴った。鶴田はニヤッと笑って取る。


「防衛大臣殿、私は今忙しいであります。任務を不当に解雇され遺憾であります。防衛副大臣が立ち会っておりますので、何かよけいなことしやがったら副大臣ちゃんが地面に落下……何? 何だって?」


 鶴田はスマフォを耳から外した。


「横瀬君、君、副大臣をクビになっちゃった」

「えっ?」


 次の瞬間、衝撃とともに操縦室が火を吹いた。攻撃されている。これではもう操縦どころではない。


「わあっ、脱出脱出」

「パラジュート、パラシュートだっ!」



 円盤は巨大だったがほとんどハリボテで、攻撃を受ける度に脆くも壊れ、火を吹いていった。反撃している様子もなかった。二人は呆然と見上げているばかりだった。やがて円盤は炎に包まれて、どこかの地面に落下したが、ほとんどが灰になったようで、落下の衝撃などはなかった。上空は元のように、攻撃型ヘリに覆われていった。

 二人は寄り添っていた。今度こそ、もうダメだと佐倉は思う。人生が惜しいと思ったことは、あまりなかった。いつだってなるようしかならない感じで、その場に流されて生きてきた。でもそれは、自分一人だけだったからだ。

 隣にいる坂本を思う。こうして出逢えたばかりだというのに、今ここであらゆることから別れなければならないなんて。それは辛すぎる。

 誰か助けてほしい。佐倉は切実に祈った。そして、遠くにいる何かがその思いに応えるのを感じた。誰だろう。

 やがて道の向こうから、風を切ってやってきた。馬のようで、そして頭の中央に、一本の長い角がある。


「ユニコーン……ユニコーンだ!」

「何?」

「助けてくれるかもしれない……」


 ユニコーンは駆けてきて、佐倉達の目の前で止まった。そして乗れるようにしゃがみ込む。佐倉はアタッシュケースを持ってユニコーンの背中に乗った。続いて、坂本がその後ろに乗ろうとした。


「一緒に来るの?」

「ここまで来たら、行くさ」


 巻き込んだとは言え、佐倉もここで坂本と別れたくはなかった。坂本は後ろに乗った。


「あの……じゃあ、つかまって」


 佐倉は少し言いづらそうだった。


「あ、そうか……」


 普通こういう時は男が前になって、女がつかまっているというのが絵になるが、今は逆だ。


「俺、前に行こうか?」

「いいよ。つかまって」

「うん」


 坂本は、佐倉の体に腕を回した。佐倉はやや照れくさい。


「ええと……」


 自分はどうしたらいいのだろう。手綱も何もない。迷っているうちにユニコーンが立ち上がった。


「ちょっと待って、ええと、ええと……どうしたらいいの?」


 ユニコーンは動かない。近くで衝撃音がした。見ると地面がえぐれていた。攻撃された。佐倉は震え上がり、思わずアタッシュケースを持っていない右腕でユニコーンの首にしがみついた。


「逃げて! ここから! スピードを上げてどこまでも突っ走って!」


 佐倉は叫んだ。ユニコーンが加速を始めた。


「やった!」


 不思議なことに、風を感じない。振動もほとんどなかった。ユニコーンは加速を続け、飛ぶように走っている。いや、実際に飛んでいた。地上数メートルぐらいか。住宅街の屋根や道路が真下を高速で流れていく。


「どういうこと?」


 佐倉は首に回していた右腕を離した。左手で持っていたアタッシュケースを両手で抱える。同時に坂本も、佐倉の体に回していた腕を外した。二人でユニコーンの背中に乗っているだけだった。しかし周囲の景色は飛ぶように流れている。まだ加速しているらしい。


「すごい速度だ。でも風も加速も感じない」


 自分の周囲を見ると、何か光る膜のようなものに包まれているのが分かった。これが自分達を守っているようだ。


「ユニコーンがどれくらいの力を持ってるか知らない。これを開発した人は、恐ろしい兵器だと言ってたけど……」


 佐倉は三富の話を思い出す。

 ユニコーンは海に出た。水平線ばかりで風景の変化がなくなったため、一瞬、自分達の速度が分からなくなった。しかし後ろを見ると、海岸線がどんどん遠くに離れていく。


「やだ……日本を出ちゃった」

「戻った方がいいのかな」

「でも、戻っても攻撃されるだけかも」

「これ、どこまで行くんだろう」

「どこまでも行ってって言ったから、どこまでも行くんじゃない?」

「じゃ、地球をぐるぐる回るわけ?」

「そうかも……」


 周囲が水平線になり、空がやや暗くなってきた。しばらくして、前方の水平線の、その向こうから、何か薄い灰色をした巨大な山のようなものがせり上がってきた。移動するに連れて何かが見え始めている。右の方に、険しい山の連なりのようなものが見え始めた。それは岩ではなかった。黒い表面がつるつるしている。連なりは規則的で、四つぐらいある。そして全く同じものが左の方からも見え始めた。


「何だ? 陸地にしちゃ変だぞ」


 坂本がつぶやく。前方の山は異様な形をしていた。頂上が丸く、高くせり上がっていて、形が整っている。まるで巨大な親指が水平線の向こうに立っているみたいだ。左右の山の連なりは、その姿を見せると、その下に別の表面を見せ始めた。


「何だか、四つ並んだ爪みたいね」


 佐倉がそう言った時、前方の山が動いた。その側面に巨大な目があった。そしてそのすぐ前に平たい口がある。


「ま、まさか……」


 佐倉が目を見張る。それは見たことのある顔だ。


「まさか……亀じゃね?」


 坂本もあきれたように言う。


「亀……亀だね!」

「マジ亀だよ!」


 それは確かに亀の首だった。そして左右に見え始めていたのは、亀の前足だった。


「ありえねえっ!」


 海を越えた向こうに、亀の頭があるなんて。地球は亀の上に乗っているのか? ここで坂本が思い出した。


「ねえ、そのカバン貸して」

「えっ?」


 佐倉はアタッシュケースを渡す。坂本はその中からバイブルを取り出した。中を開いてみる。


「見て、これだ。俺はSF映画のスチールかと思った。本物の写真だったんだ」


 宇宙空間を背景にした亀の頭。他のページには亀に乗った半球形の陸上の写真もある。


「するとこっちは何? 人工衛星から撮った地球なの?」

「分からないけど、そうじゃないか?」


 ユニコーンはまだ飛ぶように走り続けている。海から再び陸に上がった。そこは暗い緑色で、一面に正六角形を敷き詰めた幾何学的な模様がついていた。


「どこだ?」

「亀の甲羅みたい」


 そしてユニコーンは止まって、脚を曲げて座った。そこは大地の果てであり、亀の甲羅の縁だった。甲羅の縁といっても、スケールが大きいのでほとんど直線に見える。それ以上向こうには何もない。そこは切り立った崖のようになっている。そこから落ちたら、宇宙の果てまで落ちていくのだろうか? 甲羅の下の方からは、巨大な亀の頭だけがそそり立つように延びていて、遙か前方まで見えていた。

 二人はユニコーンから降りて、この景色と、バイブルの写真を見合わせた。


「この場所の写真もあるね。いつ撮ったんだろう。全体像もあるから、宇宙空間からも撮ってるんだ」


 写真は白黒で、かなり古そうだった。


「この亀は何を食べてるのかな?」


 佐倉の無邪気な質問に、坂本の目が一瞬点になるが、それでもまじめに考えてみた。


「そうだな……宇宙の塵とか?」

「チリペッパー?」

「君、まじめに考えてる?」

「実は人間ってものすごく小さくて、この亀は普通の亀なんじゃない? 水草とか食べてる」

「じゃ、俺達が見ていた普通の亀は何なんだ?」

「普通じゃないほど小さい亀ってこと」


 坂本は頭が混乱してきた。何かもっと重要なことがいろいろあると思うのだが。

 その時、突然として爆音が上空で鳴り響いた。驚いて見上げてみると。戦闘機のような三角翼の飛行機が、十機ばかり上空に停滞していた。それらはそのまま垂直に、次々と降下してきた。


「追ってきたのか!」


 かなりの音量なので、坂本が怒鳴るように言う。


「多分、そうかも!」


 全機が二人の前に着地した。エンジン音が止まり、中央の飛行機から、二人の人間が降りてきた。ヘルメットをかぶってゴーグルもしている。佐倉達の方に歩いてきて、少し離れて立ち止まった。その一人がヘルメットとゴーグルを外した。四元貴子だった。


「四元総帥……」


 佐倉がつぶやくように言う。四元は微笑んだ。


「いきなり来たので驚いたでしょ。超音速VTOLよ。音よりも早く飛べるの。でもあなた方を追うのは苦労したわ。佐倉さん、そのバイブルをお渡しなさい。これは私の命令です」

「渡したら……燃やすのですか?」

「トータスグループの役目は終わったのです。伝説は真実のまま生き続け、真実は伝説として生きるのです」

「なぜ……どうして地球が亀の上だっていう真実が、いけないのですか?」

「それはね、とても簡単なことよ佐倉さん。自然界にとって最も安定した形は何かお分かり?」

「え? 安定した形?」


 佐倉は考え込む。


「球じゃないか?」


 坂本が答えた。


「正解よ、そちらの……坂本君でしたっけ。空中では水は球体にまとまろうとするわ。万有引力の関係で、自然界のものは全て球形で安定しようとするの。だから月も太陽も球なのよ。地球も当然球形であるということが最も私達には理解しやすいの。ところがね、地球だけは違っていたのよ」

「それは……なぜです?」

「理由までは知らないわ。でも、この事実は、私達を不安にすることは間違いない。あの亀の機嫌を損ねて、暴れさせたりでもしたら、すぐに地上の文明は終わってしまうのよ。一説には、私達が創られた種であって、宇宙に出て自分達の居住環境を確認できる文明を持っても、自分達の小ささを思い知るように、わざとこんな場所に私達を創ったというもの」

「宇宙人が俺達を創ったのか?」

「一つの仮説ですけどね。でもね、私達は発展を止めてはならないの。止めたらもう衰退しか残っていない。だからこの地球は、宇宙で普通に生まれたものと認識される必要があるの。一つの球であることよ。『地球』というまさにその言葉を守るために、世界は結束しているの」

「確かに、『地亀』じゃ落ち着きませんよね……」

「理解できたのなら佐倉さん、バイブルをお渡しなさい」


 佐倉は、バイブルを手に、四元の方に向かおうとした。


「あらかじめ言っておくけれど、それを渡してくれたからと言って自由にはなれないわ」

「えっ?」


 佐倉は思わず立ち止まる。他の飛行機からも、次々と人が降りてきた。そして拳銃を出し、二人を狙う。


「申し訳ないけれど、真実を知る人間は一人でも少ない方がいいの。ここに来てこれを見てしまった以上。ここで永遠に眠ってもらうわ」

「そんな……」

「すぐに撃ってもよかったけれど、何も知らずに眠るのも気の毒だから、説明してあげたのよ。あなたが何も知らないままだったら、またギリシア彫刻のお話もできたのにね……」


 四元は少し寂しそうだった。佐倉はどうすることもできない。その時、小さいシャッター音がした。見ると、坂本が後ろ手でスマフォを使って写真を撮っていた。そして坂本はそれを四元に見せつけた。


「もし撃ったら、この写真をソーシャルネットにアップするぞ! 指一本で送れるんだ。GPSで位置情報も入るんだぜ。ここがどこかすぐ分かる。世界中に真実がばらされるんだ」


 四元は顔をしかめた。


「ここに電波は来てないわよ」

「えっ? ……あ」


 確かに地の果てなので、何の電波も来ていなかった。坂本は思考停止してしまい、佐倉はため息をつく。今度こそもうダメかもしれない。

 その時、地面が揺れ始めた。地震だろうか。そして突然、佐倉達の目の前の地面が壊れ、中から出現したものを見て佐倉は仰天する。蛇の体と七つの爬虫類の頭、その中心に人間のような顔がある。


「ななななナーガ!」


 地下で遭遇し、銭湯『松の湯』にも佐倉を追って現れ、神野に撃退された怪物だ。


「また追ってきたのあんたは!」


 ナーガはうねる胴体を立ち上げ、中心の顔は佐倉を見てヘラヘラと笑っているように見える。その顔を寄せてきた。


「嫌だーっ! 来ないでっ!」


 思わず手に持っていたバイブルをナーガの顔に投げつけた。命中したナーガが顔をしかめて呻く。


「うー」


 四元をはじめ、銃を構えていた連中も突然現れたナーガを見て怯んでいた。坂本は佐倉の手を取る。


「逃げよう! ユニコーンで」

「う、うん」


 二人は手にとって走る……ことはできず、まだ足が痛いので、どうにか歩いて座っているユニコーンの背中に乗った。


「ユニコーン、逃げて!」


 佐倉が叫んだ。ユニコーンは立ち上がって走り出す。銃声がした。後ろを振り向く。ナーガがうねりながら追ってきていた。


「うああああ!」


 さらに超音速VTOLが次々と離陸して、追いかけてきた。それだけではなく、ミサイルも撃ってきた。それはユニコーンには当たらず、周囲で爆発した。爆音と炎に囲まれる。佐倉は涙を流して叫んだ。


「もう嫌だよぉ! 私達二人きりにして!」


 その瞬間、ユニコーンが高くいななき、さらに加速した。周囲の景色が消えて虹色の光に変化した。何が起こったのか分からない。前を見ると、白い光が見え、ユニコーンはそこにまっすぐ向かっていく。光に包まれたと思った時、佐倉は気を失った。



「佐倉さん、佐倉さん!」


 その声で目が覚め、顔を上げた。テーブルがあって、椅子に座っていた。


「眠いのですか? 入社初日からそれじゃ困りますね」


 そんな声がしたが、しばらくここがどこだか分からない。自分はスーツを着ていた。周囲を見回すと、そこはトータスセキュリティの会議室だった。前には総務部の中原が立っている。他のテーブルには、入社初日で辞めたはずの同期の子達が座っていた。


「えっ? 私なぜここにいるの?」

「これから初日の研修が始まります」

「宇賀神指令が来るのですか?」

「は? 誰ですそれ?」

「いえ、地下司令室の……」

「ここに地下などありませんよ」


 周囲の何人かがクスクス笑った。


「ええっ?」

「夢でも見てたんでしょ」


 佐倉は思わず立ち上がって、会議室を出るとエレベーター前に行ってみた。何度も押したはずの下向きのボタンがなかった。


「ええーっ?」


 呆然としていると、会議室の方から呼ばれた。


「佐倉さーん、早く戻って下さい!」

「は……はい……」


 研修が始まり、まず四元が挨拶をした。


「えー、当社の業務ですが、既に知っての通り、企業向けのセキュリティ業務、女性用防犯用品の販売と、防犯に関する教育や講習会、セミナーなどの開催となります……」


 亀の湯などという言葉は、一言も出ることはなかった。亀の湯自体は存在していたが、普通の銭湯として、老若男女の利用客が出入りしていた。

 自分は長い夢を見ていたのか……佐倉は思う。いや、それにしても長すぎる。とても夢とは思えない。

 とはいえ、できることはただ環境に適応していくことだった。佐倉は新しい(?)トータスセキュリティの社員として、日々の生活を続けていった。



 数ヶ月経ったある日の朝、佐倉は店舗内を掃除していた。そこに一人の男性が来た。彼を見て、佐倉は驚き、しばらく顔を見つめた。彼もまた、驚いて佐倉を見つめていた。


「坂本……さん?」

「……夢じゃなかったんだ」


 その言葉で、佐倉の胸が高鳴る。


「そう、夢じゃなかったんだね! 会いたかったよ。今までどこにいたの? あなたの会社もちょっと覗いてみたけど、いなかったよ」

「気がついたら、俺はまだ本社所属だったんだ。今日はたまたまここの支社に用があったんで、ついでに寄ってみたんだ。そしたら、本当に君がいた」

「嬉しい……私の夢じゃなかった……」


 二人はまた見つめ合った。

 では、ここはどこなんだろう……佐倉は思う。別世界? 平行宇宙? あるいはユニコーンが見せてる夢? どこでもいいかもしれない。二人きりになりたいと、望んだ結果だから。


「この世界でも、よろしくね」

「うん、今度遊びに行こうよ。どこか」


 坂本はやや照れたように言う。


「そうだね」


 佐倉も眩しそうに微笑んだ。



                              (終わり)

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亀の湯戦記 またはただ一つの銭湯を守るべく国家と戦う物語 紀ノ川 つかさ @tsukasa_kinokawa

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