最終話「時を超えて」

◆第17節 前田樹とドッペルゲンガー◆


◇2016年7月28日◇


 入口のドアが開き、軽快な鐘の音が響く。


「いらっしゃいませー。……ああ、寿ことぶきさん」


「『長老』でいいよ」


 寿 長助ちょうすけさん……僕が住んでいるマンション「クーネルジュ涼風」のオーナーだ。結構な高齢のはずなのだが、外見上は40代くらいに見える。人々からは「長老」というあだ名で親しまれているけど、僕はどうにも抵抗があって呼べない。


「お、長老。いらっしゃいませー」


 店長が慣れた口調で言った。彼もこの店の常連客の一人で、僕の中でもマンションのオーナーというよりは客のイメージが強い。注文を取るため、寿さんの席へと向かう。


「ご注文は?」


「じゃあ、アイスコーヒーで」


「はーい」


 返事をしたのはカウンターの奥にいる店長だった。聞こえるならわざわざ僕が注文を取りに行く必要はない気もするが……。どうせテーブルに持って行くのも店長だろう。こうなるともう用がないので、僕はカウンターに戻って読みかけの小説を手に取った。普通の店なら仕事中に本を読むなど許されないだろうが、この店は全体的にゆるく、むしろ店長から「ヒマな時は本でも読んでて」と推奨すらされている。

 今読んでいるのは『零式時空間転移装置 ゼロテン』という作品。作者の平等院びょうどういん 拾圓じゅうえん先生はいろんなジャンルの小説を書くのだけど、今回はバリバリのSF……タイムトラベルものだ。僕は普段こういう作品を読まないので、新鮮な気持ちで楽しめている。


「闘也、そこ違う」


「え、マジ?」


「中3でもわかるとこじゃん」


「うるせえ」


「皆美ぃ、ここわかる?」


「リンちゃんもかーい」


 いつもの3人組は、夏休みの宿題をやっている。僕にもこんな風に毎日遊べる親友がいればいいんだけどな……。大学では何人か友人ができたけど、ここまで親しくはない。というか、彼らの仲の良さはどちらかというと兄妹のようだ。


 ──そんなことを考えていた時だった。外でガシャン、と大きな音がした。どうやら店の前でバイクか何かが転倒したらしい。


「事故か!?」


 闘也が立ち上がり、店の外に駆け出した。続いて臨、皆美も店を出る。


「大丈夫ですか!?」


 闘也が倒れた人に駆け寄るが、ここからではよく見えない。まあ、倒れただけなら大した怪我はしていないだろうけど……。


「えっ……樹さん!?」


 臨が大声を出した。……なんで僕が呼ばれたんだ?よくわからないながらも外に出てみると、そこにはスクーターが倒れていて、ライダーが闘也の手を借りながらゆっくりと立ち上がった。そのライダーは──僕だった。


 ──店長に呼ばれて、皆美の父親の修治さんと弟子の烈斗が店に来た。呼ばれたわけではないのに、なぜか都姉妹も現れた。2階で家事をしていた店長の奥さんも降りてきて、もう一人の僕を囲んだ会議が始まる。……まだ頭の中が整理できない。そこに座っているのは、紛れもなく僕だ。鏡を見ているのとも違う、奇妙な感覚が襲いかかる。


「これ、ドッペルゲンガーってやつ?」


 僕と“僕”の顔を見ながら、皆美が言った。ドッペルゲンガーというと、出会ったら死ぬと言われている分身か何かだったか。ということは、僕はもうすぐ死ぬのか?


「えーっと……とりあえず、説明させてもらってもいいですか?」


 “僕”は周囲を見回し、おずおずと話し始めた。確かに自分の声なのに、普段僕が思っている声とは違って聞こえる。


「僕はそこにいる彼と同じく、前田樹です」


 普通の人生を送っていればまず使わない言い回しだ。使うとすれば、同姓同名の人が自己紹介した後とかだろうか。


「こことは別の時間軸からタイムマシンで来ました」


「たっ……タイムマシン!?」


「やっぱりそうか……」


 叫び声を上げる闘也とは対照的に、店長が冷静な返事をする。


「え、父さん知ってるの!?」


「うん……君は1996年からここに来たんだよね?」


「はい、そうです!」


 “僕”が嬉しそうに答えた。1996年というと、20年前か。なんでそんなところから?──そう思っていると、店長が説明を引き継いだ。


「彼……えっと、『ドッペルゲンガー樹』を略して『D樹』って呼んでもいいかな?」


「構いませんよ」


「じゃあD樹で。彼は20年前にも僕たちの前に現れた。タイムマシンに乗って、20年後の未来からね」


 20年前の20年後、つまり現在だ。さっき「こことは別の時間軸」とか言っていたけど、僕自身ではない、ということなのだろうか。


「まあ、20年前にいろいろあったわけだけど……その後、D樹君は未来に帰ったんだ」


 D樹は、頷きながら店長の話を聞いている。


「つまり、彼は未来に戻ってきた僕……と?」


「そういうことになる」


 店長が僕の質問に答える。


「いやー、駐輪場に乗り入れようとしたら失敗しちゃって」


「ホント気をつけてよ?怪我がなかったからいいけどさ」


 D樹と店長が親し気に話す。彼は僕とは雰囲気が違う気がする。別の時間軸から来たせいなのだろうか。それとも、実は僕はこんな感じなのか?


「えっ……どうすんの、これ。これからは樹さんが2人いることになるの?」


 皆美が深刻そうな顔をする。


「心配するな皆美。俺たちはこうなることを20年前から知っていたからな」


 皆美の父親が答えた。その表情はどこか得意げだ。


「今タイムマシンを開発してるところだ。完成したらすぐに樹を過去に送ってやる」


「えっ……えっ!?」


 「D樹」ではなく「樹」ということは、過去に送られるのは僕なのか!?いや、確かにD樹を過去に送ったところで解決にはならないだろうが……。


「問題は、タイムマシンの完成する見通しが全く立っていないことだが……」


「え、今開発してるって……」


「タイムマシンを搭載するスクーターだけな。中古で仕入れて、修理が終わったところだ」


「……それ、ただのスクーターですよね?」


「だから問題なんだよ。どうやったらタイムマシンができるのか見当もつかねえ」


「えー……」


「D樹が乗ってきたタイムマシンをパクろうにも、倒れた時に壊れちまったみたいでさ……」


「……なるほど、そういうことか」


 僕と修治さんの会話を聞いていた都姉妹の片方──かえでが一人で納得したようなことを言う。


「あたしたちがここに来たの、誰かがここで“魔法”を使った気配がしたからなんだけど、話を聞いた感じ、その正体はアレみたいだね」


 そう言って、かえでは駐輪場に置かれたスクーターを指した。


「えっ、あれって魔法で動いてんの!?」


「多分ね。20年前にも同じような気配を感じた記憶があるし」


「じゃあ……」


「あんまり気は進まないけど、事態が事態だしね。タイムマシン限定で魔法を貸してあげる」


「マジか!よし烈斗、行くぞ!」


「イエッサー!」


 そう言って、修治さんと烈斗、都姉妹の4人が店を出ていった。事態が飲み込めないが、僕はこれから過去の世界に送られるらしい。


「あっ、あのさ……樹」


 突然、D樹が僕に声をかけた。顔も声も自分と同じ人間が話しかけてくるのはなんとも気味が悪い。さくらちゃんも、かえでに対してこんな感じの気持ちなのだろうか。


「君の家、行ってもいいかな?」


「僕の家……?」


「僕、このままここにいてもアレだし……行ける場所っていったら君の家くらいだし」


 確かに、このまま同じ顔の人物が2人いたらいろいろと混乱するだろう。


「じゃあ、鍵を渡すから……」


「大丈夫、持ってる」


「あ、そうなのか……」


 なんとも調子が狂う。彼がどこまで僕と同じでどこから違うのか、イマイチ把握できない。そもそも、彼は何があって20年前に行くことになったのだろうか。


「それより樹君、そろそろ時間じゃない?」


「えっ?あっ、本当だ!」


「まあ、こっちのことは僕たちでやっておくから、君は学校行ってきなよ」


「は、はい!」


 僕は混乱しながらも仕事を終え、荷物を持って大学へと向かった。


 ──家に帰ると、当然のごとく彼がいた。まるで自分の家のようにくつろいでいる。


「おかえりー」


「ただいま……」


 やっぱり気味が悪い。「自分がもう一人いる」「自分と同じ顔の別人がいる」「自分以外の人間が部屋にいる」……どの解釈をしても異物感が拭えない。彼はどういう気持ちで僕を見ているのだろうか。

 リュックをいつもの場所に置こうとすると、既に置いてあった。これはD樹のリュックだ。デザインも全く同じで紛らわしいが、よく見るとD樹のリュックは上の方がわずかに破れている。明日大学に行く時には間違えないようにしなければ。


「じゃ、夕飯買ってくるよ。チキン南蛮弁当でいい?」


「ああ、うん……」


 春から一人暮らしをしているけど、この部屋に誰かを招いたことはない。まさか初めて上がらせるのが自分自身とは……。

 そんなこんなで、僕と“僕”の奇妙な共同生活初日は終わった。僕は冬用の布団をD樹に与え、彼には床で寝てもらった。


◇2016年7月29日◇


 翌朝僕が起きると、D樹が大学に行く準備をしていた。


「え、何してるの?」


「僕が代わりに大学に行くんだよ」


「なんで?」


「君はこの後忙しいでしょ?」


「いや、今日は大学以外に予定はないけど……」


「違う違う、君にはほかの予定が入ってるの」


「……何が?」


「オカザキ修理に行けばわかるよ。じゃ、僕は行ってくるから」


「え、ちょっと……」


 もはや意味を考えることが無意味に思えてきた。何か騙されているような気はするけど、彼にはそのまま大学に行ってもらい、僕は彼の言う通りオカザキ修理へと向かった。


「あ、お前は……Dじゃない方の樹?」


「はい、そうですけど……」


 「Dじゃない方の」という言い方は引っ掛かるけど、ほかに良い表現は思いつかない。


「ちょうどいいところに。お前原付免許持ってる?」


「いえ、持ってないです」


「あー、やっぱりか。今から取ってきて」


「今からですか!?」


「原付だったら1日で取れるから。じゃ、頑張れ」


 そう言って、修治さんは僕に1万円札を渡してきた。


「え?」


「これで足りるはずだ」


「いや、1万円って……」


「遠慮するな!うちの娘に渡すより1万倍マシだ!」


 タイムマシンとして使うのにはたして免許がいるのかという疑問はあるけど、持っておくに越したことはないだろう。僕は修治さんの言葉に甘えて原付免許を取りに行った。


◇2016年7月30日◇


 僕がD樹と一緒に過ごし始めてから3日目の夕方。ついにオカザキ修理でタイムマシンが完成したとの報が入った。


「この筒がタイムマシンのコアだ。陽介から借りた時の剣をかえでが解析して作った『時空の歪みを発生させる術式』が刻まれていて、時計回りに1回転で1日未来へ、反時計回りに1回転で1日過去へ歪める。そいつを7200rpmで回転させるから、20年前なら1分ちょいだ」


 修治さんが、スクーターの下部に取り付けられた装置を示しながら説明をする。僕としてはタイムマシンの構造は割とどうでもいいのだが、彼は説明したいらしい。


「さて、これで過去に行く準備が整ったわけだが……一つ問題があってな」


「何ですか?」


「20年前、樹は空の玉のペンダントを未来から持ってきたんだよ」


「……なぜ?」


「知らん。けど、今から樹にはD樹がやってきたことの再現をしてもらわなきゃいけないから、空の玉を用意する必要がある」


「臨ちゃんが着けているやつですよね?」


「そうなんだけど、あれは“20年前に未来から持ち込まれたもの”だからな。あれを持って行くと、この20年間でループすることになる」


 そうだったのか。僕が知る限り空の玉はずっと臨ちゃんが持っているから、それがどこから来たものなのかは考えたこともなかった。


「……じゃあどうすれば?」


「どこかに“現在の空の玉”があるはずだから、それを見つけなきゃならねえ」


「どうやって?」


「わからん」


「えー……」


「で、D樹に聞いてみたんだが、『明日になればわかる』とさ」


「明日……?」


「というわけで、明日空の玉が手に入り次第出発だから、準備しておいてくれ」


「……具体的に何をすれば?」


「心の準備だ」


◇2016年7月31日◇


 そして迎えた翌日、日曜日。いつものようにバイトをしていると、入口の鐘が鳴って三原さんが来店した。


「いらっしゃいませー」


「臨、これ見て!」


 三原さんは入ってくるなり宿題をしている臨ちゃんの方に向かい、手に持った何かを彼女の前に差し出す。


「えっ、これって……」


 その手に握られているのは、臨が首に着けているペンダントと同じ空の玉だった。


「それ、どこで手に入れたの?」


「昨日海に行った時に拾ったんだよ。これ、臨が持ってるのと同じやつだよね?」


「……優にぃ、それ貰ってもいい?」


「え、欲しいの?」


「ちょっとワケありでね」


「……わかった、いいよ」


 臨が三原さんから“現在の空の玉”を受け取り、店長に目配せする。


「よし……行こうか、樹君」


「……はい」


 僕は店長に連れられ、近所の森へと向かった。この森はここ20年間でほとんど変化しておらず、あまり人も踏み入らないため、安全にタイムトラベルを行えるとの判断らしい。既に森の中では修治さんたちが待機しており、タイムマシンも運び込まれていた。


「樹君、これから君は1996年8月1日に向かい、当時の飛鳥に空の玉を渡す。それから8月8日まで滞在した後、2016年に戻ってくる。……いいね?」


「はい」


「スマホは向こうでは使えないから預かっておくよ」


「あ、そうか……」


 僕はポケットからスマホを出し、店長に渡した。


「じゃあ、教えた通りに」


「はい」


 ──D樹は家に置いてきた。修治さんの説明によると、僕が過去に飛んだ時点でD樹は消滅するらしい。なんだかんだ言いつつもこの数日間を共に過ごした“僕”……過去に発つ時に立ち会われると、躊躇してしまう気がしたからだ。


 タイムマシンを起動し、タッチパネルに「1996年8月1日」と入力する。決定ボタンを押すと足元の装置がキュイーンと小気味いい音を上げて回転し始め、パネルに準備完了までのカウントダウンが表示される。そのカウントが0になり、画面に表示された「START」ボタンを押すと、前方の空間が歪んだ。直径1mくらいの“時空の歪み”は風に揺れる水面のような見た目をしていて、ぼんやりと向こう側の景色が見える。


「樹君、過去の僕たちによろしく」


「はい……いってきます!」


 アクセルを回すとエンジンがうなり、タイヤが森の土をボコボコと巻き上げる。そこからガクンと揺れたかと思うと、僕を乗せたタイムマシンは1996年へと飛び込んでいった。


◆第18節 霧島大五郎と喫茶こもれび◆


◇1996年8月1日◇


「あっちー……」


 トラックを降りた俺を待っていたのは、むせかえるような暑さだった。日光は容赦なく地上を照らし、生物に灼熱の苦痛を与える。「涼風」という地名に似合わず、この街では連日35度以上の気温が続いていた。俺は7年間地中に眠っていた音波兵器の攻撃を受けながら、炎天下のオアシス・喫茶こもれびへと向かう。


 見慣れた建物の見慣れたドアを開けると、カランカランという鐘の音が鳴り響いた。


「いらっしゃーい」


 カウンターに立つ若い男が挨拶をしてくる。衣谷順……小学生の頃から見知った、俺の親友だ。


「よぉ……ってかあっちーな!?エアコンついてねえのかよ!?」


「それが、今朝壊れちゃってさ……」


「ああ、それでか……」


「アイスコーヒーでいい?」


「ああ」


 俺はカウンター席に腰掛け、店内を見回した。今日は店内に客がいない。エアコンが壊れたせいだろうか。この建物は俺たちが生まれるよりも前からあるらしく、店のあちこちがボロくなってきているので、このように突然壊れることも多い。


「修に修理を頼んだから、もうちょっとしたら来ると思うんだけど……」


「『修に修理』、ねぇ……」


「いや、店名からして狙ったものでしょ、あれ」


 「修」というのは、俺たちの同級生の岡崎修治のことだ。彼はここのすぐ近くにガレージを作り、「オカザキ修理」という名前の店を開いた。小学生の頃から機械いじりばかりしている奴だったが、まさかそのまま仕事にするとは……。


「それにしてもあっちーな。扇風機とかねえのか?」


「扇風機か……エアコンが直るまで置いといてもいいかな。おーい、飛鳥ー」


「なにー?」


 順が店の奥に呼びかけると、聞き慣れた女の声が返ってきた。


「扇風機持ってきてー」


「えー、自分で持って行ってよ」


「……あーい」


 順は渋々と店の奥に向かった。昔から彼らを見てきた俺としては、「まあ、そうだろうな」という展開だ。

 先程の声の主は大神おおがみ 飛鳥。俺たちの幼馴染であり、この店の店員だ。良く言えばマイペース、悪く言えば自分勝手な人物であり、基本的に自分がやりたくないことはやらない。彼女に言うことを聞かせられるのは、俺が知る限り彼女の兄だけだ。


「押し入れにもう1台あったから2台持ってきた」


「おう、どこ置く?」


「片方はそっちかな。で、もう片方はこっち」


「カウンター席を左右から挟む感じか」


「うん。どうせ今日はそんなにお客さん来ないし、ほかの席を使う時になったら移動すればいいでしょ」


「だな」


 順が扇風機の片方を通路上に置き、向きを整える。


「うーん……この辺かな?」


「そこだと蹴っ飛ばさねえか?」


「でも、ここじゃないと僕のところに風が来ない」


「お前のことなんか知るかよ」


「あ、コンセント届かないや」


 扇風機の置き場所を試行錯誤する順を眺めつつアイスコーヒーを流し込み、壁にかけられたカレンダーに目をやる。1996年8月1日。もう8月か……ん?


「なあ順、お前がこの店を任されたのっていつだっけ?」


「えーっと……1月末だね」


「じゃあ、もう半年経ってんのか」


「あー、そうだねぇ」


 喫茶こもれびは、元々は彼の父親が開いた店だ。順は店員として店の手伝いをしていたが、店長が今年の頭に病気で入院し、療養中の店を彼が引き継いだ。つまり、順は父親が復帰するまでの仮の店長というわけだ。


「どうだ?店長の仕事は」


「どうって、毎日見てるだろ」


「そうだけどさ、なんかこう……お前自身の感覚としてさ」


「うーん……まあ、思ってたよりは楽かな。飛鳥も手伝ってくれてるし」


「手伝ってる、か……?」


「いや、いてくれるだけで結構精神的に支えられてるところはあるよ」


「もうお前ら結婚しちまえよ」


「やー……」


 モヤッとした返事がフェードアウトし、二人の間に沈黙が訪れる。先程までは意識の外側にあったセミの声が、再び聞こえ始める。


「……で、修はまだなのか?」


「寝てるんじゃない?」


「ぶん殴って起こしてくるか」


「いいって、そのうち来るだろうし」


 そんな風に話していた時、一人の少年が店に入ってきた。この少年の出現こそ、俺たちが奇妙な事件に巻き込まれる前兆だったのだが、この時はまだ知る由もなかった。


◆第19節 大神飛鳥と決意◆


 エアコンが壊れ、店内には客がいない。こんな日は風通しのいい部屋でおとなしく寝ているに限る。私は店の奥の部屋で畳に寝そべり、騒々しいセミの声に耳を傾けていた。クマゼミの声を聞いていると、あの日のことを思い出す。そういえば、そろそろあれから10年経つのか……。


 1986年8月8日──私の15歳の誕生日。私は、アイツに告白した。アイツとは幼稚園の頃からずっと一緒にいるのに、あの日以外、一度も想いを伝えたことはない。勇気を振り絞って放った言葉への答えは……NOだった。アイツは私から好かれているとも知らず、クラスの女子に想いを寄せていた。そして私が告白する1ヶ月ほど前に、こっぴどくフラれたのだった。あの時の私は「これはチャンスだ」と思ったんだけどなぁ……。


「私と……付き合ってください!」


「……ごめん、今はちょっとそういう気分じゃないんだ」


 今でもあの時の光景は鮮明に思い出す。彼の父親が経営していたこの店で、テーブル席に向かい合って座ったまま、気まずい沈黙が流れた。実際には1分程度だったのかもしれないが、私には何分にも何時間にも及んだように感じられた。15歳の誕生日に合わせて告白し、アイツとの関係をはっきりさせてやろうと思っていた。1週間くらい前から意気込んでいて、いつの間にか「絶対に勝てる」と思い込んでいたみたいだ。断られた瞬間に私の意識は砕け散り、その後どうやって家に帰ったかもよく覚えていない。その日は金曜日だったのだけど、土日だけでは立ち直れず、月曜も学校を休んだ。火曜日に再び学校に行った時、アイツは何事もなかったかのように私に接してくれた。それが私を気遣ってのことなのか、それとも素なのかはわからなかった。とにかくその日以来、私とアイツはまた漠然とした関係に戻ってしまった。


「おーい、飛鳥ー」


 店の方からアイツが私を呼ぶ声がした。


「なにー?」


「扇風機持ってきてー」


 なんだ、そんなことか。扇風機なら私の足元に1台置いてあるが、動いてはいない。私は扇風機の風よりも、窓から吹き込む自然の風の方が好きなのだ。


「えー、自分で持って行ってよ」


「……あーい」


 ……まただ。またやってしまった。ずっと前から直さなきゃと思っているのに、どうしても素直になれない。扇風機1台持って行くくらい、なんてことないはずなのに……。


 部屋に入ってきた順が扇風機のプラグを抜き、それを持って行こうとする。せめて、少しでも素直に……。


「……確か、押し入れにもう1つあったと思うよ」


「あ、そう?」


 順はそう言うと持ち上げた扇風機を降ろし、押し入れを開けた。


「おー、あったあった」


 今だ。ほんの一言、「そっちは私が持って行くよ」と言うだけだ。造作もない。……何やってるんだ飛鳥、たった一言だぞ。早く言えよ。


「よっと」


 ──私が迷っているうちに、順は両手に扇風機を抱えて出ていってしまった。また、言えなかった。きっと私は、アイツの中で「逆らうことのできない不愛想な奴」として捉えられているだろう。残念ながら、自業自得だ。アイツが喫茶こもれびの店長を引き継ぐことになった時、私は店員にしてくれと名乗りを上げた。アイツと少しでも近づくチャンスだと思ったのだ。それは快く受け入れてもらえたのに、結局このザマだ。私自身が変わらない限り、アイツとの関係はこのままだろう。……もう一度、勝負を挑んでみよう。8月8日まで、あと1週間……10年越しに、アイツに想いを伝えてやるんだ。


「飛鳥ー?なんか飛鳥にお客さんだってさ」


 しばらくして、再びアイツが声をかけてきた。私に客……?どういうことだ?


「はーい」


 私は立ち上がり、部屋を出る。その足には心なしか力が込められていた。


◆第20節 前田樹と1996年◆


「はぁ、はぁ……やっと出られた……」


 1996年に到着してから30分強……僕はようやく森を抜けられた。この森を訪れるのはこれが初めてで、入る時は順さんと一緒だったが、出る時は一人なので道に迷ってしまったのだ。おまけにスクーターを押してデコボコした道を進むのは大変で、思いのほか時間がかかった。さて、ここから喫茶こもれびを目指さなければならないらしいが……街並みが違うせいで現在地がどこだかよくわからない。スマホも置いてきたからマップは見られないし、そもそもこの時代では機能しないだろう。とりあえず場所を把握できそうなところまで移動するか。

 ──ふと視線を感じて目を向けると、すぐそこに小学生くらいの男の子が立っていた。


「お兄さん、見かけない顔だね。この街の人?」


「え?ああ……春に引っ越してきたんだよ」


 嘘は言っていない。僕は“2016年の”春、この街に引っ越してきたのだから。


「ふーん……ところで、そのペンダント……」


 少年は僕の話を軽く流し、首から下げた空の玉のペンダントを見つめていた。


「えっ……何?」


「……なんでもない」


 それだけ言って、男の子は森の奥に走り去ってしまった。……何だったんだ?僕よりも空の玉に興味を持っているように見えたが……。いや、とにかく喫茶こもれびに向かわねば。


 ──喉が渇いた。そういえば、この時代に来てから一度も飲み物を口にしていない。僕は目に入った自動販売機で飲み物を購入することにした。


「……あっ」


 財布を開けて、あることに気づく。この財布に入っているお金は、当然2016年のものだ。いつだったかは把握していないが、500円玉が新デザインになったのも、新しい紙幣が作られたのも、僕が生まれた後のはずだ。つまり、この時代にそれらのお金は使えない。現在の所持金は全部で7524円。このうち5000円札、1000円札、500円玉が1枚ずつあるから、使えるお金は1024円──いや、違う。僕は手にした100円玉を見て背筋が凍った。「平成25年」……硬貨としては使用可能かもしれないが、まごうことなきオーパーツだ。まずい……一体この財布の中に“使えるお金”はいくら入っているんだ……?

 小銭を全部出し、「平成9年」以降のものを財布に戻していく。残った硬貨はわずかに4枚……100円玉が3枚、1円玉が1枚、合計301円だ。なぜだ……どうして10枚もある100円玉の中で使えるものがたった3枚しかないんだ。完全に失念していた。僕は出発時、身に着けているものが1996年に行っても怪しまれないか一通りチェックしたつもりだったのに、お金は盲点だった。所持金301円……スマホもなく知り合いもいない世界で、どうやって活動すればいいんだ……?

 絶望に打ちひしがれながら全財産301円を財布に戻そうとした時、手元が狂って財布をひっくり返してしまった。僕は慌てて、散らばるオーパーツを拾い集める。が、その中で1枚だけ……よりによって500円玉を、通りかかった男性に拾い上げられた。


「ことぶッ──!?」


 口走りそうになった名前を噛み殺すのも空しく、男性が振り向く。その男性は、2016年と何も変わり映えしない、寿さんであった。


「ん?どこかでお会いしましたっけ?」


「あ、いえ……」


 口ごもりながら手を伸ばし、「早くそれを返してくれ」という素振りを見せる。


「あれ、これ記念硬貨か何か?」


「ああ、いえっ、そのっ……」


「『平成十八年』……?」


 終わった。1996年に到着して1時間弱、僕のタイムトラベラー生命が終わりを告げた。いや、まだ何かうまい言い訳をすれば……。


「……君、もしかして未来人?」


 ダメだ!バレた!言い訳も思いつかない!


「未来人、だよね?」


 頼むから聞かないでくれ!


「この時代で使えるお金がなくて困ってる、とか?」


 どうしてそんなに理解が早いんだ!?


「……お金、あげようか?」


「えっ!?」


「おじさん、未来人に会ったの初めてだからさ……手を貸すよ?」


 その言葉は、地獄に差した一筋の光明のように思えた。


「いいんですか!?」


「いいよいいよ、ほら、持って行きなさい」


 そう言うと、寿さんは財布から旧1000円札を10枚ほど掴み出して差し出した。


「えっ……こんなに!?」


「私はお金に困ってないからね、君が使いなさい」


 財布の中には、さらに何枚ものお札が見える。この人、普段からこんな大金を持ち歩いているのか……?


「ありがとうございます!寿さん!」


「ああ、やっぱり君は未来の私の知り合いなのか……『長老』でいいよ」


「じゃあ……ありがとうございます!長老!」


「うん、うん……ところで、ほかに何か困ってることはない?」


「あ、えっと……喫茶こもれびってどこにありますか……?」


「ああ、それならこの道を真っ直ぐ行って──」


 ──


「これが、喫茶こもれび……?」


 店に辿り着いた僕は唖然とした。僕が毎日のように目にしている店とはまるで違う、古びた食堂のような建物。看板には大きく「喫茶こもれび」と書かれているが、その下にうっすらと別の文字が見えるため、元は違う店だったのだろう。とはいえ、ここが喫茶こもれびであることは間違いないので、適当な場所にスクーターを停めて店に入った。カランカラン、と聞き慣れた鐘の音が鳴り響く。どうやら鐘は今と同じものを使っているようだ。


「いらっしゃいませー」


 カウンターに立つ男がこちらを向いた。


「あっ……」


 全体的に若いが、一目見て店長……衣谷順さんであるとわかった。


「どうぞ、お好きなところにお掛けくださーい」


 座席は4人掛けのテーブルが2つとカウンター席のみ。現在と比べてかなり少ない。客はカウンター席に1人だけだ。僕はその客が座っているのと反対の端、扇風機のすぐ横の席に座った。そういえば、エアコンは動いていないのか?


「ご注文は?」


「あっ、えっと……いちごミルク……」


「いちごミルク、はないですねぇ……」


「ああっすみません!じゃあ、アイスティーを……」


「かしこまりました」


 しまった、いちごミルクはまだないのか。僕のお気に入りなのだが……。


「お客さん、この店は初めてですよね?観光ですか?」


「いえ、大学に通うために引っ越してきたんです」


「へぇー、涼大ですか?」


「あ、はい」


 普段は常連と話しているところくらいしか見ないけど、初めての客に対しても積極的に話しかけるんだな。僕が初めてこもれびを訪れた時はこんな感じではなかったような気もするけど。……あ、そうだ。


「すみません、大神飛鳥さんってこちらにいらっしゃいますか?」


「飛鳥ですか?いますよ。呼びましょうか?」


「じゃあ、お願いします」


「飛鳥ー?なんか飛鳥にお客さんだってさ」


「はーい」


 店の奥の方から声がして、ショートヘアの女性が現れた。若干雰囲気は違うものの、店長の奥さんに間違いない。もっとも、この時点ではまだ結婚していないわけだが……。


「ん、この人?」


「うん」


「何のご用ですか?」


 飛鳥さんが店長に確認した後、僕に話しかけた。


「あ、えーっと……このペンダントを渡すように頼まれてまして……」


 僕は首に掛けた空の玉を外し、飛鳥さんに差し出した。


「……誰に?」


「それは……」


 しまったな、店長からは「当時の飛鳥に空の玉を渡す」としか言われていないし、僕もそんなに深く考えていなかった。けど、考えてみればもっともな疑問だ。


「……じゃあ、僕からのプレゼントです」


「何それ。新手のナンパ?」


「おいおい兄ちゃん、そいつはやめといた方がいいぜ」


 カウンター席に座った客の男性が、こちらを向いて笑いながら言った。この人もどこかで見たような……。


「あー、もう……とにかく貰うだけ貰っておいてください!」


「ふーん……まあ、キレイだし貰っておきますか」


 そう言って、飛鳥さんはペンダントをズボンのポケットに入れた。


 ──と、入口の鐘が鳴り、黄色いツナギに身を包んだ男性が入ってきた。この人は……修治さんか。今とほとんど変わらないな。


「やーっと来たか」


「悪い、昼寝してた」


 修治さんは持ってきた脚立を置き、天井にあるエアコンの蓋を外した。


「あ、ホコリ舞うから扇風機は切った方がいいかも」


「言うのが遅いよ!大五!そっちの扇風機切って!」


「あいよー」


 カウンター席の男性客が、足元に置かれた扇風機の電源を切った。僕も隣に置かれている扇風機のスイッチを切る。


「ああ、すみません。ありがとうございます」


「いえいえ」


 ところで、あの男性客……もしかして、闘也の父親だろうか。髭がないからわからなかったけど、髭がないからこそ闘也に似ている。


「なあ順、今日店が終わった後みんなでアレ行かね?」


 エアコンの修理をしている修治さんが口を開いた。


「アレって?」


「例の幽霊屋敷」


「またその話ぃ?」


 飛鳥さんが露骨に嫌そうな顔をする。


「いや、絶対にいるんだって」


「絶対いるから嫌だって言ってんじゃん」


「すみません、幽霊屋敷って?」


 たまらず口を挟んだ。


「ここからずっと西の方に六軒坂っていう坂があるんですけど、そこの上に幽霊屋敷って呼ばれてる廃屋があるんですよ」


 六軒坂の幽霊屋敷……多分、あれのことだよな。


「その幽霊屋敷で、毎晩窓からいるはずのない人影が見えるって噂がありまして……」


「……僕も行ってもいいですか?」


「おう、いいぞ!多ければ多いほど盛り上がるからな!」


「やめてよ、もう……」


「ついでにあずさも呼ぶか?」


「戦闘要員か、いいねぇ」


 かくして、喫茶こもれびの閉店後、僕、順さん、飛鳥さん、大五郎さん、修治さん、梓さん、恵さんの7人が集まった。小柄な女性・備後びんご 梓さんは闘也の母親、メガネを掛けた女性・遠藤えんどう 恵さんは皆美の母親だ。もちろん、今の時点では違う。それにしても、この顔ぶれ……偶然というわけではなさそうだ。きっとこれから起こる出来事は、未来に繋がる重要なものなのだろう。僕たちは夕暮れの中、六軒坂へと向かった。


◆第21節 岡崎修治と六軒坂の幽霊◆


 こんな風にワイワイ行動していると、昔を思い出す。今日は新入りが一人いるが、なんだか妙に馴染んでいる。


「なあ、樹って何歳?」


「あ、19歳です」


「19かー……ゲームとかやる?」


「え、ゲームですか?」


「うん」


「岡崎、普通の大人はゲームなんてやらないから」


 遠藤が口を挟んできた。


「なんだよ。19ならまだ子供だろ?」


「そういう問題じゃない」


 まったく、遠藤は話が通じないな。


「で、やるの?」


「あー……あんまりやらないです」


「あんまりってことは、ちょっとはやるのか?」


「えーっと……」


「岡崎!樹君をいじめない!」


「いじめてねえよ!接点を探してるだけだろ!」


「岡崎と接点がある人間の方が少数派でしょ!」


「お前だって俺と中高一緒って接点があるだろうが!」


「そういう話じゃない!」


 俺は中学の頃から遠藤が苦手だ。こいつは何でも理詰めで考えていて、俺とは馬が合わない。それだけなら関わらなければいい話なのだが、いちいち突っかかってくるので鬱陶しいのだ。今日だってこいつを呼んだつもりはないのだが、梓に声をかけたらついてきた。


「なあ、なんで遠藤を連れてきたんだよ?」


 俺は小声で梓に尋ねた。


「えー?いいじゃん」


「俺がこいつのこと嫌いなの知ってんだろ」


「またまたぁ、ホントは好きなくせに」


「それはない。絶対ない」


 誰がこんな理屈でしかものを語れないロマンのロの字も知らないようなつまんねえ女を好きになるかよ。どうせ今回だって俺たちが楽しく幽霊屋敷探索に行くのを鼻で笑ってるんだろ。なんでわざわざこんな奴を呼ぶかな……。


 そうこうしているうちに、俺たち7人は六軒坂に着いた。


「あー、やっぱりここかぁ」


 樹が屋敷を見て言った。


「なんだ、お前ここ知ってんのか?」


「えっ、あー……噂を聞いたことがあるんですよ」


「へー……」


 そういえば、俺が昼間に幽霊屋敷の話をした時、こいつは随分食いつきがよかったな。きっとこいつも都市伝説や超常現象の類が好きで、この幽霊屋敷に興味があるのだろう。彼とは仲良くなれそうだ。


「ここ、人が住んでるわけじゃないんでしょ?なんでまだ残ってんの?」


 梓が尋ねる。


「それがさ、取り壊そうとしたら幽霊が出て祟られたらしいんだよ」


「バカバカしい。ただの廃墟でしょ」


 お前には言ってねえよ、遠藤。


 ──その時だった。屋敷の2階の窓を、すっと人影が横切った。白い服を着た、髪の長い女に見えた。


「おい!今の見たか!?」


 大五が叫んだ。やっぱり俺の見間違いじゃない。


「見た!白い服の女!」


「光の反射か何かじゃない?」


「なんだよ遠藤、怖いのか?」


「何もいないって」


「じゃあ入って確かめればいいじゃねえか」


「廃墟とはいえ、勝手に入ったら犯罪だよ」


「ほらビビってる!みんな、遠藤は放っておいて行こうぜ!」


 俺がそう言い終わるより先に、樹が屋敷の入口へと歩いて行った。思った通り、あいつはそういうオカルトが好きな奴だ。俺は樹に続いて屋敷に入る。大五、順、飛鳥、梓……さらに遠藤が続いた。やっぱり気になるのか?それとも外に一人で置いて行かれるのが怖かったか?どっちにしろ、俺の勝ちだな。


 ──屋敷の中は、時が止まったかのように静まり返っている。もちろん明かりはなく、樹が懐中電灯で辺りを照らしながら廊下を進む。廊下は二つに分かれていて、その手前に2階への階段がある。


「さっき幽霊が見えたのは2階だったな」


「じゃあ、まずは2階に行きますか」


 階段は古びていて、踏むたびにギシギシと音が鳴る。いい感じの演出だ。2階にはいくつかのドアがあり、それぞれ別の部屋に通じているようだった。


「ここからは手分けして探しましょう」


「おう!」


 階段を上ってきているのは、大五と順の2人……女3人は見えないな。


「あとの3人は?」


「怖いから下で待つってさ」


「へっ、臆病者め」


 さて、どの部屋から調べるか……。


「うわああああああああああああ!!」


 下の階から、女性陣の悲鳴が聞こえた。とはいえ、声量のほとんどは飛鳥だったが……あいつ、何者も恐れない最強の女だと思っていたが、意外と幽霊には弱いのか?とりあえず、何かあったなら見に行くか。遠藤のビビった姿も見たいし。


「おい、どうした?」


 俺が1階に降りて廊下の先にある部屋に踏み込むと、そこには4人の女が立っていた。飛鳥、梓、遠藤……そしてもう一人、先程の白い服の女だ。


「おうわっ!!」


 思わず声を上げてしまった。まさか、こんなにはっきりと姿を見ることになるとは。


「あの……」


 女が口を開いた。


「は、はいっ!?」


「私、怪しい者じゃないんです……」


 と言われても、今この状況にいる時点で幽霊だろうが人間だろうが怪しいと思う。


「その、私……一応人間なんです。多分……」


「多分……?」


 何か事情がありそうだ。こちらに危害を加える気もなさそうだし、話を聞いてみよう。


「多分、というのは?」


 順が尋ねた。彼は喫茶店の店主としていろいろな客の話を聞き慣れているので、こういう役には適任だろう。


「はい……私、自分が誰だか思い出せないんです」


「それは、事故か何かで?」


「わかりません。自分の名前も、どこから来たのかもはっきりしなくて……」


「全く思い出せない、ということですか?」


「以前はもうちょっと覚えていたような気がするんですが、夢の内容を忘れるみたいに記憶が薄れてしまって……」


「なるほど……実は幽霊、という可能性は?」


「それが、その……『人間と幽霊の中間』とでもいうような状態でして」


「……中間?」


「えっと、見ててください」


 そういうと、女の姿がすーっと薄れて見えなくなった。


「えっ……消えた!?」


 俺の隣で固まっていた遠藤が、目を見開いた。「どうだ!やっぱり幽霊はいたじゃないか!」とでも言ってやりたいところだが、今はそれどころじゃない。本当に俺たちの前で消えたのだ。かと思うと、数秒後に同じようにすーっと現れた。


「こんな感じで……」


「それ、消えてる間はどうなってるんですか?」


「別の世界に行ってます。あの世、みたいな……」


 あの世……聞き慣れた言葉ではあるが、その存在については半信半疑といったところだ。今、俺たちの目の前から消えていたあの数秒間に、彼女はあの世に行って戻ってきたというのか。そんなに簡単に行き来できてしまうのか、あの世というものは。


「でも、“向こう”の人たちも、私みたいな人は見たことがないって言われて……よくわからないんです」


「向こう……あの世の人たち、ですか?」


「そう聞いています」


 なるほど……彼女はあの世の人たちにとっても前例のない、この世とあの世を行き来できる幽霊、ということか。


「それで、私……どうしたらいいんでしょう?」


「どうしたら、というのは?」


「生前の私についての情報が知りたいのですが……」


「うーん……誰か、この人に見覚えない?」


「いや、初めて会った」


「知らないねぇ」


「俺も見たことない」


 みんなが口々にそう言う中で、樹は黙り込んで何かを考えているようだった。


「樹君は?」


「えっ?……ああ、はい……会ったことは、ないと思います」


 なんだか釈然としない返事だが、幽霊を見て動揺しているのだろうか。と、樹が再び口を開いた。


「あの、彼女が誰だかわかるまで、僕たちが付き添いませんか?一緒に生活していれば、何かを思い出すかも……」


「なるほど、それいいな」


「うん、僕も賛成。みんなは?」


「えーっと……私たちを呪ったりしないよね?」


「そもそも、呪いのやり方なんて知らないです」


「そっか、じゃあいいよ」


 さっきまで凍りついていたくせに、話が通じるとわかった途端普通に接していやがる。


「じゃあ、これからよろしくお願いします。えーっと……名前、わからないんでしたね」


 そうか、まずは彼女の呼び名を決めなければ。幽霊っぽいイメージのある女性の名前……。


「『シオン』……『六軒坂シオン』ってのはどうだ?」


「シオン……?」


「岡崎、どうせその名前ゲームから考えたでしょ?」


 遠藤の言う通り、この名前は俺が今ハマっているゲームに出てくる町の名前から付けたものだ。が……。


「悪いかよ?元ネタが何だろうが関係ないだろ?」


「ハァ……あんた、いつまで子供みたいに生きるつもり?」


「俺は将来自分の子供と一緒にゲームするつもりだから子供で結構」


「あんたの子供なんか産んでくれる物好きな女性がこの世にいるわけないでしょ!?」


「あのっ……」


 俺と遠藤の口論を、幽霊の女性が遮った。


「私、その名前気に入りました!シオンって呼んでください!」


「ほら見ろ!本人が喜んでるじゃないか!」


「ぐっ……」


 遠藤は黙り込んだ。俺の勝ちだ。


「そういえば……シオンさん、なんでここに棲んでいるんですか?」


「それは……なんとなく落ち着くから……」


「もしかして、生前の家とか?」


「いえ、そうじゃなくて……廃墟って、なんか良くないですか?」


「えっ……それだけ?」


「多分……」


 その後、念のため屋敷について調べてみたところ、「長老」こと寿長助氏の祖父母が住んでいた家で、現在は彼に所有権があると判明したが、特にシオンに繋がるような手がかりは得られなかった。そんなわけで、「六軒坂の幽霊」こと六軒坂シオンは、喫茶こもれびの裏の部屋に住むことになったのであった。


◆第22節 六軒坂シオンと不死の獣◆


◇1996年8月7日◇


 私が名前を与えられ、この喫茶こもれびに住み始めてから数日が経過した。あれから何度も“向こうの世界”に渡って情報を集めてみたけど、まだ私が何者であるかはわかっていない。手がかりといえば、「シオン」という名前を聞いた時に一瞬だけ抱いた、なんとなく懐かしい感覚くらい。といっても、それも漠然としていて、今となっては本当にそう感じたのかどうかも怪しい。

 店のお客さんたちには私のことは「居候している記憶喪失の女性」とだけ伝えられていて、幽霊であることは伏せている。もし私を知る誰かがお客さんとして訪れれば顔を見て思い出すかもしれないし、そういう人に出会うまでは幽霊であることを話す必要もないだろうという判断だ。──正直なところ、このまま私が誰なのかわからなくてもいいかな、という気はしている。私の周りの人たちはみんな優しくて、毎日が楽しい。もし記憶が戻ったとしてもここで暮らしていたいし、記憶が戻った結果としてここにいられなくなるのはイヤだと思うくらいには、この場に馴染んでいるのだ。

 そして、今日もまた客として店を訪れた梓ちゃんとおしゃべりしているのである。


「いやー、今日もあっついねぇ」


「そうだね、見てるだけで暑そう」


「ん?シオンちゃんは暑くないの?」


「うん。幽霊だからか、自分の意志で感覚をシャットアウトできるの」


「うわ、それいいなー」


 そんなことを話していた時。外でズドン、と大きな音がした。続いて急ブレーキの音が響き渡り、何事かと顔を向けた瞬間、店の入口付近の壁が爆音と共に砕け散った。


「うわっ!?」


「何だ!?」


 どうやら、うちの店に車が突っ込んだらしい。私は店内の人々がそちらに気を取られている隙に、冥界を経由して店の外に出た。運転手は慌てた様子で周囲を見回しているが、怪我などはしていなさそうだ。よく見ると、車体の側面には鋭く尖った物に抉られたような跡がある。一体何が……そう思って顔を上げると、交差点の中央に見たことのない生き物が佇んでいた。馬のような体躯に鹿のような角が生えていて、金色のたてがみを風になびかせている。私が知る中で最も近いのは──。


「麒麟……?」


 こもれび店内にいた人たちが続々と外に出て、やはりその獣の姿に驚きや戸惑いの声を上げる。

 混乱する路上を一台の車が走ってきて、交差点の手前で止まった。助手席側のドアが勢いよく開き、見知った顔の人物──恵ちゃんが飛び出す。そして手にした細長い銃を獣に向けると、注射器のようなものを発射した。しかし、弾は獣の振るった角に当たって叩き落とされる。


「くそっ!」


 恵ちゃんは急いで次弾を装填しようとする。が、ここで目を疑う出来事が起こった。獣の姿がぐにゃりと歪み、大きな翼を持った鳥のような姿に変化する。


「まずい!」


 再び注射器のような弾が発射されるが、鳥はふわりと宙に浮き、弾は虚空を掠めた。そのまま悠々と空を飛び、森の方角へと姿を消した。


「恵ちゃん……今の、何?」


 恵は私の声に振り向いた後、車の突っ込んだ喫茶こもれびを二度見した。


「ああ、こんなことになるなんて……」


 そう言いながら、恵が顔を覆う。


「……タカジョー、あいつの捜索頼める?」


「あいよ、任せな」


 運転席に座った男が頷き、恵がドアを閉めてすぐに車が発進した。


「順、ちょっと店を借りてもいい?」


「え?ああ……」


 恵の頼みで喫茶こもれびは貸し切りの状態になり、私と恵、店員の順と飛鳥、元々店内にいた梓と樹、騒ぎを聞きつけた大五郎と修治の8人だけが店に残った。先週六軒坂に来た顔ぶれと同じだ。4人掛けのテーブルが2つあるので、ちょうど収まる。


「さっきの奴は、私たちの研究所で生まれた生物なの」


「えっ、あの麒麟みたいな奴が!?」


「名前は『アイビー』……奴自身がそう名乗った」


「名乗ったって……喋るの!?」


「……とりあえず、順を追って説明するね。私たちのいる生物学部門では、『不死の細胞』を研究していたの」


「不死の細胞?」


「そう。寿命がなく、外的要因によって損傷しても自己修復する細胞をね」


「なんでそんなものを……」


 大五郎が言った。


「医療の分野で役に立つの。怪我や病気でダメージを受けても、それを元通りに修復できるからね」


 なるほど……もし実現すれば、人間はそうそう死ななくなるということか……。とはいえ、私にはもう関係のない話かな。


「それで、試作した細胞をマウスに移植する実験を行ったところ、ほとんどは拒絶反応を起こして死んでしまった。でも、1匹だけ細胞を取り込んで我がものとした……それがあいつ」


「あいつって……さっきのあれがマウスなのか?」


「私も信じられない。でも、細胞を取り込んだマウスがほかのマウスたちの死骸を食べ、そのまま大型化してあれになったのは事実。あいつは自らの肉体を構成する細胞を自在に変化させて姿を変えられるみたい」


「化け物じゃねえか……」


「だから、この麻酔銃で捕まえようとしていたんだけど……」


 後は私たちの見た通り、というわけか。


「何か、僕たちにできることは?」


 順が口を開いた。


「うーん……人手が多いに越したことはないけど、危ないし……」


「あんな化け物を放っておく方が危ないでしょ」


「それに、うちの店の弁償もしてもらわなくちゃね」


「それは……うちでやるけど……」


「とにかく、俺たちも協力する。それでいいな?」


「……くれぐれも、無茶はしないでね」


 こうして、私たちによる「アイビー捕獲作戦」が開始した。


◆第23節 遠藤恵と追跡◆


 正直、奴を捕まえられるという確証はない。車でも追いつけないほどのスピードで走るし、その気になれば空も飛べる。おまけに知能も高く、麻酔銃を撃っても的確に防がれる。けど、あの化け物を生み出してしまった責任者として、私にはあいつを始末する義務がある。あいつのせいで死者が出るなんてことは、絶対にあってはならない。


 ふと顔を上げると、準備を終えた岡崎が銃のようなものを持っていた。


「……その銃は?」


「これか?これは俺が作った特製ゴム鉄砲だ」


「ゴム鉄砲?あんた、バカにしてるでしょ」


「何言ってんだ。お前こそゴム鉄砲バカにしてんだろ。こいつはメチャクチャ痛いんだぞ」


「……どんな仕組みなの?」


「発射直前にゴムを限界まで引き伸ばして一気に解放する。輪ゴムの持つポテンシャルを最大限に活かした、銃刀法に抵触しない最強の銃だ」


「なんだ、そんだけか」


「じゃあお前ならどうすんだよ?」


「例えば、そこにさらにエアガンみたいに圧縮したガスを噴射する機構を付けて威力を上げるとかさ」


「……なるほど、お前もたまには生産的なことを言うじゃないか」


「あんたよりよっぽど生産的な人生を歩んでいるからね」


 普段なら即座に否定されそうなところだし、私もそうなると思って言ってみたが、意外にも肯定的な反応をされて肩透かしを食った。こいつ、いつもヘラヘラしているバカだと思っていたけど、こういう時は真面目になるんだな。


「みんな、武器は持ったね?」


「おう」


 アイビー捕獲作戦の参加メンバーは、それぞれ思い思いの武器を手にして戦うことになった。もちろん、あいつを捕まえる上でどこまで役に立つかはわからないけど、何もないよりはマシだろうということだ。


「あれ、飛鳥さんの武器は?」


 樹君が言った。


「ああ、私はほら、素手で戦えるしさ」


「そうだぞ。そいつは学校の壁に拳で穴をあけたこともある怪力ゴリラだぞ」


「あのねぇ、穴をあけたって言っても、古い木の壁をくぼませたくらいであって……」


「いや、何か持ってた方がいいですよ。大五郎さんだってナイフ持ってきてますし。あ、そうだ。僕があげたペンダントとか」


「ペンダントぉ?」


「何だそれは。樹、お前まさかこの女に気があるのか?」


「違いますって!ただ、その……お守りみたいなものですから!」


「ふーん……それじゃあまあ、着けとこうかな」


 そう言うと、飛鳥は奥の部屋から青い勾玉のペンダントを持ってきた。透き通るような青色をしていて、本当にこの世のものなのだろうかと思うほどに美しい。


「よし……じゃあ、出撃!」


 私たちは店を出て、近所の森へと向かった。先程アイビーが飛び去った方角であり、タカジョーも別の場所で捜索中だ。携帯電話は私しか持っていないため、メンバー間での連絡手段はない。足音を立てずに移動できるシオンに先行してもらい、それ以外はあまり距離を置かずまとまって行動する。

 ふいにシオンが目の前に現れ、驚く私たちに「静かに」というジェスチャーをした。


「あの陰で眠ってる」


 小声で言いながら、斜め前方を指差した。その先には草の生い茂った段差がある。どうやらその下にいるようだが、この位置からでは麻酔銃で撃てない。


「恵ちゃん、麻酔銃貸して」


「使い方はわかる?」


「多分」


 私はシオンに簡単な説明をして、麻酔銃を渡した。彼女なら冥界を経由して気づかれずに接近できる、というわけだ。本来なら使用にはいくつかの許可が必要だが、この際仕方があるまい。

 シオンが段差の下に移動し、アイビーに向けて麻酔銃を発射する。さすがに眠っていると防げないようで、見事首元に命中した。


「やった!」


 被弾したアイビーが目を覚まし、むくりと起き上がる。地上を走って逃げていた時と同じ、麒麟のような姿だ。いかに不死の細胞と言えども、ケタミンの麻酔には抗えないはず。あとは麻酔が全身に回れば動けなくなって……。


「こざかしい……」


 アイビーが低い声でそう発したかと思うと、麻酔弾が抜け落ちた。いや、違う……麻酔弾周辺の肉ごと下に落ちている。まさか、麻酔が回らないように自切したというのか?


「ニンゲンは身勝手です……自分たちが神にでもなったかのように思い込み、ほかの生物を支配しようとする。あなたたちニンゲンの勝手で、ワタシの兄弟は皆死にました……」


 研究所からの脱走時にも聞いた、やや片言じみた日本語。どこで覚えたかは知らないが、あいつは人間の言葉を理解し、話すことができる。


「ワタシはあなたたちニンゲンに捕まりはしない……邪魔をするなら……死んでください」


 アイビーは体を大きく震わせ、段差の上に跳び上がった。かと思うと、物凄いスピードでこちらに向かってくる。


「危ない!」


 シオンが叫ぶ。私は咄嗟に避けようとしたが、土に足を取られて転んでしまった。そして、私に躓いた飛鳥が宙を舞い、その体にアイビーの角が──。


「飛鳥ァ!!」


 順が叫んだ瞬間、私の視界は青い光に包まれた。飛鳥の胸元にあるペンダントを中心に青色の空間が広がってゆき、あっという間に彼女の体を覆った。それに衝突したアイビーの角が砕け散り、私のそばの地面に突き刺さる。そのままアイビーの体が弾かれ、数m離れた地点に転がった。


「飛鳥!?」


 順が駆け寄ると、青い空間はすうっと縮小し、再び飛鳥のペンダントに収まった。


「今のは……?」


 何が起こったのかは気になるところだが、今はそれどころではない。アイビーはすぐさま起き上がると、頭をぶるんと振り、私たちから距離を置くように走り始めた。


「待て!」


「くそっ、逃がすか!」


 私たちもすぐに立ち上がり、疾走するアイビーを追った。


◆第24節 備後梓と森の声◆


 ──速い。アイビーは足場の悪い森の中を、全くものともせずに走っている。先程折れた角は既に再生しているようだし、このまま見失えば奇襲を受ける可能性もある。なんとかして奴を捕まえなければならないのだけど、奴の姿はどんどん小さくなってゆく。


「ダメだ、追いつけない……!」


 無力感に襲われたその時、突如アイビーの動きが止まり、クァウゥーンという感じの悲鳴が聞こえてきた。何が起きているかはわからないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。私たちはへとへとの体に鞭を打ち、奴を追った。

 ……300mほど走っただろうか。アイビーは私たちが追いつくまで、その場を動かなかった。いや、「動けなかった」と言った方が正しい。アイビーの脚には太い蔦が絡みつき、植物とは思えない動きでその体を覆ってゆく。アイビーは必死の抵抗を見せるが、立ち上がることすらままならない様子だ。一体何が……。


≪──これ以上暴れるというなら、僕は君を排除する≫


「えっ……?」


「何?この声……」


≪──君は自然のルールを破った……不死の生物なんて、この世に存在しちゃいけないんだよ≫


 どうやら、森の中を吹き抜ける風の音が声のように聞こえているらしい。けど、「聞こえる」なんてものじゃない……これは明確に“声”だ。


「ふざけるな……悪いのはニンゲンです……命を弄ぶ邪悪な生き物……」


 アイビーが、もがきながらも“声”に応える。


≪──命を弄ぶって、どういうこと?≫


「そんなの、自分たちの都合でほかの生き物の命を奪うことに決まって──」


≪──同じじゃん≫


「何……?」


≪──君もさっき、自分の都合でこの人たちを殺そうとしたよね≫


「それは違う……ワタシは復讐のために殺そうとしたが、ワタシの兄弟たちは何も殺していない。自分の都合で命を奪うのはニンゲンだけだ……」


 ──違和感。私は生物のことなんて詳しくはないけど、それでも「おかしい」ということはすぐにわかった。そして、恵も私と同じことに気づいたようだった。


「そっか……あなたは知らないのかもね。本来ハツカネズミは、ほかの生き物を食べて生活するものなの」


「何だと……?」


「自然界では、どんな生き物もほかの命の犠牲の上に成り立ってる。一つの種だけで完結する生き物なんて、私が知る限りはいない」


「だが、ワタシたちは……」


「あなたたちに与えていたマウス用の餌だって、原材料にはほかの動物の肉が使われているはずよ」


「そんな……」


 やっぱりそうだ。研究所で生まれ育ったアイビーにとってはケージの中が世界のすべてであり、食べ物は人間の作った餌しかなかった。自然界なんてものは一度も目にしたことがなく、自分たちが本来何を食べる生き物かも理解していない。きっと彼の目には、人間が自分たちを管理する支配者に映ったのだろう。実験に使われるために生まれ育ち、実験が終われば処分される……そんな運命を受け入れろだなんて、理不尽この上ない。アイビーの怒りも致し方なしだろう。

 アイビーは恵の話を聞き、呆然としている。戦意喪失、といったところだろうか。


≪──とにかく、君は僕が封印する。不死だというなら、永遠に土の中で過ごしてもらうよ≫


 アイビーの体がガクンと押し付けられ、ゆっくりと地面に沈み始める。アイビーは激しく抵抗するが、その甲斐もなく引きずり込まれてゆく。


「待ってくれ!」


 順が声を上げた。それに反応するかのように、アイビーを生き埋めにしようとする蔦の動きが止まった。


≪──なに?≫


「もう、いいじゃないか。そいつの怒りももっともなんだ。許してやってくれないか」


 正体のわからない“声”を相手に、順は怯むことなく呼びかける。


≪──許す……?君はさっき殺されかけたじゃないか≫


「殺されかけたけど、殺されてはいない」


≪──でも、放っておけば殺されるよ≫


「そんなのわからないじゃん。問答無用はかわいそうだよ」


≪──君は、この怪物がこの世に存在してもいいと言うの……?≫


 順は俯いて黙り込んだが、すぐに穏やかな声で話し始めた。


「僕には、そんなに規模の大きな話には思えない。不死だろうと何だろうと、存在を否定する必要はないんじゃないかな」


≪──それは、この怪物の存在を受け入れるということ……?≫


「うん。それに『怪物』じゃない。こいつは立派な『生き物』だ」


 それからしばらくの間、木々の葉が揺れる音とセミの声しか聞こえない“静寂”が続いた。


≪──わかった……君の言葉を信じよう≫


 アイビーを縛っていた蔦が動きを止め、力を失ったように地面に落ちた。どうやらアイビーは“声”の主によって解放されたようだ。ぐったりとしているが、死んではいないらしい。


「ありがとう、ございます……」


「なに、君が苦しんでいる姿を見ていられなかっただけだよ」


 それにしても、順は昔から人の相談に乗ったり説得をしたりするのが得意だったが、自分を殺そうとした生き物や正体不明の声とも渡り合えるとは……つくづく底の知れない人だ。


「で、こいつこれからどうすんの?」


 その場の空気を打ち壊すように、修治が口にした。確かにアイビーには居場所がない。これからどこでどうやって暮らせばいいのか……。


「それなのですが……」


 アイビーがふらふらと立ち上がり、恵の方を向いた。


「ワタシを……アナタの研究所に置いてもらえませんか?」


「引き続き飼育されるってこと?」


「いえ、そうではなく……」


 そう言いながら、アイビーの体が細長く伸び、人型になる。そのまま細部が構成されてゆき、一人の男性の姿になった。


「研究所の職員として、です」


 恵は腕を組み、その姿を眺める。


「……じゃあ、実験動物の世話とかお願いできる?」


「はい、喜んで」


「だったら、人間としての名前も与えなくちゃな!」


 修治が目を輝かせる。シオンの時といい、こいつそういうの好きだよなー。


「じゃあ、私が命名する」


 そんな修治を、恵が制する。


「えー?……わかったよ」


 あれ?いつもなら口喧嘩を始めそうなところなのに、やけに素直だな。


「うーん、そうだなー……じゃあ、『富士見ふじみ はじめ』っていうのはどう?」


 なんてわかりやすい名前なんだ……けど、本人は気に入ったようだ。


「ありがとうございます……ワタシはこれから『富士見一』です」


「よし、それじゃあ……」


 恵が携帯電話を取り出し、通話を始めた。


「もしもし、タカジョー?捕まえたよ。……うん……うん。今から帰るけど、私は所長に話があるから、先に片付けておいて。じゃ、よろしく」


「というわけで、私たちは研究所に戻るから。みんなありがとね」


「おう」


「またなー」


 さっきまで不死の生物と戦っていたとは思えないくらいの軽いノリで、私たちは解散した。気になる点はいろいろとあるのだけど、「考えても仕方がない」という空気を感じさせられる。長年一緒に過ごした間柄なので、そういうのは肌で感じ取れるのだ。


「ところで順、店はどうすんだ?」


「それなー。とりあえず父さんに報告しなきゃなー」


「修、お前あれ直せないか?」


「壁かー。そういうのは直したことねえなぁ」


「だよなぁ」


 ああ、アイビーに気を取られて喫茶こもれびのことを失念していた。まだまだ問題は山積みだな……。


◆第25節 衣谷順と約束◆


◇1996年8月8日◇


 アイビーとの戦いの翌日、8月8日……僕にとって、今日は特別な日である。喫茶こもれびは壁が崩れたために臨時休業としたが、彼女が約束を覚えているなら待たなければならない。僕はカウンター席に腰掛け、壁の穴越しに道行く人々を眺めていた。

 ──と、ドアを開けて一人の女性が入ってきた。僕がさっきからずっと待っていた人物だ。


「おはよう、飛鳥。誕生日おめでとう」


「あっ……」


 彼女の表情には、様々な感情が込められているようだった。しばらくそんな顔で固まった後、飛鳥は俯き、絞り出すような声で呟いた。


「……順」


「ん?」


 それからまた、1分ほど沈黙が続いた。けど、僕は何分でも何時間でも、次の言葉を待とうと思っていた。


「私と……付き合ってください!」


 彼女の言葉と同時に、壁の穴から奥の部屋まで強い風が吹き抜けた。10年前と同じセリフなのも相まって、粋な演出だな。


「うん、いいよ」


 飛鳥ははっと顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見た。


「えっ……いいの?」


「もちろん。僕は約束は守る男だからね」


「約束……?」


「うん、10年前の……あれ、違ったっけ?」


「……何のこと?」


「ウソでしょ……?」


「ごめん、ホントにわかんない」


 僕はてっきり、彼女が10年前の約束を覚えていたからここに来たのだと思ったのだが……。


「ほら……10年前、君が告白してきた時に約束したじゃん。『10年後も想いが変わらなければ付き合う』って」


「……記憶にない」


「じゃあなんで来たの!?」


「いや、それは……10年越しにリベンジしてやろうと思って」


「えー……じゃあ、僕との約束は覚えていないけど、たまたま今日告白したってこと?」


「そう、なるのかな……」


 信じられない。確かに彼女は僕が「今はそういう気分じゃない」と断った時点で魂が抜けたような顔をしていたが、まさか聞こえていなかったとは……。


「……まあ、君が覚えているかどうかはともかく、約束は約束だからね。付き合うよ」


「あ、ありがとう……」


 あー、なんか、素直に待っていた僕がバカみたいじゃないか。なんでこんなにも精神をかき乱されているんだ。仕事に戻らねば……って、仕事は休んだんだった。逃げ場がない……。


「お二人さん、熱いねぇ」


 驚いて振り向くと、奥の部屋から梓が出てきた。


「梓!?いつからそこに!?」


「ずっといたよ」


「……どこから聞いてた?」


「『おはよう、飛鳥』」


「最初じゃないか!」


「今日は飛鳥の誕生日だからお祝いに来たんだけど、順が全然こっちに気づかないからさ」


「そんな……」


「面白いものを見せてもらった」


「飛鳥って、女だったんだな……」


「素敵だったと思います!」


 奥の部屋から、昨日一緒に森に行った面々が顔を出す。みんな見ていたというのか……これは一生いじられるな。


 ──そんなわけで、僕たちは軽い誕生日パーティーを始めた。平日の昼間ではあったけど、大五も梓も恵も仕事を休んで来てくれたようだ。


「あー、えっと……ちょっとよろしいですか?」


 パーティーの最中、樹が申し訳なさそうに手を挙げた。


「ん?何だ?」


「僕、そろそろ帰ろうと思うんですよ」


「えっ、もう帰るの?」


「いえ、そうじゃなくて……僕、この時代の人間じゃないんです」


「どういうこと?」


「僕は本来、2016年の人間なんです」


「にせんっ……!?」


「ってことは……20年後!?」


「はい、20年後です」


 彼の目は真剣だ。ドッキリ……というわけでもなさそうだな。


「今飛鳥さんが着けているペンダント……それをこの時代に持ってくるのが僕の任務でした」


「これ……?」


 全員の視線が飛鳥のペンダントに集まる。


「それは『空の玉』といって、昨日みたいに持ち主を守る力を持っています」


「すげぇ!」


「じゃあ……本当に未来人!?」


「証拠、見ますか?」


 そう言って、樹君は僕に100円玉を渡した。なんで100円玉……っ!?


「『平成25年』……」


「まあ、そういうことです」


 どこか浮世離れした印象があったが、まさか未来人だったとは。彼は19歳と言っていたから、今はまだ生まれていない、ということか。


「ってことは、樹君ってこの中の誰かの息子、とか……?」


 梓が尋ねた。


「さあ、どうでしょう?」


「でも、私たちの知り合いなんだよね!?」


「それは、まあ」


「だったら、私たちの結婚相手とかも知ってるの!?」


「梓、お前未来人に最初に聞くことがそれかよ」


「だって気になるじゃん!」


「俺は別に……」


「岡崎は生涯独身だから関係ないものね」


「おめーの方が売れ残るんだよ遠藤!」


 修と恵の口喧嘩を見て、樹がふふっと笑う。


「というわけで、そろそろ帰ります」


「そうか……寂しくなるな」


「また会えますよ」


「うわ、タイムトラベルものの定番のセリフ!」


 途端に修が元気になる。


「そうなんですか?僕、タイムトラベルものはあんまり見なくて……」


「じゃあ今度貸すよ!20年後に!」


 20年後か……10年前の約束でも長く感じたのに、随分先の話になるな。


 樹君が未来に帰るのを見送ることにした僕たちは、彼と共に木漏れ日の森に向かった。彼の話によると、あそこは20年後もほとんど変わらないそうで、少し安心した。そういえば、昨日あの森で聞いた謎の声……あれは森の神様か何かだったのだろうか。森で体験したことすべてが夢の中の出来事のように思えて、なんだか不思議な感覚だ。そして、今も……。


 タイムマシンが起動されると、スクーターの前方に水面のような揺らぎが現れた。あの先にあるのが、20年後の世界……。


「では皆さん、お元気で」


「樹君も達者でね」


「はい!では、失礼します!」


 樹君がエンジンをふかし、時空の歪みへと消えてゆく。目の前で一人の人間とスクーターが姿を消し、やがて未来へと通じる穴も閉ざされた。彼の生きる未来は、どんな世界なのだろうか。そんな風に想いを馳せながら、僕たちは帰路に着いた。


◆第26節 前田樹と前田樹◆


◇2016年7月28日◇


 見慣れた街並み、見慣れた人々……1週間の過去旅行を終えた僕には、すべてが懐かしく感じられる。なぜ僕が7月28日に帰ってきたのか。それは、もう一度D樹と会っておきたいと思ったからだ。旅立つ前は自分と同じ顔をした人間に対して「気持ち悪い」と感じて冷たくしてしまったが、彼と同じ苦労を経験した今ならもう少し優しくしてやれるだろう、と。


 20年前とは違う喫茶こもれび。衣谷家の自宅も兼ねたその建物の駐輪場に、僕はスクーターを乗り入れる。


「──え?」


 世界が傾き、ガシャンという音が耳をつんざく。一瞬遅れて、鈍い痛みが僕の半身を襲う。


「大丈夫ですか!?」


 店を飛び出してきた少年が、そう叫びながら駆け寄ってくる。


「えっ……樹さん!?」


 続いて出てきた少女が僕の名前を呼ぶ。それを聞いた一人の青年が店から出てきて、僕の顔を見て固まる。不意に、出発前に修治さんから聞いた説明を思い出した。“僕が過去に飛んだ時点でD樹は消滅する”──ああ、そういうことか……。


 ──


「これ、ドッペルゲンガーってやつ?」


 “僕”と僕の顔を見ながら、皆美が言った。


「えーっと……とりあえず、説明させてもらってもいいですか?」


 僕は周囲を見回し、おずおずと話し始める。


「僕はそこにいる彼と同じく、前田樹です」


 普通の人生を送っていればまず使わない言い回し。でも、僕はこの言葉を以前にも聞いている。


「こことは別の時間軸からタイムマシンで来ました」


 結局、「時間軸」という言葉の意味はよくわかっていない。今度ばかりは、嘘になるのかもしれない。


「たっ……タイムマシン!?」


「やっぱりそうか……」


「え、父さん知ってるの!?」


「うん……君は1996年からここに来たんだよね?」


「はい、そうです!」


 その返事をする時、自分でも無意識のうちに笑顔になっていた。僕から見ればついさっき別れたばかりだが、順さんから見れば20年ぶりの再会になる。いや……今年の春、僕が“初めて”この店を訪れた時が彼にとっての“再会”だったのかもしれない。


「彼……えっと、『ドッペルゲンガー樹』を略して『D樹』って呼んでもいいかな?」


「構いませんよ」


 その呼び名は、僕にとって「無事に任務を終えた勲章」のように思えた。


 ──


「あっ、あのさ……樹」


 僕が話しかけると、“樹”は嫌そうな顔をした。そんな顔するなよ……ちょっと傷つくぞ。


「君の家、行ってもいいかな?」


◇2016年7月31日◇


 そして迎えた日曜日。4日間を共に過ごした“樹”が過去へと旅立つ日。彼が「ついてこないで」と言ったため、僕は家で過ごす羽目になった。こんなことなら、“D樹”にも見送りに参加してもらうべきだった。“僕”のわがままのせいで、一番面白い瞬間が見られないではないか。


「……いってらっしゃい、樹」


 僕は窓の外を眺めながら、ぼそりと呟いた。


◆最終節 いつかの時代、どこかの場所◆


◇----年--月--日◇


「おはよう」


 森の中に佇む男が、虚空を見上げてそう呟く。彼の周囲に人の姿はなく、一見すると独り言以外の何物でもない。


≪──おはよう≫


 しかし、それに応える声があった。森を吹き抜ける風の音が木々の葉によって操られ、人間の声のように聞こえるのだ。


「今日、彼を過去に送り出す。随分と長い旅路だったけど、それも今日で終わりだ」


≪──そっか……≫


「それで、君にお礼を言っておきたくてね」


≪──僕は大したことはしていないよ≫


「そんなことあるか。君は僕のことをずっと見ていてくれたし、いろいろと手助けしてくれたじゃないか」


≪──君の悲しむ姿を見ていられなかっただけだよ。僕がもう少し早くあいつを止められていれば、こんなことにはならなかった≫


「ああ……だから、変えてやるんだ。この時間軸を」


 男は胸元で輝くペンダントを強く握り締めた。


「たった一つ……このペンダントを、彼女に渡してやるだけでいい。それで彼女は助かるはずだ」


≪──本当にうまくいくの?≫


「わからない。でも、僕は彼らを信じたい」


≪──いい友達を持ったね≫


「ああ……最高の親友たちだよ」


 男はペンダントを外し、木漏れ日にかざした。


「“過去を変える”……今まで誰も成し遂げたことがない偉業であり、大罪……僕たちは、それを成し遂げるんだ」


≪──君は、怖くないの?これまで生きてきた時間を否定することが≫


「……さあね。もうそんなのよくわからなくなったよ。この20年間、僕は彼女のことだけを考えて生きてきたからさ。……そう言う君はいいのか?」


≪──僕にとっては、20年前も昨日も同じようなものだからね≫


「羨ましいな」


≪──そうかな?退屈だよ。僕に言わせれば、毎日が新しい君たちの方が羨ましいよ≫


「ははっ、隣の芝は青いってやつだな」


 男は木の下に座り込み、その幹に寄りかかった。


「……心残りがあるとすれば、君と過ごした記憶が残らないことかな」


≪──僕と?≫


「ああ。せっかくこんなに仲良くなれたのに、全部なかったことになるんだろ?」


≪──そうだね≫


「……過去を変えた先の世界でも、仲良くなれるかな?」


≪──どうだろうね。どのみちあいつは封じ込めなきゃいけないから、出会うことはあるんじゃないかな≫


「そうか……そうだな……」


 男はしばらく、風に揺れる木々を眺めて黙り込んでいた。


「……そろそろ、タイムマシンの準備をしなきゃ」


 男は立ち上がり、森の外の方に目を向けた。


「ありがとう、コモレビ様。君のおかげで元気が出たよ」


≪──どういたしまして≫


 男はその言葉を聞き、満足したように歩き始めた。











 ──その日、世界は人知れず終わりを迎えた。

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空色の狐と僕 妖狐ねる @kitsunelphin

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