第4話「現冥境」

◆第13節 在原絵理香と超変異研究所◆


「ぅ、んんーっ」


 私は大きく背伸びをした後、チョコの箱に手を伸ばした。チョコのほかにも様々なお菓子が広げられているこの机は、「生物学者の机」というより「お菓子学者の机」と言った方がしっくりくる。生物学要素といえば、本棚に立っている数冊の本と、その上の段に置かれているDNAの二重螺旋の模型くらい。とはいえ、宇宙船のプラモデルに囲まれた隣の机に比べればまだマシだろう。

 その机の主は、今日もいない。いや、いるんだけど、ここにはいない。机の上には、今日中に片付けるべきものを含むファイルの山が積まれている。


「ちょっとタカジョー呼んできます」


「おう、いってらっしゃい」


「いってらっしゃいませー……」


 椅子に寄りかかって扇子を扇ぐ青年と、メガネを掛けたスキンヘッドの青年が、機械化されたような義務的な返事をした。この研究室はなんていうか、変化がなさすぎる。


 扇子の男・富士見ふじみ はじめは、実験動物の世話以外にほとんど動かない。生物学者らしいことは何もしていないし、かなりの世間知らずだ。25歳の私よりも年下だと聞いているけど、むしろ小動物か何かを見ているような気分になる。

 スキンヘッドの男・那須なす 三郎さぶろうは、いつもPCに向かっている。仕事熱心なのはいいけど、小心者すぎて会話が進まない。今はミツバチに関する研究をしているらしいのに、ミツバチの羽音でビビるのだからどうしようもない。

 そして、今私が連れ戻しに向かっている高村たかむら 譲二じょうじ、通称「タカジョー」は喫煙所の主だ。研究室にいる時間と喫煙所にいる時間の比率はおおよそ1:5。もういっそのこと「生物学部門所属」から「喫煙所部門所属」に変えてしまえ。


「タカジョー!!」


「おぅわ、ビックリした」


 喫煙所内でのんびりしていたタカジョーが振り向いた。


「研究室に戻ってください。今日中に終わらせなきゃいけない仕事もありますよね?」


「まあそう焦んなって。俺が本気を出せばあんな作業に1時間とかからねえんだから」


「だったら1時間で終わらせてその後でタバコを吸えばいいじゃないですか!」


「今はまだ本気を出す時じゃない」


「とにかく!こっちに来てください!」


「やだ。今そっちに行ったら歩きタバコになるし」


「喫煙所で歩きタバコもクソもないじゃろうが!!」


 周囲にいる4、5人の喫煙者たちも、いつもの光景といった感じで気にも留めない。


「こえー、マジこえー」


 タカジョーは吸っていたタバコを捨てると、渋々とこちらに歩いてきた。


「女の子なんだからもうちょっとおしとやかにしろよぉ」


「関係ありません」


「むぅ……」


 白髪交じりの頭を掻きながら、タカジョーは私についてくる。なぜ私がこんなに面倒を見なければならないのか。こんなことをするために生物学者になったわけじゃないのに。


「あ、絵理香えりかちゃん!」


 研究室に戻る途中で、この涼風科学研究所の所長である岡崎おかざき めぐみさんに呼び止められた。


「ちょっと来てくれる?」


 所長が長いポニーテールをふわりと揺らしながら言った。私はタカジョーにちゃんと戻るよう釘を刺してから、彼女に連れられて所長室に向かった。


「ちょっと、おつかいを頼まれてくれないかな?」


「おつかい、ですか?」


 話しながら、所長は机上に積み上げられた数冊のファイルをトートバッグに入れる。


「弟からこれを持ってくるようお願いされたんだけど、私はこの後に別の用事があってね。代わりに持って行ってほしいの」


「はあ……えっと、どちらまで?」


「それが、絵理香ちゃんにしか頼めない理由なんだけどね」


「私にしか……?」


 所長は私の目をしばらく見つめた後、ゆっくりと口を開いた。


「超変異研究所……っていうところなんだけど」


「ちょうへんい……?聞いたことないです」


「うん、表向きにはされていない施設だからね」


 それって、何か危ない研究をしているところなのではないだろうか──そんな不安が、顔に出てしまったようだ。


「あ、大丈夫。そんな身構えるような場所じゃないから。……超能力の研究をしている、って言えばわかるよね」


 超能力……なるほど、そういうことか。


 私が10歳の誕生日を迎えてすぐ、涼風で大きめの地震があった。春休みで家にいた私は、リビングで本棚の下敷きになりかけた。お母さんの話によると、私に向かって倒れてきた本棚は“見えない力”によって支えられ、そのままゆっくりと元の位置に戻ったそうだ。その時のことはハッキリとは覚えていないけど、それ以来、私は「手を触れずに物を動かす」という不思議な力を手に入れた。「遠隔操作できる手がある」とでも言えばわかりやすいだろうか。といっても、基本的には自分が持てる重さの物までしか動かせない。それより重い物を動かすこともできなくはないのだが、反動で物凄く疲れる。私の体調にも大きく左右されて、調子が悪い時には全然動かせない。そんな感じの能力。


 この能力に目覚めてからしばらく経った後、両親が私をこの涼風科学研究所に連れてきた。知り合いがここの関係者だったらしく、病院で診てもわからない私の“症状”を検査することになったのだ。

 けど、検査の内容よりも印象深く残っているのは、棚に置かれていたDNAの二重螺旋の模型だ。当時小5になったばかりの私はその美しさに心を奪われ、一目惚れしてしまった。うねるように絡み合う二つの曲線と、その間に規則正しく並んだ4色のパネル。一つ一つの要素が緻密に組み合わさったその造形が、幼い私には一つの芸術作品に見えたのだ。

 私が模型に見惚れているのに気づいた女性研究員が、簡単にDNAの説明をしてくれた。この芸術作品が私の体の中にもあるのだと聞いて、大自然の神秘を感じたのを覚えている。話が終わると、女性研究員は思い立ったように近くにいた別の研究員と話し、その模型を私にくれた。私はそれを大事に持ち帰り、勉強机の上に飾った。これが私が生物学の道を歩んだきっかけであり、その時の女性研究員こそが現在の所長、岡崎恵さんなのである。


「15年前に絵理香ちゃんを検査した結果、人間の体には死を前にした時、自らを防衛する超能力を獲得する機能が備わっていることがわかったの。で、それを『超変異』と名付けて研究するようにしたんだけど、超能力の研究なんて、あんまり大っぴらにできないじゃない?だから、数年前にこの研究所から分裂する形で『超変異研究所』っていう施設を作ったわけ」


「なるほど……」


 私にとっては二重螺旋のイメージしかないあの検査が、そんな歴史に残るようなものだったなんて……。というか、私のこの能力について科学的な解明が進んでいたということ自体初耳だ。


「そういうわけだから、このおつかいに関しては秘密ってことでお願い」


「わかりました」


「それで、場所なんだけど……六軒坂ってわかるかな?」


「はい、わかります」


 六軒坂……この研究所から少し離れたところにある、それなりに大きな坂だ。その昔、建物が六軒しかなかったことからこの名が付けられたらしい。もちろん、今ではすっかり住宅街の一部になってしまっているのだけど、バス停もあるため名前はそれなりに知られている。


「そこの一番上にある、木造のボロ屋敷」


「ぼ、ボロ屋敷?」


「で、ここからが大事だからよく聞いて。鍵はかかってないから、そのままドアを開けて奥に進んで。廊下の突き当たりにある机に砂時計が置かれているんだけど、それをひっくり返したら研究所に入れる」


 およそ「研究所への行き方」とは思えないような手順だけど、超能力を研究しているのだからそういうものなのかもしれない、と自分を納得させた。


 ──研究所を出た私は、六軒坂に向けて歩き始めた。たまに思うのだけど、「上に白衣を着ている状態」と「着ていない状態」ではどちらがより暑いのだろうか。白衣は白いから日光を反射してくれそうだけど、あの分厚い布を纏うのは微妙に暑苦しい。いずれにせよ、私は研究所の中でしか白衣を着ないので、じりじりと日光に焼かれながら歩くしかない。


「あの、すみません」


 声の主は、黄色いポロシャツを着て頭に白いヘアバンドを着けた少年だった。少年は自転車を押しながら、私の方に歩み寄ってくる。


「六軒坂って、どこですか?」


「六軒坂?それならこっちだけど……あなたもそこに用があるの?」


「あ、はい……とっ、友達から、六軒坂に来いと呼び出されまして……」


「ふーん。私も今から六軒坂に行くところなんだけど、一緒に行く?」


 直後、自分でも変なことを言ってしまったと思った。相手は自転車を持っているのだから、徒歩の私に合わせる意味などない。友達も待っているだろうし、道だけ聞いてさっさと向かった方がいいに決まっている。……けど、彼の返事は違っていた。


「あっ……はい、じゃあそうします」


「ああ、ごめんね。お友達が待ってるんでしょ?先に行っていいよ」


「いえ、その、友達って言っても、別にそんな仲がいいわけじゃないですし、用事もどうでもいいっていうか……」


「そうなの?」


「まあ、せっかくなんで……」


「……あ、そうだ。飴食べる?」


 私はポケットから飴玉を取り出して彼に差し出した。


「あ、ありがとうございます」


 少年はそれを受け取って、ズボンのポケットに入れる。


 彼は普段この辺りを歩かないそうで、自転車を取りに戻った後、六軒坂がどこかわからず道に迷っていたらしい。そんな他愛もない話をしながら私たちが向かった先に待ち受けていたのは、両者とも想定していなかった光景だった。坂の一番上には、確かに木造の屋敷が建っている。でも、その敷地内では無視できないような出来事が繰り広げられていたのだ。


「なぜだかえで……なぜまたこんなものを……!」


「だから、あんたのせいだってば」


「違う……私は……!」


 事情は全くわからないけど、グレーのレインコートを着た女の子が何人もいて、それぞれ人を羽交い絞めにしている。


「えっ……」


 一緒に来たヘアバンドの少年が、その状況を見て言葉を失う。まさか、この取り押さえられている人たちが彼の友達なのだろうか。


「鎌鼬!」


「ファイア・ボルミード!」


 小学生くらいに見える女の子二人が、そんな感じの言葉を叫んだ。ごっこ遊びとは思えないような“凄み”がある。が、レインコートの集団は意に介しておらず、明らかにレインコート軍が有利な感じだ。


「なんで……なんで……!」


 ヘアバンドの少年が、頭を抱えて自転車にもたれかかる。その絶望的な表情を見て、どうにかしなければならないという感覚が湧き上がった。


「……あのレインコートの連中は、敵?」


「えっ……」


「今やられてる方があなたの友達なのよね?」


「あっ……はい……」


「……わかった」


 私は持っていたトートバッグを彼の自転車のカゴに入れて、屋敷の敷地内に踏み込んだ。


「人に向けて使うのはイヤなんだけどね」


 目標は9人……このくらいの数なら一度に叩ける。私は深呼吸をして両手を前に出し、指先の神経に意識を集中させた。


「──はあっ!!」


 すべてのターゲットを同時に睨み、視線で殴るように力を込める。頭の中でドン、という音がして、レインコートの人物のうち一人、奥で誰にも組み付かず立っていた奴が吹っ飛んだ。残念ながら、私のこの力に「手応え」はない。念力で物を動かす時に、それがちゃんと掴めているかどうかは目で確認しなければならないのだ。だから、この時に私の調子が悪くて一人にしか攻撃できなかったのか、そもそも残りの相手には攻撃が通じなかったのかはわからない。でも、これなら彼らの助けになれそうだ。


「大丈夫か!」


「春海!?今の、何が起こって……」


「状況はよくわかりませんが、助太刀します!」


 私は彼らに向けて言い放ち、レインコートの少女の方に身構えた。


◆第14節 空狐ソラと決戦◆


 どれほど昔のことだっただろうか。僕は元々、ごく普通のキツネだった。たまたま長生きしただけなのか、それとも明確な理由があったのか……同じ時期に生まれた兄弟たちはとっくに死に絶え、その子孫を何世代にもわたって見送った。僕だけが、明らかに異常な年月を生き続けたのだ。

 いつしか不思議な力が扱えるようになり、僕は“妖狐”になった。本能的に、これは自分の身を守るための能力であると理解した。天敵となる動物や僕を狩ろうとする人間を、妖術を使って追い払うことができた。やがて人間の言葉を覚えた僕は、彼らと共に生活するようになった。

 いつの間にか、キツネよりも人間の方が身近な存在になっていた。時々自分が狐であることを忘れてしまうくらいに、僕は人間の中に溶け込んでいたのだ。「人間」という言葉は、「ヒト」とはまた違う意味を持っているように思う。狐だろうと宇宙人だろうとロボットだろうと、人間の社会に混ざって生活するようになった時点で「人間」に含まれるのではないか、と。その理屈で言えば、僕は「人間」になっていた。


 そんな中で、僕は白狐かえでと黒狐七星に出会った。ほかにも何匹かの妖狐がいたけど、現在まで生き残っているのはこの2匹くらいだ。かえでは僕と一緒に行動することが多く、人間社会での生活の仕方も僕が教えた。彼女は少々イタズラ好きなところもあったけど、それなりに人里に馴染んで暮らしていた。一方、七星は人間に興味を示さなかった。あくまでキツネとしてのライフスタイルを貫き、僕やかえでを通じて人里の情報を得るだけで、直接干渉しようとはしなかった。まあ、それぞれ性格は異なりながらも、僕は彼女たちを我が子のようにかわいがっていた、というわけだ。


 かえでたちが僕を認識しなくなってから、ざっと300年くらい経つ。現冥境を封じた際に力を失った僕は、なんとかして彼女たちとコンタクトを取ろうとしたけど、どれも失敗に終わった。人間の体を借りようにも魂魄が噛み合わず、うまく入れたとしてもすぐに弾き出されてしまうのだ。

 なぜ臨に憑依できたのか、自分でもよくわかっていない。七星から臨を守ろうと──あの時点では相手が七星とはわかっていなかったが──無我夢中で飛び込んだら、いつの間にか臨の中にいた。ひょっとすると、火事場の馬鹿力みたいなものだったのかもしれない。


 ──それにしても迂闊だった。僕が憑依していれば臨でも七星と渡り合えると思っていたけど、人間の体では七星と囮神の区別がつかない。おまけに七星の奴、いつの間にか式神を使役する技術をここまで高めていたとは。もしこの女性が助けに入ってくれていなかったら……烈斗が連れてきたようだが、おそらく彼女は超能力者だ。ごく稀に、人間の中にも僕たち妖狐のように不思議な力に目覚める者がいる。僕も何人か知っているし、詩音もその一人だ。どうやら、彼女の能力には七星の妖術無効化も効かないらしい。


 さて、ここからどうするか。助太刀に入った彼女は確かに強いが、正面戦闘では七星の方が有利だし、あの能力は人間には負担が大きいはずだ。さくらの式神を握り潰した腕の式神の能力もよくわからない以上、彼女一人に戦いを任せるわけにはいかない。せめて、目の前数cmの位置にある囮神の手に握られた空の玉だけでも取り戻したいけど……そうか!


「すみません!こいつが持ってる勾玉、奪い取ってくれませんか!」


「えっ?」


「そこにあるやつです!」


 僕は臨の顎を使って空の玉を指す。


「わかった!」


 女性がこちらを睨むと、僕たちを拘束している囮神の手から空の玉が引っ張り出された。やはり、彼女の能力はターゲットとなる物体に直接働きかけるようだ。空の玉はそれを掴もうとする囮神の手をかわし、臨の手の中に収まった。


≪今だ、臨!空の玉に触れたまま強く念じて!≫


≪え、何を!?≫


≪この状況を打破できるイメージだ!≫


 僕に言われるまま、臨は空の玉を握り締めて念じた。──刹那、玉が青色の光を放ち、僕たちを包み込んだ。……いや、光じゃない。これは結界だ。結界は玉を中心に膨張してゆき、臨の体に組み付いた囮神を引き剥がした。そのまま広がり続けて、ほかの人を捕らえている囮神も次々に弾かれる。かつて僕が見た通りだ。この玉は持ち主が認めた者以外には不可侵の空間を展開する。おそらくは現冥境が持っていた「時空を超えて魂の世界に接続する」という術式の一部なのだろう。

 結界は全員分の囮神を締め出した後、ゆっくりと収縮を始めた。この結界の大きさや展開時間は使用者の想いの強さに応じて変化する。僕が前に見た時は一人分程度の大きさだったので、臨の想いは相当に強いということだ。


「よし、反撃開始だ!」


 僕は臨の口を借り、全員に聞こえるように言った。


「待って!」


 ──が、臨がそれを遮るように止めた。


≪どうしたんだ、臨?≫


≪僕たちは……重大な勘違いをしているような気がする≫


 その言葉を最後に、僕の意識は臨から離れ、アンクレットに戻された。僕は彼女に追い出されたのか……?


「七星、君の目的は……『現冥境の復活』じゃないんだよね……?」


「……」


 七星は黙り込んでいる。臨を警戒しているようにも見える。


「話は聞いたよ。仲の良かった女の子が、事故で亡くなったって……」


 七星がわずかに反応を見せた。


「君は長い間、山の中でキツネとして暮らしてきた。それで、初めて仲良くなった人間が天野照子ちゃんだった……そうだよね?」


 七星は何も言わない。が、攻撃もしてこない。


「つまり、君にとって照子ちゃんの死は、初めての“身近な人物の死”だった。君はそこで初めて、“命の重み”を知った……」


 確かにそうだろう。七星は人間とはほとんど接しなかったし、妖狐に関しては死の現場に居合わせたことがない。僕が体を失ったことも、彼女はかえでから伝え聞いただけだ。


「君は理解してしまったんだ……現冥境を作った妖術師の気持ちを。人間が持つ『死者を生き返らせたい』という感情の意味を」


「……そうだ」


 七星が初めて口を開いた。臨は小さく頷き、さらに続けた。


「だから、現冥境がこの世に存在してはならないと考えて、破壊しようとした……」


「あんなものがあっては、また誰かが冥界への扉を開けてしまう……そう考えたのだ」


 そういえば、七星は一度たりとも「現冥境を復活させる」などとは言っていない。僕は七星が魂の鏡を持ち出し、空の玉を持つ臨に攻撃したためにそう思い込んでいたが、実際には破壊が目的だったというのか……。


「七星……残念だけど、それは無理だ」


 話を聞いていたかえでが口を開いた。


「何……?」


「あたしだって、こんなものが存在したらまずいって思って壊そうとしたよ。でもね……それ、どんなに頑張っても傷一つ付けられないんだ」


 そう、僕が現冥境を分解して体を失った後、かえでは神器を破壊しようと試みた。石をぶつけたり、刃物で斬りつけたり、炎で焼いたり……考えうるすべての手段で、現冥境の残骸を葬り去ろうとした。だが、今この手の中にある空の玉を見てもわかる通り、成果はゼロだった。海に捨てたこともあったはずだが、ここにあるということは無駄だったのだろう。そして、最終的に「神器はバラバラの場所に隠す」ということになったのだ。


「……そうか」


 七星は落ち着いた返事をして、紫色の腕の式神を指し示した。


「この剛腕鬼ゴウワンキは、私が魂の鏡を手に入れた後、それを破壊するために作り出した式神だ。ただひたすら力だけを求めたものなのだが……壊せなかった」


 確かに、あの式神は凄まじい。人間の目を通してでさえ、その異様な妖力が感じ取れるほどだ。囮神を8体同時に使役し、こんな強力なものを扱い、おまけに妖術を封じる式神まで出している。よほど式神の扱いに長けていなければ、妖力の負担が大きすぎて死んでしまうレベルだ。七星の現冥境に対する執念の強さが窺える。


「……で、どうするんだ?もうそいつとは戦わなくていいんだよな?」


 陽介が時の剣を持った手をぶらぶらさせながら言った。


「いいよね?七星」


「ああ……すまなかった」


 そう言いながら、七星は呼び出した式神を消した。


「いや、あたしたちも悪かったよ」


 ──やれやれ、この3日間ずっと七星のことを警戒して過ごしていたのに、それが勘違いだったとは。とにかく、これで一件落着、といったところか……。そう思っていた時だった。


「あっ、ちょっ、返せ!」


 振り向くと、見知らぬ男が陽介の持つ時の剣を取り上げていた。年齢は40代か50代といったところだろうか。


「貴様、照子の……!」


 七星がその男の顔を見て声を上げる。


「そう……私は照子の父、天野あまの 力男りきおだ」


◆第15節 黒狐七星と現冥境◆


 ついさっきまで元気に笑っていた照子が、今はピクリとも動かない。そしてこれからも、二度と目を覚まさない。──それは私にとって、あまりにもショッキングで受け入れがたい事実だった。激しく降り注ぐ雨が照子の亡骸を濡らし、より一層冷たくしてゆく。雨水に洗われた照子の顔はとても美しく、死んでいるようには見えなかった。私は極めて強い後悔の念に襲われ、自身の無力さに打ちひしがれながら、彼女への詫びの言葉をとめどなく嘆き続けた。


 照子は明るく元気な子だった。彼女と出会ったばかりの頃、私は彼女を鬱陶しいとすら思っていたくらいだ。妖狐である私のことを微塵も恐れず、積極的に関わろうとしてきた。私も最初のうちは彼女を追い返していたが、何度追い返しても数日後にはまた現れて声をかけてくる。やがて追い払うのが面倒になり、彼女のやりたいようにやらせることにした。

 照子は私のことを「ナナちゃん」と呼んだ。「七星」という名の持つ荘厳さからはかけ離れた間抜けな響きに違いないが、なぜだか少し嬉しい気がした。それは、私が初めて人間と心を通わせた瞬間だったのかもしれない。

 照子は毎日のように私の巣を訪れ、その日の出来事を話してくれた。人間の生活についてはかえでやソラから聞いていたが、それとは比べものにならないくらい有意義で面白い話だった。私は彼女が来る時間になると巣穴から外に出て待っていたし、来なかった日にはひどくがっかりしたものだ。「やっほー、ナナちゃん」から始まり「じゃあ、またね」で終わる短い時間は、私の毎日の楽しみとなっていた。


 ──だが、それももう過去のことだ。彼女はもう、二度と私の前に現れることはない。たった一瞬の出来事で、彼女はこの世から永遠に葬り去られてしまったのだ。

 “死んだ者は生き返らない”──それは自然界においては当たり前の掟であり、疑ったり逆らったりしようなどと考えたことはなかった。そもそも人間が墓を作って死者を弔う意味もわからなかったし、かえでに妖術を与えられた人間が現冥境を生み出したと聞いた時も「何を愚かなことを」と思っていた。しかし、照子の死を経験した今は、なぜ人間がそこまでして他者の命に執着するのかが痛いほどわかる。こんなにもつらい思いをするならば、「死者を生き返らせる」などという幻想に心を委ねたくもなるだろう。照子は私に人間の文化を教えてくれたが、最後に教わったのは“命の重み”であった。

 それ以来、私の心にはぽっかりと大穴があいてしまった。照子と出会う前、自分がどのようにして日々を過ごしていたのかも思い出せない。何も考えることができず、ただひたすらに空虚な時間が流れる。


 そうやって無意味で無価値な毎日を過ごしていた私の前に、“奴”は現れた。黄色い浴衣を纏い、半分狐、半分鬼の面を着けた人物。たまたま山を降りていた私は、その異様な気配を無視できず、奴の後を追った。奴は神社に踏み入り、そこに置かれていた魂の鏡を盗んでその場を去ろうとした。


「待て!その鏡をどうするつもりだ!」


 私は照子の姿に化け、奴の前に立ち塞がった。


「おや、七星か……」


 寒気がした。私のことを知る人間など、照子のほかにいないはずだ。いや、あるいは人間ではないのかもしれない。いずれにせよ、こんな得体の知れない奴に神器を渡すわけにはいかない。私は妖術を使って鏡を奪い取り、無我夢中で森の中を走って逃げた。

 逃げた先で、森の中に人間の少女が立っているのが見えた。見つからないよう通り過ぎようかと思ったが、その首に空の玉があることに気づいて足を止める。“ひょっとして、先程の奴の仲間ではないだろうか”──そう考えた私は姿を消し、少女から空の玉を奪い取ることにした。しかし、少女は只者ではなかった。その時はわからなかったが、彼女には300年前に死んだはずのソラが憑依していたのだ。さらに少女の仲間が駆けつけたため、私は空の玉を奪うことを諦め、その場を去った。


 剛腕鬼を使っても魂の鏡が破壊できなかった私は、時の剣の持ち主を探した。現冥境を構成する3つの神器のうち、どれか一つでも破壊できれば十分だと考えたためだ。


「照子……?」


 魂の鏡を使って剣を持つ人間を探している中で、一人の男が私に話しかけてきた。天野力男──照子の父親だった。


「いや……私は照子ではない……」


「失礼しました……娘に似ていたもので……」


 力男はそう言って立ち去ろうとした……が、私の持つ鏡を見て目を見開いた。


≪あれは……魂の鏡……?≫


 鏡を通じて彼の考えが見えた私は驚き、慌ててその場から逃げ去った。300年という月日は人間にとっては長いもので、現冥境や神器について知る者はいないはずだと思っていたからだ。知っている人間がいるならば、その復活を企む者は必ず現れる……私は焦りを覚え、迅速に剣の持ち主を見つけ出すことにした。


 ──その力男が、再び私の前に現れた。そして、その手には時の剣が握られている。


「あんた、それが何かわかってるのか!?」


 かえでが力男に向かって叫ぶ。


「知ってるさ。正徳6年にこの地で開いたという、現世と冥界の扉『現冥境』……疫病や飢饉、自然災害の比喩かと思っていたが、まさか実在したとはね……」


「だったら、その時に大勢の人間が死んだことだって……!」


「ああ、知っている。だが、そんなことはどうでもいい。ほかに何人死んだとしても、私は娘を生き返らせる」


「ふざけんな!」


 突如、時の剣を奪われた少年が声を上げた。


「俺だってな、母さんが死んでから何度となく生き返ってほしいと願ったよ。けどな……ほかの誰かを犠牲にしてまで、母さんに戻ってきてほしいなんて思っちゃいねえよ!」


「そんなのは人の勝手だ。死んだことを悲しもうが悲しむまいが、生き返ることを願おうが願うまいが、それは個人の自由。“私は娘を生き返らせる”……ただ、それだけのことだ」


「そうかよ、だったら言い方を変えてやる。『俺が気に入らねえから潰す』──これならいいか?」


「剣もないくせに何を──」


 そこまで言って、力男は大きく横に飛びのいた。ほぼ同時に、先程まで力男がいた場所に人影が飛び込む。


「ほう、なかなか良い勘をしている」


 人影がゆっくりと立ち上がる……その頭部は、ヒトではなくシカだった。


「シカマスク!」


 色黒の少年が、その姿を見て叫んだ。


「人が大勢死ぬと言われて、黙っているわけにはいかないのでね……私も加勢しよう」


 シカマスクと呼ばれた男は、ゆっくりと力男に詰め寄る。かと思うと、目にも留まらぬ速さで拳を繰り出し、鈍い音と共に力男の体が吹っ飛んだ。


「ぐっ……!」


「さあ、おとなしくその剣を渡せ」


 シカマスクが倒れた力男に歩み寄る……と、その手に握られた時の剣から薄い緑色の刀身が伸び始めた。


「まずい!」


 私は力男に金縛りの術をかけようとした。──が、間に合わなかった。既にその場に力男の姿はなく、私の持っていた魂の鏡も、少女が持っていた空の玉も消えている。そして、彼は私たちの後ろ、道路に立っていた。


「なるほど、これが時の剣の力か……」


「鎌鼬!」


「召喚、縦横──」


「もう遅い!私の勝ちだ!」


 力男が神器を重ね合わせ、辺りが眩い光に包まれると、西に傾いた太陽を背負って、禍々しく威圧的なフォルムの門が現れた。


 ──直径10mはあるかと思われるような、巨大な円形の門。外側は薄茶色の歯車のような形をしていて、八方向にある歯のうち上下の二つが長く伸び、先端は矢のような形をしている。その内側には横向きの溝が一本入った灰色の丸い扉があり、中央に位置する空色の陰陽太極図の周囲を赤い線が走る。ズズズという重低音と共に地面と空気が振動し、その巨体がゆっくりとうねる。


「さあ、開けよ現冥境!私の娘、天野照子をこの世に連れ戻せ!」


「剛腕鬼、現冥境を止めろ!」


 私は剛腕鬼を飛ばし、上下に伸びた部分を掴んで回転を止めようとしたが、一向に止まる気配はない。


「くそぉ!」


 先程まで私と戦っていた者たちも下側の部分を押し戻そうとするが、現冥境は変わらず回り続け、やがて地面から手の届かない位置にまで歯が上昇した。

 回転していた部分がそれぞれ90度ずつ回り、上下に伸びていた矢のような部分が左右を指して止まる。巨大な扉が、ゆっくりと左右に分かれてゆく。300年の時を経て、現冥境が再び災厄をもたらす……私が最も恐れていた光景が、目の前で現実となってしまった。


「おっと、ストップ」


 その声と共に、現冥境は数cm開いたところで停止した。

 黄色い浴衣、狐と鬼を半分ずつ模った面、男とも女ともつかない声……あの日神社から魂の鏡を持ち去ろうとした奴が、カラカラと下駄を鳴らしながらこちらに歩いてくる。


「はろー」


 呆然とする私たちに対し、控えめに手を振りながらそう口にした。


「いやー、ごめんごめん。このまま現冥境を開かれると困るんだよね」


 そう言うと、彼の履く下駄が音もなくアスファルトを離れ、その体がすうっと上昇する。そのまま現冥境の前に飛んでゆき、わずかに開いた隙間に手を入れた。


「あったあった、これが欲しかったんだよ」


 隙間から引き抜いた手には、水色の球体が握られている。


「それは……?」


 ソラの憑依している少女が口にした。


「君が300年前に失った“魄”だよ。現冥境を分解した時、その中に取り残されちゃったんだね」


 答えながら、手にした球体をリング状に変化させ、自らの右足首に装着した。


「よし、おしまいっ」


 そう言って手を触れると、現冥境はパァンという音を立てて弾け、再び3つの神器に分かれた。奴はそれを空中で掴み取り、元々持っていた者たちに投げ渡す。


「き……貴様ァ!」


 激昂した力男が、地上に降りてきたところに殴りかかる。が、その拳を阻むように、奴の手元に金色のトビが飛んできて肩に止まった。


「ああ、終わった?じゃあそろそろ帰ろうか」


 その声に反応し、トビの姿が消える。あれは、奴の式神なのか……?


「勘違いしてるみたいだから言っておくけど、そもそも現冥境に死者を蘇らせる力なんてないよ」


「……なんだと?」


「現世と冥界を繋いでも、冥界の怨霊が現世に流れ込んでくるだけ。死者は死者のままだし、理性のある幽霊は現冥境に近づかない」


 愕然とする力男をよそに、奴は私たちの方を向く。


「そうそう、もうじき君たちの前に倒すべき敵が現れるから、一応心の準備はしておいて」


「倒すべき敵……?」


 ソラが尋ねる。


「君の宿敵、茜鬼せんきアカネだよ」


「……!」


 ソラはひどく動揺した様子で奴を見た。


「君は……何者なんだ?」


「僕はレイ。ただの人間だよ」


 レイと名乗ったそいつは懐から扇子を取り出した。


「じゃあね」


 扇子を扇ぐと、レイの周りで空気が渦巻く。そうして発生した旋風がレイの体を覆い、それが晴れた後には何もなかった。


 ──沈黙の中、力男が膝から崩れ落ち、静かに泣き始めた。無理もない。私自身、現冥境が開いた時に心のどこかで照子が戻ってくることを期待していたような気がする。


「お父さん」


 不意に聞き慣れた声が聞こえて顔を上げると、見慣れた可憐な顔が目に入った。


「照子!」


 力男が叫ぶ。ああ、間違いない……姿が透けてはいるが、照子が私たちの前にいる。


「詩音さん!」


 ソラの憑依した少女が、照子と手を繋いでいる女に声をかけた。


「冥界にいたら、急にこの間の金色のトビが飛んできてね。『天野照子を現世に連れて行け』って言うから、探して連れてきたの」


 どうやら、詩音と呼ばれたこの女は冥界に行くことができるようだ。それで、照子の霊を連れてきたというのか……。


「お父さん、私はもういいから、生き返らせようなんて考えないで」


「照子……」


 力男は目に涙を浮かべたまま、娘の姿を見つめている。


「照子、本当にすまなかった!」


 私は、彼女が死んでからずっと言いたかった言葉を告げた。


「いいんだよナナちゃん。悪いのは足元に気をつけなかった私なんだから、気に病まないで」


「だが、それでは私の心が収まらない!」


 私がそう言うと、照子はふっと微笑んだ。


「お父さん、ナナちゃん……私は自分が死んだっていう事実を受け入れた。だから二人も受け入れて」


 涙で照子の顔が歪んで見えるが、それでも彼女が笑っているのはわかった。


「皆さん、父と七星がご迷惑をおかえしてすみません。どうか許してやってください」


「そもそも最初から責めてないよ」


「俺も気持ちはわかるからな……」


「……ありがとうございます」


 照子の声を聞いていると、無性に涙が溢れてくる。目の前にいるのに手が届かないことに、どうしようもないもどかしさを覚えた。


「泣かないでナナちゃん。またお盆にでも遊びに来るから」


「そうそう、冥界ではお盆なんかの時期には現世への渡航許可が出るんだよ。現世の映画を観るために戻ってくる人もいるんだから」


 詩音が言った。


「……わかった、受け入れるよ」


「私も……受け入れよう」


 私と力男の言葉を聞いて、照子は頷いた。


「ありがとう、二人とも……じゃあ、またね」


 照子が詩音と繋いでいた手を放すと、彼女の姿がすーっと薄くなっていった。

 彼女が最後に発した「じゃあ、またね」は、かつて彼女が山から帰る時に言っていたものと、何も変わらなかった。


◆第16節 衣谷臨と新たな日常◆


 早朝のクマゼミの声で目が覚めて、すぐにパジャマを着替える。着替える時は邪魔なので、ソラの魂が入った青色のアンクレットは外しておく。

 このアンクレットは、とても不思議な挙動をする。リング状のどこにも切れ目はないのに、私が外そうと思って引っ張ると足首をすり抜けて外れるのだ。ソラは「実体化した精神エネルギーだから普通の物質とは構造が違う」とか言っていたけど、よくわからない。……まあ、幽霊とか冥界なんかを見た後でそんなのを気にするのも野暮だけど。


 顔を洗って、玄関に向かう。すっかり私の足の形になったスニーカーは、紐を解かなくても履くことができる。この靴は私の体の一部であり、サイズが同じでもほかの人には合わないだろう。

 靴は人の足にピッタリとフィットし、その体温を覚え、体重を支えてくれる。人が身に着けるものの中で最も魂に近い位置にあると思うし、だからこそ私は古くなった靴を捨てるのに強い抵抗がある。こういう感覚がラークさんの言っていた「物に魂が宿る」ってことなのかもしれない。


「いってきまーす」


「おう、いってらっしゃい」


 店の準備をしている父さんから返事が飛んでくる。


 ドアを開けて外に出ると、清々しく晴れ渡ったソラから差す強い光が私を照らした。やっぱり太陽の光を浴びると一日が明るく始まる。闘也からは「お前は光合成でもしてんのか」なんて言われるけど、太陽が嫌いな人間なんてなかなかいないだろう。私は履き慣れたスニーカーで地面を蹴り、近所の公園へと走り出した。


「おはよー、臨」


 既に公園にいた優にぃが声をかけてくる。


「おはよ、優にぃ」


 小学生の頃、私と皆美、闘也の3人は毎日ラジオ体操に来ていた。けど、闘也は小6の辺りから寝坊して欠席することが多くなり、中学に入った頃には来なくなってしまった。皆美も去年からラジオ体操のために早起きすることはなくなり、たまたま早く起きた日に来る程度になった。そういうわけで、今となっては私と優にぃ以外は小学生とその親、お年寄りしかおらず、一番年齢が近いのが優にぃになる。


「今日も2人は欠席か……」


「むしろ、私が毎日来てるって言った方が正しいかも」


「そうだなぁ。朝がつらいってのはよーくわかるけど、夏休みくらい早起きしないともったいないよ」


「私からもそういったんだけどね」


「まあ、臨はきちんと早起きできる子だからいいか。あーあ、俺も小学生に戻って夏休みを味わいてえなぁ……」


「一応、私は高校生なんだけど」


「そうだった」


 こんな感じで、彼との会話は他愛もない。彼もまた、私たちの同類なのだ。


 ラジオ体操が終わって、家に帰る。朝食はいつも通り、カリッと焼いてオレンジマーマレードを塗ったトーストだ。それを食べ終わったら今日の分の宿題をさっさと片付けて、また家を出る。

 ──事件の終息から5日後の今日、夏休みが始まった。私がソラと出会ってから一週間が経過したことになる。


 まずは森の入口の小さな神社に向かう。「木漏れ日神社」という名前らしいけど、この辺りでは単に「神社」と言えば通じる。いつ頃からあるものなのか、どういう神様を祀っているのか、毎日のように目にしている私でもよく知らない。それくらい、この神社は当たり前のようになんとなく存在している。

 中を覗き込むと、そこにはちゃんと魂の鏡があった。どこにやっても戻ってくるなら、現冥境について知っている者たちが管理した方がいいだろうということになり、神器はそれぞれ元の場所に返された。とはいえ、ここを毎日訪れるのは私くらいなので、実質的には一人で神器の2/3を担当しているようなものだ。


 私はいつもの木の上に寝転がって一息つき、ぼんやりと考え事を始めた。

 七星は山に帰ったものの、今後もしばしば降りてくるつもりらしい。かえでが言うには、これから少しずつ人間社会に触れていけばいいだろう、ということだ。天野さんもなんとか立ち直り、彼の日常へと戻っていった。涼風市郷土資料館の職員だという彼は、妖狐や現冥境の存在を踏まえて涼風の歴史をまとめ直すつもりらしい。


 私が気がかりなのは、あの時私たちの前に現れた「レイ」と名乗る人物。本人は人間だと言っていたけど、どう見ても人間の能力じゃない。下駄を履いていたり、扇子で風を起こしたり、トビを使役していたり、どっちかといえば天狗みたいだ。

 レイの目的が何なのかはわからない。現冥境の中に閉じ込められていたソラの魄が目当てだったみたいだけど、本当にそれだけなのだろうか。あの金色のトビがレイの式神だとすると、照子ちゃんを連れてくるよう詩音さんに伝えたのもレイだし、願いの机の時に私たちに助言を与えたのもレイになる。


 私は木から飛び降りて、森の奥へと歩き始めた。ここから森の中を通って北西に少し行くと、この場所で空色の狐が鬼を退治したという伝説が刻まれた石碑がある。この場所も私のお気に入りスポットで、なんとなく懐かしい気持ちになれる。そういえば、小学生の時ここでヒラタクワガタを捕まえて母さんの誕生日プレゼントにしたっけ。


 「茜鬼アカネ」──レイが去り際に私たちに告げた名前であり、かつてソラがこの地で退治したという鬼の名前だ。出会った時には七星の件でそれどころじゃなかったけど、ソラが涼風の伝説にある「空色の狐」ならば、それが退治したという「鬼」の方だって実在したはずだ。この数日間、何度かソラからその話を聞いた。


 遥か昔、この世界には「幽魔」と呼ばれる怪物が存在していた。人間の悪しき心から生まれて人々に危害を加えていたそうで、現在の概念だと「妖怪」が近いらしい。そして、幽魔の中で特に恐れられていたのが、この茜鬼アカネだ。茜色の肌をした少女の姿で、長い黒髪と二本の角、鋭く伸びた牙を持つ。虎柄の衣服を纏い、棘の生えた金棒を武器としていたらしい。それはまさしく、私たちの思い描く「鬼」のイメージそのものだ。


 今から1000年ほど前、私たちが「平安時代」と呼ぶ頃のこと。それまで幽魔から人間を守っていた妖狐ソラが、肉体を捨てて“空狐”となった。強い妖力によって構成された新たな体に生まれ変わり、これまで以上に大きな力を手に入れたのだという。

 おそらく、それを知ったアカネが危機感を覚えたのだろう。アカネは幽魔の軍勢を引き連れて、この森にいたソラに襲いかかったそうだ。しかし、空狐として目覚めたソラは強く、百体もの幽魔を次々と返り討ちにした。そして、最後に残ったアカネと一対一でぶつかり合い、三日三晩の戦いの末に見事アカネを倒したそうだ。それ以来幽魔はぱったりと途絶え、今に至るまで一度も目にしていないという。


 私は自分の日常を脅かされることが何より嫌いだ。もしレイの言う通りアカネが現れて私たちの日常を壊そうというならば、私は全力でそれを排除したい。


≪僕がアカネを倒したのは、ちょうどこの辺りだよ≫


 ソラが私の体で石碑の前から数歩移動して、足元を示した。


≪そんな正確に覚えてるの?≫


≪覚えているというより、跡が残っていたんだ≫


≪跡?≫


≪今はもう感じられないけど、僕とアカネがぶつかり合ったこの場所に、ぼんやりと違和感があったんだよ。僕とアカネの持っていたエネルギーが残留してるって感じ≫


≪ふーん……『残っていた』ってことは、今はもうないの?≫


≪わからない。体を失ってからは認識できなくなったし、かえでたちは元々感じなかったらしいから≫


 きっと壮絶な戦いだったのだろう。300年前まであったということは、今も残っているのかもしれない。私は目を閉じ、ソラとアカネの戦いを思い浮かべてみた。人間の私が、そんな相手と戦えるのだろうか。


≪やるしかないよ。僕の魄はレイが持って行っちゃったんだし≫


 そう、レイはソラの魄を持ち去った。その上で「心の準備をしておけ」と言ったのだ。それはつまり、「心の準備さえしておけばなんとかなる」ということではないだろうか。あるいは、アカネとの戦いの前にソラの魄を返してくれるつもりかもしれない。


≪あんまり期待はできないけどね≫


≪うん、だからこそ特訓することにしたんだ≫


 私はアカネとの戦いに備えてトレーニングを積むことにした。ソラが憑依しているおかげで戦闘技術を高められているけど、それでも私の身体能力の限界は超えられない。だから、少しでも鍛えて強くなっておくべきと考えたのだ。闘也監修の筋トレメニューに加えて、ソラがアカネとの戦いの中で得た経験を基に作り上げた「対アカネ用トレーニングメニュー」……これをアカネと戦うその時まで続ける。


 ──そうして、私の特訓初日が終わった。強い疲労感と、それを上回る爽やかな達成感が全身にみなぎる。


 ズボンのポケットからメール受信音が鳴った。母さんからのメールで、「そろそろお昼にするよ 今日はハンバーグだよ」と書かれていた。


「やった、ハンバーグだ」


≪ハンバーグ好きなの?≫


≪うん、母さんの作るハンバーグは最高だよ≫


≪それは楽しみだ≫


 憑依している間、ソラはあらゆる感覚を私と共有していて、記憶にもアクセスできる。私は自分の生活を覗かれるようなことは大嫌いだけど、なぜかソラに対しては嫌な気はしない。ソラが幼い頃からの私のヒーローだからだろうか。それとも単に慣れてしまったからだろうか。そう思うと、むしろソラの方が大変にさえ思える。自分の力を失って、私の体を借りなければ何もできないのだから。

 レイの持ち去った魄を手に入れれば、ソラは力を取り戻せるはず……ならば、私はソラが自分の体に戻れるその日まで、ソラと共に生きようと思う。これが私にとっての新たな日常だと思えば、大したことじゃないはずだ。

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