第3話「双子の義姉妹」

◆第9節 都さくらと双子の義妹◆


 目を覚ますと、そこには私を覗き込む私の顔があった。一瞬頭の中が真っ白になって、やがて自分の置かれている状況を理解する。ああ、昨日のあれは夢じゃなかったんだ、と。


 昨日の夕方、お母さんと買い物に行った帰り道。私たちが乗った車の前に、一匹の獣が飛び出してきた。お母さんはブレーキを踏んだけど間に合わず、獣は数m先へとはね飛ばされてしまった。私は車を降りて、倒れている獣に駆け寄った。真っ白な毛に包まれたキツネで、その雪のような身体の上に真っ赤な血が滲んでいく。まだ息はあるようで、苦しそうな顔をしながらも起き上がろうとしていた。“今から手当てすれば、まだ助かるかもしれない”──そう思った私は、キツネを抱き上げて車に乗り、家に連れて帰ることにした。お母さんも自分がはねてしまった罪悪感からか、すぐに納得してくれた。


 床に新聞紙を広げて、その上にキツネを横たえる。救急箱から消毒薬と傷薬、包帯を出して、血の滲んでいる辺りを探った。けれど、出血に比べて傷は浅くて、ついさっき負ったはずの傷が既に治りつつあるように見えた。不思議に思っている私の顔を、キツネが見上げた。


≪いやー、最近の車は静かだねぇ≫


 その声は耳からではなく、頭の中に直接入ってきた。直後にキツネがすっと立ち上がり、血の付いた新聞紙の上に座った。


≪助かったよ。あのままあそこにいたら、また轢かれていたかもしれないしね≫


 驚く私の顔を見て、キツネが首を傾げた。


≪あ、この姿じゃ話しづらいかな?ごめんごめん≫


 そう言うと、キツネの額に赤い模様が浮かび上がった。そしてその姿がぐにゃりと歪んで──私の前に、私が座っていた。


「あたしはかえで。人間からは白狐って呼ばれてる」


 呆然とする私をよそに、新聞紙の上に正座した私が言った。姿だけでなく、声まで私とそっくりだ。


「びゃっこ……?」


「白い狐って書いて白狐。要するに妖狐のことだよ」


 妖狐……私の家から見える雲天山うんてんざんには妖狐が棲んでいて、古くから人間と共に生きてきたと聞いたことがある。この子がその妖狐なのだろうか。


「君、名前は?」


「え?あっ……みやこ さくらだけど……」


「さくらね。助けられついでにちょっと頼みがあるんだけど」


 状況は全然飲み込めていないけど、向こうはそんなのお構いなしに話しかけてくる。


「あたしの友達の妖狐が悪さをしようとしているみたいなんだ。それを食い止めるために、手を貸してくれないかな?」


「でも、私……」


 いきなりそんな話をされても、何が何だかわからない。手を貸すと言ったって、ただの小学5年生の女の子でしかない私に何ができるというのだろう。


「武器ならある。えーっと、そうだな……」


 かえでが立ち上がり、私の勉強机の本棚からバインダーファイルとルーズリーフを引っ張り出した。


「ちょっとこの紙借りていい?」


 答えるより先に、かえでがルーズリーフを1枚引き出した。そしてその真ん中に指をあてて目を閉じると、かえでの額にさっきと同じ赤い模様が浮かび上がった。かえでの指先を中心に、紙の上に幾何学的で有機的な模様が広がっていく。


「できたっ」


 かえでは模様が浮かび上がった紙を一番上にして、10枚ほどのルーズリーフと一緒にバインダーに綴じた。


「これはあたしが作った『魔法』。これを使えば、人間にもあたしと同じようなことができるようになる」


「魔法……」


 その単語を聞いて、かつての記憶が蘇る。小1の頃、私は魔法少女になりたかった。アニメに出てくる魔法少女に憧れ、その変身アイテムのおもちゃを買ってもらった。いつか私も魔法少女に変身して戦うんだ、という気持ちでいた。……でも、いつの間にか私は「魔法」というものを忘れ去っていた。もちろん言葉は知っているけど、それを空想上のものとして、自分とは無関係なものと思っていた。それを思い出して、なんだかくすぐったくなる。


 その晩、私はかえでから魔法の使い方を教えてもらった。魔法は「魔法式」という決まったルールに基づいて書かれた言葉を使って発動するもので、かえでが言うにはコンピュータのプログラミングに近いらしい。妖術や魔法は、その性質上“幻術”を扱いやすいそうだ。例えば「炎を出す」という魔法の場合、本物の炎を出現させるより、「光る」「熱い」などの要素を持った“幻の炎”を思い描き、それと同じものを相手にも感じさせた方が効率がいいという。ただ、相手が妖狐である以上、幻術ではすぐに見破られてしまうから、今回は多少負担が重くても本物の炎を出した方がいいだろう、と言われた。


 かえでの友達の妖狐だという七星は、親しかった人間の少女・天野あまの 照子しょうこを亡くし、その子を生き返らせるために「現冥境」というものを復活させようとしているらしい。現冥境は300年前に人間によって作られたもので、それが原因で大勢の人が亡くなったそうだ。

 私は身近な人を亡くしたことがないので、七星の気持ちはわからない。それでも、もしお母さんやお父さん、学校で仲の良い友達が死んだらと考えると、胸の中につんと詰まるものがある。七星は、きっとそんな気持ちで現冥境を求めているのだろう。それを否定しなければならないのは心苦しいけど、もし現冥境が復活すれば私たちが死ぬことになるかもしれない。いずれにしても、七星と会って話さないことにはどうにもならなくて、これはそのための準備なんだ──そう自分に言い聞かせた。


「おはよ、お姉ちゃん!」


 私の顔を覗き込むかえでが、元気よく言う。


「おはよう、かえで」


 ──かえでは、私の“双子の義妹”として振る舞うことになった。一人っ子の私は兄弟姉妹がいる家庭に憧れていたけど、まさかこんな形で叶うとは思っていなかった。両親には「助けてもらった恩返しとして家族になる」と伝えて、魔法や七星については隠すことにした。


「今日は七星を探しに行くの?」


 私はかえでに尋ねた。


「いや、今は何の手掛かりもないから、あいつの動きが見えるまでは準備だけ」


「動きって?」


「あたしたち妖狐が妖術を使うと、あたしたちだけにわかる“気配”がするんだ。昨日の昼にも、麓の森で妖術を使った気配があった。その時は気に留めてなかったけど、あれは七星だったと思う。だから、いつでも出られるように準備しておいて」


「わかった」


 私は、タンスから2人分の服を取り出した。


「ああ、あたしの服はいらないよ。自由な姿になれるからね」


 そう言うと、かえでは私が出した服の色違いを纏う。自分と同じ姿の人間が目の前で動いているだけで変な感じがするのに、その服装がパッと変わるのは本当に不思議な感覚だ。いつでも好きな格好になれるというのは便利そうだな、とも思った。そういえば、昨夜お風呂に入った時にも彼女の着替えはなかったはずだ。


「まずは神社の様子を見に行きたい。本当に七星が現冥境を復活させようとしているなら、魂の鏡がなくなっているはずだから」


 私たちはバスに乗って、森の近くの神社に向かった。徒歩でも行けなくはない距離だけど、暑いからという理由でバスを選んだ。


「……帰ろう、お姉ちゃん」


 かえでは神社の奥の方をちらっと見て、悲しそうにそう言った。


「えっ、もういいの?」


「信じたくなかったけど、やっぱりなくなってる」


 私も神社の中を覗いてみるけど、薄暗くてよく見えない。かえでは狐だから目が良いのかもしれない。


「……そうだな、せっかくだし資料館に寄っていこうか」


「資料館?」


「郷土資料館。あそこに現冥境に関する資料が置いてあるんだ」


 私はかえでに連れられて、涼風市郷土資料館へと足を運んだ。歴史コーナーの一角に妖狐に関する書物が展示されていて、すぐ隣にはその現代語訳がざっくりと書かれている。


「これはあたしの話だな。ちょっと脚色されてる気がするけど。こっちは知らない。作り話か、それともあたしの知らない妖狐の話か……」


「七星の話は?」


「ないと思うよ。あいつはあたしと違って人前に出たがらないから」


「ふーん……」


 かえでによると、妖狐は数が少なく、彼女が知る妖狐は片手で数えられるほどしかいないらしい。その代わり一匹一匹が長く生きるから、歴史のあちこちに顔を出すそうだ。


「で、これが現冥境に関する資料だね……」


 かえでが大きな絵の描かれた本の前で立ち止まる。絵の中心では丸い扉のようなものが開かれていて、そこから黒くもやもやしたものが無数に溢れ出ている。それから逃げ惑う人々と、地面に倒れていく人や動物。文字通り「地獄絵図」といった感じの絵で、説明がなくとも恐ろしいものであるというのが伝わってくる。


「現冥境については記録に残すなって言ったんだけど、誰かが勝手に描いたみたいでさ……」


 苦々しい顔をしたかえでが言う。


「どうしてこんなものが作られたの?」


「それは……」


 かえでが言葉に詰まる。思い出したくない、話したくないといった表情だ。


「……あたしが、人間に妖術を与えたせいだ」


 ガタンという物音がして振り向くと、スーツを着た男の人がこちらに向かって歩いて来ていた。どうやらこの資料館の職員さんらしい。


「お嬢ちゃんたち、お母さんは一緒じゃないの?」


「ああ、いえ。私たちは──」


「夏休みの宿題で、涼風市の歴史について調べているんです」


 私の言葉を遮るように、かえでが言った。もちろん、私たちの目的は夏休みの宿題なんかではないので、これは嘘になる。


「ほう、そうなのか。何か面白いものはあったかい?」


「今はこれを見ていたところです」


「これか……これは今から300年くらい前に書かれたもので──」


 現冥境についての説明を始めた職員さんをよそに、かえでは私に「今の話が聞かれたかと思ったよ」と耳打ちした。


 ──家に帰った私たちは、昨日に引き続いて魔法式を作ることにした。今日は「式神」というタイプの魔法を教えてもらった。普通の魔法と違って、一度呼び出すと魔法式に書いた通りに行動してくれるらしい。私は2回ほど失敗しながら、標的を自動で追いかける式神・縦横無尽ジュウオウムジンを完成させた。4つの光の玉が糸みたいなもので繋がれた見た目をしていて、ぐるぐると回転しながら相手にぶつかっていくという式神だ。


「うん、それがあれば遠くから安全に七星を攻撃できると思う」


「……ねえ、かえで」


「ん?」


「本当によかったの?私に魔法を与えて」


 かえでは黙り込み、私たちの間に少しの沈黙が訪れた。


「……あの時のあたしは浅はかだった。『人間にも妖術が使えたら便利だろう』っていう思いつきで疑似妖術を作って、人間たちに軽々しく渡してしまった。今でも後悔してるよ」


「だったら──」


「でも、あたしは疑似妖術の存在そのものが悪だったとは思わない。これはあくまで道具。どういう結果を招くかは、使い手次第なんだと思ってる」


 かえでは俯いていた顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「さくら、あたしはあんたを信じる。この力、正しく使ってくれるよね?」


「……当たり前でしょ。かわいい妹が託してくれた力だもん」


 私たちはお互いに目を合わせてにっと笑い、拳をぶつけ合わせた。


◆第10節 白狐かえでと過ち◆


 ──あの時の光景は、300年経った今でも鮮明に思い出せる。それは文字通り、「この世の地獄」であった。


 あたしたち妖狐が脳内で組み上げている術式を紙の上で構築することにより、人間にも妖術が扱えるようになる……それがあたしの作った“疑似妖術”だ。その仕組みを完成させたあたしは、さっそく麓の村の人々にそれを与えた。術式のルールが難解であったためほとんどの人間は使いこなせなかったが、一人の賢い男が妖術をマスターした。男は「妖術師」を名乗り、人々の怪我を治したり、不思議な力を持った道具を作ったりして豊かな生活を送っていた。


 ある時、男の妻が病に倒れた。男は必死で治療しようとしたが、原因がわからないために妖術でも手の施しようがなく、そのまま死んだ。男は悲しみに暮れ、家に籠るようになってしまった。あたしは彼に声をかけてやることができず、時間がその傷を癒やすのを待った。


 それからだいぶ経ったある日、おぞましい妖力の気配を感じて山を下りると、そこには凄惨な光景が広がっていた。明らかにこの世のものではない巨大な扉が、大口を開けて浮かんでいる。現世と冥界を繋ぐ門からはおびただしい数の怨霊が流れ出て、現世に“穢れ”を振り撒いた。生きとし生けるものはことごとく魂魄を抉られ、次々と死に絶えていった。人が、犬が、馬が、鳥が……目に映るすべての生き物が一様に倒れ伏し、その命を落としてゆく。

 まさか、死んだ妻を生き返らせるために現世と冥界を繋ぐなんて想像もしていなかった。なまじ人間にとって不可能なことを可能にする力を手にしてしまったため、自分が万能であると錯覚したのだろう。

 あたしは自分の身を守るので精一杯だった。現冥境の力はあまりにも強大で、あたしにどうこうできる領域を超えていた。目の前で倒れていく人や動物を前に、あたしはあまりにも無力だった。


 その時、一筋の光の帯が現冥境に向かっていった。空色の光──空狐ソラだった。ソラは持てる限りの妖力を使って現冥境にぶつかり、再び現世と冥界を切り離した。現冥境は3つに分かれ、生き残った人々の手によってバラバラの場所に封印された。

 現世を守った代償として、ソラは消滅してしまった。あたしや七星が生まれる遥か前から人間と共に生きてきたソラは、あたしの目の前で死んだのだ。


 妖狐は、妖力を使って自身の生命を維持する。普通のキツネにとっての致命傷でも、妖力があれば治癒することができる。とはいえ、妖力は無限ではない。自身の持つ妖力を使い切れば、妖狐といえど息絶えてしまう。

 ソラはあたしや七星と異なり、肉体を持っていなかった。ずっと昔に肉体を捨て、魂魄だけで生き続ける“精神生命体”とでも呼ぶべき存在になっていたからだ。そのため、ソラは死体すら残らなかった。

 あたしは、自分に責任を感じて激しく後悔した。あたしが軽率な考えで人間に妖術を与えなければ、誰も死なずに済んだはずだ。もう二度とこんな悲劇を起こしてはならないと考え、あたしは妖術を封印した。


 ──それから長い時間が流れたある日のこと。あたしは森の近くで一人の少年を見かけた。この街に引っ越してきたのだというその少年の首には、空の玉が掛けられていた。森の前の神社には、魂の鏡が封印されている。あたしには、空の玉を持った人間がこの地を訪れたのが偶然であるとは思えなかった。人間が「運命」と呼ぶ力か何かによって、三種の神器がこの地に集まり、再び現冥境を開こうとしているのではないか、と。


 あたしは再び疑似妖術の開発に着手した。もしまた現冥境が開くことがあった時、それを封じられるのは妖術だけだろう。でも、それが悪用されては同じことの繰り返しになる。だから様々な改良を施した。完成した新たな疑似妖術を、あたしは「魔法」と名付けた。人間の文化の中で語られる「魔法」は、この力の名にふさわしいと考えたからだ。

 無論、それをすぐに人間に与えるわけではない。現冥境復活の危機が迫った時、あたしが信頼できると判断したただ一人の人間に授けると決めた。残念ながら、あたしたち妖狐が疑似妖術を使おうとすると回路が干渉してうまく機能しないため、魔法を使うには人間の力が不可欠なのだ。


 七星は、昔から人間のことが嫌いだった。人間を自分たちより劣る下等生物と考え、めったに山を下りなかった。「七星」と名乗るようになったのも、おそらくは彼女の中にある「自分は崇高な存在である」というプライドからだろう。もっとも、それはあたしが教えた人間の言葉による名前なのだが……。

 しかし、そんな七星にも人間の友達ができた。当時小学生だった天野照子は七星の威嚇にも屈せず、無邪気に懐いた。やがて七星も照子を受け入れ、毎日のように山に来る彼女と遊ぶようになったのだ。


 七星と照子が仲良くなってから数年経った今年の6月、事件は起きた。その日は朝から大雨が降っていたにもかかわらず、照子は灰色のレインコートに身を包み、七星に会うために山を訪れた。照子は七星とあたしの安否を確認した後、家に帰っていった。──帰っていく、はずだった。あたしたちと会った帰り道、雨で脆くなった土が崩れ、照子は山道を転落していった。七星は彼女を助けようとしたが、手遅れだった。

 その日以来、七星の心は深く深く沈み、巣に籠りきりになって、あたしとも口を利かなくなった。


 それから1ヶ月が過ぎた頃、彼女は巣穴から姿を消した。あたしはその行動に既視感があった。


“七星は、現冥境を開こうとしている──”


 もちろん、七星も現冥境の事件は知っている。あれに死者を生き返らせる力なんてないこともわかっているはずだ。おそらく、七星は錯乱したのだろう。自分ならうまくやれるとでも思っているのだろうか。だが、反魂の術など、所詮生き物でしかない我々には到底なしうるものではない。


 あたしは七星を追って山を下りた。その道中で、あろうことか車にはねられてしまったのだ。普段ならよく確認するところだったが、事態が事態なだけに急ぎすぎた。「急いては事を仕損じる」というやつだ。最低限、車のエンジン音には気を配っていたつもりだったのに、都家の車がハイブリッドカーだったのも不運だった。──いや、結果的には幸運と言うべきか。こうしてさくらに出会うことができたのだから。


 さくらは、魔法を与えるのにぴったりの人物だった。“いざという時”に誰も使えなくては困るからと魔法式のルールを簡単にしてはいたけど、それをきちんと覚えてくれる頭の良さと、「絶対に悪用しない」と思える優しさを持った少女だ。

 本当は現冥境を強制解除する魔法式でも作れればいいのだが、現冥境を構成する術式がわからない以上、分解のしようもない。300年前に作られた術式がロストテクノロジーと化している今、七星より先に神器を手に入れるか、七星自身を止めなければならない。そのために、今は少しでも情報が必要なのだ。


 さくらと共に資料館に行った翌日、あたしたちは神器の手がかりを求めて街を歩くことにした。魂の鏡には、映った者の心を見通す力がある。つまり、七星は神器を持っている人間をたやすく見つけられるということだ。何の情報もないあたしたちと比較して、あまりにも有利な状況である。


「ねえ、その空の玉を持っていた男の人の顔とかは覚えてないの?」


「20年くらい前の話だし、ほんのちょっと見ただけだからねぇ。こんなことなら、あの時に力ずくで奪っておけばよかったよ」


「20年前か……年齢はわからない?」


「うーん……10代後半か、20代前半くらいかなぁ」


「ってことは、今は30代から40代くらいってことだよね……」


 さくらはさくらなりに真剣に考えてくれているようだけど、空の玉の持ち主が今もあの少年かどうかはわからない以上、そこに固執しすぎるのもよくないだろう。


 そんなことを考えていたところ、不意にぞわっとした感覚が背筋を撫でた。これは──。


「七星だ!」


「え?」


「お姉ちゃん、こっち!」


 あたしはさくらの手を引っ張り、気配がした方角へと走り出した。


 ──


「……この辺りだ」


 あたしたちは、一軒の小さな家の前に来た。既に七星は去った後のようで、残り香のような気配しかない。だが、奴がここを訪れたのは間違いないし、手がかりくらいはあるはずだ。実際、その家の窓は開け放たれていて、部屋の中で人が倒れているのが見えた。


「行くよ、お姉ちゃん」


「え、勝手に入っていいの……?」


「どうせもう勝手に入られた後だよ」


 あたしは困惑するさくらを尻目に、七星が使ったと思われる窓から室内へと侵入した。入ってすぐのところに割れた卵が飛び散っていて、七星と住人の抵抗の跡が見受けられる。倒れている男は外傷もなく、ただ眠っているだけのようだ。それはつまり、妖術によって気絶させられた可能性が高いということでもある。


「かえで……その人、死んでないよね……?」


 結局入ってきたさくらが、怯えるような目であたしに尋ねる。


「大丈夫、生きてる」


 あたしはそう言って、倒れている男に気つけの術を使った。


「んっ……ぐぅ……」


 男が目を覚まし、むくりと起き上がる。


「えっ……誰、ですか……?」


「あー、怪しい者じゃないよ。ちょっと話を聞きたいことがあってね」


 男によると、この家には時の剣が保管されていたらしい。足元に転がっている空っぽの箱にしまわれていたとのことで、やはり持ち去られた後のようだ。だが、一緒にいたという息子も姿を消していることから、七星を追ったか、あるいは七星から逃げている可能性も考えられる。いずれにせよ、あまり時間に余裕はない。あたしたちは家を出て、七星の足取りを追うことにした。


 ──


「……なんか、変な気配がする」


「え、七星?」


「違う。何かもっとこう……よくわかんないヤツがいる」


 七星が発する妖術の痕跡を見落とさないように意識を集中するが、得体の知れない気配に邪魔される。七星による妨害かとも思ったけど、七星とは全く性質が異なる気配だ。


「とにかく行ってみようよ。何かあるかもしれないし」


「うーん……」


 あんまり気は進まないが、特に手がかりもない以上、行く価値がないとも言えない。あたしはさくらの言葉に従い、その気配がグルグルと回っている方角に向かってみた。


 住宅街を歩くあたしたちの前を、無人の自転車が駆け抜けていった。どうやら、気配の正体はアイツらしい。


「かえで!あれ!」


「あー、七星とは関係ないよ。ただの付喪神だ」


 付喪神──人間の社会では、稀にああいう魂を宿したモノが生まれる。あそこまでアグレッシブなのは珍しいが、七星と無関係なのは明らかだった。


「ねえ、ちょっと見てきてもいい?」


「……まあ、別にいいけどさ」


 正直、この時のあたしは微妙にうんざりしていた。ただでさえ七星や神器の手がかりがなくてイライラしているところを、好奇心で動く子供に振り回されているのだ。とはいえ人間からすれば付喪神は珍しいものだし、仕方のないことだと自分に言い聞かせ、彼女に付き合うことにした。

 どうやら、人間たちはあの自転車の付喪神を捕らえようとしているらしい。まあ、あんなスピードで暴走する自転車なんて危険極まりないものを野放しにしておくわけにもいくまい。昨日は集団昏倒事件とやらで騒ぎになっていたし、人間は人間で大変そうだ。


 ──そんな冷めた気持ちで眺めていた時、無視しがたいものが目に入った。自転車を捕まえようとするグループの中にいる少女。その首に、青い勾玉がぶら下がっているのが見えたのだ。


「……お姉ちゃん、ちょっといいかな」


「え、何?」


「あの女の子が着けてるやつ……多分空の玉だ」


「えっ……?」


 七星を探していたはずが、思わぬ収穫を得られた。魂の鏡は既に奪われ、時の剣も十中八九七星の手に落ちた今、空の玉を持つ人物と接触できるのは大きい。


「よし、さっそく──」


「待って」


 さくらがあたしを引き止める。


「なに?」


「今は忙しそうだし、後にしようよ」


 何を悠長なことを、と思ったけど、一理ある。相手が空の玉の力を知っている人物だった場合、簡単には渡してくれない可能性が高い。これだけ人が集まっている中で騒ぎになるのは面倒だ。あたしたちは一旦その場を離れ、事態が収拾するのを待った。


 ──


「おっ、いたいた」


 暴走していた自転車の付喪神が無事に回収され、集まっていた人々が立ち去り始めた頃、あたしは空の玉を持つ少女に声をかけた。


「ねえ、そこのあんた。その首に提げてる玉、あたしたちに渡してくれない?」


「なっ……」


 少女は驚いた様子で空の玉を握り締め、あたしたちに睨むような視線を送った。この反応……空の玉の“価値”をわかっているな。


「何者だ?お前たち……」


「怪しい者じゃないよ。ただ、ちょっとそれが必要でね……こっちに渡してほしいんだ」


「……悪いけど、渡すわけにはいかないな」


「そう、じゃあ力ずくで貰うしかないね」


「か、かえで……」


鎌鼬カマイタチ!」


 あたしはさくらが制するのを無視して、自分の式神を呼び出した。この鎌鼬は、両腕に備えた鎌で相手を斬りつけて攻撃する……ように見せかける式神だ。実際には幻術の一種であり、用が済んだら解除する。相手が一般人である以上、本当に傷つけるわけにはいかない。適当に怯ませて空の玉を奪うことができれば十分なのだ。


「行け!」


 あたしの合図で、鎌鼬が人間の目には捉えられないスピードで少女に詰め寄り、両腕の鎌を振りかぶる。──が、その攻撃は当たらなかった。少女は鎌鼬の動きを読み切って、その刃をかわしていたのだ。


「えっ……?」


 その声は、あたしと少女の両方の口から飛び出した。


「ちょっと待って!」


 少女が回避行動から姿勢を立て直し、あたしの方を向いて言った。


「お前……かえでか?」


 あたしのことを知っている……?まさか、こいつ……!


「七星……?」


「待って!違う!僕だよ僕!空狐ソラだ!」


「えっ……」


 ソラ、だと……?


「いや、そんなはずはない。だってソラはあの時……!」


「あー……わかった、あっちでゆっくり話そう」


 そう言って、ソラを名乗る少女はあたしたちを近くの喫茶店へと連れて行った。そしてそこには、あろうことか時の剣を持ったままカウンター席で眠っている少年がいるのだった……。


◆第11節 陣内広鷹と襲撃者◆


 今日のこの店は、やけに騒がしい。うちの社長の息子だという子供が入ってきたかと思えば、直後にそこの修理工場の店主に連れて行かれた。その後に全身黒ずくめの変な奴が入ってきたかと思えば、その後に電話を受けて出て行った。それを追って、いつもの3人組が飛び出していったし、入れ替わるように満身創痍といった状態の少年が入店して早々にカウンター席でぶっ倒れた。“目に見えないところで何かが動いている”……俺が“副業”で鍛えた感覚が、そう訴える。


 現在店内にいる客は、俺と常連客の三原、そしてその隣で眠る彼の3人。ついさっきまでの喧騒がウソのように静かだ。──が、それも長くは続かなかった。


 入口の鐘が鳴り響く。今度はどんな奴が入ってくるんだと顔を向けると、とんでもない団体客だった。その数は実に9人。といっても、その過半数は知っている顔だ。闘也、臨、皆美の3人組に、先程の家出少年、それから「ラーク」とか名乗ってた黒服の男。あとの4人の内訳は、どこぞの遺跡探索でもするつもりかと思うような服装の男と、水色のツインテールの女、それから双子の女子小学生。なんというか、非常に“濃い”。


「父さん、このテーブル3つくらい使っていい?」


 入ってきて早々、臨がマスターに言った。


「え、何かあんの?」


「ちょっと……というかかなり込み入った話があって、ここを使いたいんだ」


「んー……この人数だと家に上がってもらうのも大変だしなぁ……わかった、待ってて」


 マスターはそう言うと、机と椅子を寄せて一つにまとめた。どうやらここで何かの会議を始めるらしい。


「俺はここにいてもいいのか?」


 三原が臨に向かって尋ねた。


「あー……」


 臨は頭を掻きながら何かを考えているようだ。おそらくは「どうすれば失礼な言い回しをせずに追い出せるか」を。──と、双子のうちの片方が臨に耳打ちをして、一緒にカウンター席で眠る彼の方を見た。


「わかった、とりあえず今いる人はそのままでいい」


 どうやら、起こして追い出すのが面倒な奴がいたおかげで、俺たち部外者は打ち払われずに済んだらしい。まあ、仮に出て行くことになったとしても、俺は盗聴器を仕掛けて話を聞かせてもらうつもりだったのだが。

 店内が賑やかになったせいか、カウンター席で寝ていた少年が目を覚ました。彼は周囲の様子に困惑していたが、臨から「そこで話を聞いてていい」と言われてそれに従った。彼が寝ているから追い出されなかった、というわけではないのだろうか。


 ──臨……いや、空狐ソラの口から語られる話は、俺の理解を超えていた。これでもそれなりに非日常的なものに触れてきたし、ここ数日この店で見かけた変なもののおかげで耐性はできていたつもりだったが、それらを遥かに上回る「すごい話」が展開された。続いて双子の女子小学生の片割れ・都かえでと、カウンター席の少年・兵藤陽介が順番に自分たちの身に起こったことを話した。いずれも突拍子もない話ではあるが、大まかな内容は繋がっている。それによって、今この街で起こっている“事件”の概要が見えてきた。


 話しているうちに、また一人新たな客が入ってきた。白い長袖シャツと青い膝丈スカートを纏った少女。年齢は中学生くらいだろうか。


「いらっしゃいませー」


 マスターが声をかけるも、少女には聞こえていないように見える。それどころか、意識があるのかどうかもよくわからない、ぼんやりとした感じでふらふらと歩いている。かと思うと、店の真ん中辺りで床に手を触れ、その手を中心に白い円が広がり始めた。


「うわっ、何だコレ!?」


 闘也が叫んで立ち上がった。俺も立ち上がろうとしたが、靴底が床に固定されていて足を引き寄せられない。パキパキと音を立てて、店内の人々の靴や椅子の脚が動かなくなる。これは……床が凍っているのか?

 俺たちが混乱する中、少女は悠々と店内を歩いて、陽介の持つ時の剣を奪い取った。続けて臨の方に向かい、彼女が持つ空の玉のペンダントに手をかける。


「鎌鼬!」


 かえでが叫ぶと、その横に両腕が鎌になった獣が現れた。そして目にもとまらぬスピードで少女に向かっていき、その鎌で斬りつける。鮮血が飛び散り、手にした時の剣を取り落とした。


「お姉ちゃん!」


「ファイア・ボルミード!」


 続けてさくらが叫んで、人の頭ほどの大きさの火の玉が店の床付近を漂い始める。その炎はゆっくりと氷を解かし、俺たちの足を解放した。


「うげっ」


 闘也が濡れた床で滑り、転んだ勢いで少女にぶつかって、そのまま少女も引き倒された。


「その子の頭に付いてる葉っぱを外して!」


「葉っぱ?……これか!」


 見ると、少女の後頭部には青々とした葉っぱが張り付いていた。かえでの指示で闘也がそれを引き剥がすと、少女は糸が切れた操り人形のようにぱたりと倒れた。


「この女の子は?」


 三原が尋ねる。


「七星に操られてたみたい」


「いや、そうじゃなくて、この能力は何なの?」


「それは……あたしにもよくわかんない」


 どうやら、この少女が持っている氷の力については詳細不明らしい。やれやれ、この期に及んでまだ謎があるとは……。


「……あれ。そういや、その子の傷は?」


 俺は疑問に思ったことを尋ねてみた。


「ああ、あれなら幻術だから心配いらない」


「幻術?」


「相手の脳を騙すことで、存在しない物を見せたり、存在しない痛みを与えたりする術だよ。さっきは『鎌で斬りつけられた』っていう風に思い込ませることでこの子を怯ませたの」


 なるほど、出血しているように見えていただけで、実際には幻だったというのか。とはいえ、「脳を騙すことで存在しない感覚を与える」というのは実に科学的な力だ。妖狐だとか幻術だとか言われてファンタジーの世界に連れてこられたかと思っていたが、案外科学の延長上にある概念らしい。


「それで、この子どうするの?」


 皆美が倒れた少女の首に手を当てて脈を測りながら言った。


「そもそも誰なんだろうね、この子」


「七星が近くで見ているかもと思ったけど、この辺にはいないみたいだ」


「目を覚ましてから本人に聞くしかないか……」


 さて、今日の俺はスーツを着ているが、実際のところ会社は休みだ。ではなぜこんなことをしているかといえば、“副業”──怪人シカマスクとしての情報集めのためである。

 涼風市の平和を守るヒーロー・怪人シカマスク。その正体が俺であるということは、一部の協力者を除いて知らない。俺は表向きには「涼風ヒネモスの社員」として振る舞い、その裏でシカマスクとして活動しているのだ。

 だが、今日は思った以上の出来事が俺の目の前に舞い込んできた。シカマスクになって半年……ひょっとして俺はこの日のためにヒーローになったのではないか、と思うほどに。


「ん、んん……」


「あ、起きた」


 どうやら襲撃者の少女が目覚めたらしい。


「……ここは?」


「喫茶こもれびですよ」


「喫茶、こもれび……?」


 反応を見るに、やはり先程の出来事は記憶にないようだ。


「君、名前は?」


「……船見ふなみ 愛子あいこです」


「船見さん、何があったか覚えている範囲で教えてくれる?」


「それは……」


「覚えていない?」


「……私、記憶喪失なんです」


「え?」


 ──結局、彼女から有力な情報を得ることはできなかった。「知らない」「覚えていない」の一点張りで、七星に関することは何も話してくれない。裏を返せば、彼女は「触れられたくない何かを隠している」ということでもある。……いや、俺としては名前さえわかれば十分だ。

 俺はポケットからスマホを取りだし、“バナナ屋”のアプリを開いてメッセージを打ち込んだ。


≪フナミアイコという人物について調べてほしい。中学生くらいの少女だ≫


≪了解≫


 バナナ屋は、俺の協力者の一人だ。このように情報を売ってもらうことで、俺はヒーローとして活動できている。彼女が名乗ったのは、今のように警戒される前……偽名である可能性は低いだろうという読みだ。


 バナナ屋からの返信はすぐに届いた。だが、その内容は目を疑うものだった。


≪船見愛子、享年14歳。『なぎマーレ号沈没事故』の際に亡くなってる≫


 ──なんだと?

 なぎマーレ号沈没事故……昨年12月、涼風湾を航行中だった旅客船「なぎマーレ号」が突如爆発、沈没した事故だ。前後にあった出来事から、これは「連続爆破事件」の一角であったと考えられている。その被害者がなぜ……。


「では、私はそろそろ失礼します……」


 船見愛子と名乗る少女が、店を出て行こうとする。俺は慌てて胸ポケットに差したペンのキャップを外し、気づかれないよう彼女のスカートのポケットに放り込んだ。このキャップには発信機が付いている。これで足取りを追うことができる、というわけだ。俺はそのまま何事もなかったかのように彼女を見送った。


「マスター、俺そろそろ帰るわ」


「おう、なんか騒がしくてすまなかったね」


「いやいや、面白いものを見られたよ」


 俺はそう言って店を出ると、さっそく発信機にアクセスした。まだそう遠くへは行っていないな……適度な距離を保ちつつ追跡するとしよう。


◆第12節 岡崎皆美と追跡◆


 船見愛子と名乗る謎の少女と陣さんに続き、都姉妹の2人、優にぃ、スティールイールの3人が帰り、店内には私、臨、闘也、春海、兵藤さん、臨のお父さん、バイトの樹さんの計7人が残った。さっきまでいた人数の半数以上が帰ったことで、やけに静かになったような気がする。


「……で、どうするの?」


「どうするったって……」


 闘也が頭を掻く。


「ねえ、さっきの陣さん見た?」


 臨が言った。


「陣さん?何かあったっけ?」


「船見さんのポケットに何か投げ込んでたんだよ」


「えっ?」


 それは見ていなかった。


「……ちょっと陣さんを追いかけてみようか」


「うーん……あんまり気は進まないけど……」


「行こう。何か掴めるかもしれない」


 闘也が嬉しそうに言う。


「……わかったよ」


 私は渋々承諾した。実際、あの少女が七星について何かを知っていそうなのは確かだ。


「あー、ちょっと待って」


 臨のお父さんが私たちに声をかける。


「樹君も連れて行ってあげてくれないかな」


「えっ!?」


 連れて行けと言われた本人が驚きの声をあげる。


「樹君、さっきから話に入りたそうにしてたからさ」


「でも店長、僕まだバイトが……」


「いいよいいよ、どうせこの後ヒマだろうし。ちゃんと最後まで働いてたことにするから行ってきな」


 そんなわけで、私、臨、闘也、春海、兵藤さん、樹さんの6人で店を出た。普段は3人で行動しているから、その倍。まるで修学旅行の班行動みたいだ。私たちは連絡先を交換し、手分けして陣さんを探すことにした。


 ──陣さんは、スマホを見ながら歩いていた。私は5人に連絡を入れ、彼の後をつけた。陣さんは六軒坂ろっけんざかを上ると、その一番上にある木造の屋敷の前で立ち止まった。


「あ、いたいた」


 臨と闘也、続いて樹さんが合流した。あとの2人は連絡がない。


「陣さんは?」


「あそこ」


 私は屋敷の近くをうろうろする陣さんを指差した。あそこが船見さんの家なのだろうか。それにしては廃屋っぽいというか、人が住んでいる気配がない。


「あ、あれ」


 見ると、坂の向こう側から都姉妹と兵藤さんが歩いてきている。かと思うと、かえでが陣さんに声をかけて話し始めた。


「よし、行こう」


「行くの?」


「もう隠れる意味もなさそうだし」


 そう言って、臨が陣さんに向かって歩き始める。


「あれ、お前らも来てんの!?」


 陣さんが驚いた様子でこちらを見た。


「陣さんこそ、何してるんですか」


「いや、俺は、その……」


 陣さんが目を泳がせながら後ずさる。


 ──その時、屋敷から大きな物音がした。何か重い物が叩きつけられたような音だ。私たちが何事かと驚いていると、玄関から船見さんが飛び出してきた。


「た、助けてください!」


 船見さんは逃げるようにこちらに向かってきた……が、黒い霧のようなものが彼女にまとわりつき、ぱたりと倒れる。そしてその後ろから、灰色のレインコートに身を包んだ少女が姿を現した。


「えっ……」


 かえでがその姿を見て固まった。


「七星!」


 臨が叫ぶ。七星もこちらに気づいたようで、身を低くして警戒し始めた。


「七星!あたしだ!かえでだよ!」


 七星が反応を見せた。


「かえで……なぜ私の邪魔をする……」


 低く唸るような声でそう口にする。


「そりゃあ……あんたが現冥境を復活させようとするから……」


「何……?」


 そう言った直後、臨が持つ空の玉と兵藤さんが持つ時の剣に目をやり、再び戦闘態勢に入った。


「貴様ら……その神器を渡せ……」


 その姿が陽炎のように揺らいだかと思うと、次の瞬間、七星の姿が増えていた。その数は8人……こちらの人数と同じだ。


「くっ、囮神オトリガミか!」


 かえでが言った。どうやらこれは七星の式神らしい。8人の七星はそれぞれ別の動きをし、私たちに襲いかかってくる。腕を掴まれた私は振り解こうとして、違和感に気づいた。──こいつには“当たり判定”がない。向こうから一方的に掴まれていて、こちらから触れることはできないのだ。


「くそっ、放せ!」


 兵藤さんが抵抗するが、その手から時の剣が奪われる。


「しまった!」


 七星に蹴りかかった臨が捕まって、空の玉のペンダントが引きちぎられる。これで神器すべてが七星の手に渡ってしまった。この場にいる全員が七星の分身に捕らえられ、身動きが取れない。


「召喚、縦横無尽!」


 さくらちゃんがそう叫ぶと、光の玉が繋がったような見た目の式神が現れた。式神はくるくると回転しながら樹さんの横を掠めて何もない空間に激突し、そこから9人目の七星が姿を現した。どうやらあれが本体らしい。


「グッ……」


 七星は後ろに下がり、さらに式神を呼び出した。紫色をした、巨大な二本の腕。それがさくらちゃんの式神を掴んで、ぐしゃりと握り潰す。


「なぜだかえで……なぜまた疑似妖術こんなものを……!」


「だから、あんたのせいだってば」


「違う……私は……!」


 七星が姿勢を低くし、今度は直径20cmほどの黒い球体状の式神を呼び出した。


「鎌鼬!」


「ファイア・ボルミード!」


 ──しかし、かえでの式神も、さくらちゃんの魔法も出ない。


「まさか、その式神……!」


「この惑神マドイガミは妖術を封じる……かえで、貴様への対策だ……」


 万事休す、か……。

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