白銀の矢

日車文

白銀の矢

 その少女の口づけは、甘酸っぱい血の味がした。

 まるで奈落へと誘う、死神のような。


***


 鬱蒼と生い茂る木々。適度に差し込む木漏れ日が苔の絨毯に縞模様を作り、時折見える茶色の地面や太い木の根っこが緑の世界に安心感を与え、色とりどりの花や鳥は森に色彩のアクセントを添えてくれる。空気はどこまでも澄み渡り、感覚が麻痺するような静寂に包まれれば隠された森の神秘に触れた気になる、そんな森だ。深く息を吸い込めば肺の奥まで苔蒸した緑の香りが染み込んでくる森の奥に、絶好の狩り場がある。

 右を見ても左を見ても前も後ろも木々に視界を邪魔される他の場所とは違う、少し開けた場所。なぜかそこだけは木が生えず、深い森の奥だというのに暖かい陽光が差し込み光の柱を作る。そこでは周りの大樹に成長を阻害されることなくすくすくと育った柔らかな下草が多く生えていて、よく草食動物の類がここへ食事をしにくるのだ。それは鹿であったり兎であったりと様々で、大きさも種族も関係なくこの場所にはいつも必ず何か動物がいる。この場所には何かしら生き物を引き寄せる力でもあるのかもしれない、と彼は考えていた。

 場違いな黒い髪をなびかせて、この広場の端にある蔦のカーテンに身を潜める狩人。彼もまた、ここに引き寄せられてきた者だった。

 この森には狼がいる。山にも繋がるこの広い森のどこに住んでいるのかは知らないが、いるのだ。彼らは徒党を組んで行動し、獲物を捕らえる。その獲物は森の動物、村の家畜、飢えたときには同じ仲間と種類は問わない。相当数いるのかこの森の生態系では彼らが頂点に立っているも同然で、この豊かな森にいる動物だけでは飽き足りず森の近くにある狩人の村や山向こうの村の家畜もたまに被害にあっている。彼らが森の動物を狩っているおかげでこの森の動物たちは警戒心がそれなりに強く、弓の名手と名高い彼でさえ容易に獲物を仕留めることはできない。それは仕留めた動物を生活の糧にする狩人達としては致命的なことであった。

 ある日、そんな彼がようやく仕留めた獲物の兎を手土産に村へ帰ろうとしたときのことである。何度も人が通って踏み慣らされた道を歩く狩人の横を黒い影が掠める。それはほんの一瞬の出来事だったが、狩人はふと手が軽くなったのを感じて慌てて振り返った。黒い毛の狼が狩人の数日ぶりの獲物を口に咥えて走っていく。軽快な動きで森の奥へと駆けていく狼。苦労して手に入れた獲物を横取りされては堪らないと彼も駆けだした。

 獲物を咥えて駆ける狼。それを追いかける狩人。恥も外聞も殴り捨て滅多に出さない大声で怒鳴り威嚇して追いかける。威嚇に怯むことなく誘うように奥深くまで狼は駆けていく。だが所詮二足歩行の人間と走ることに特化した狼とでは速さも体力も違いすぎた。ぜいぜいと息が荒くなり目に見えて速度が落ちていく男を尻目に、どんどん姿が遠くなっていく狼はやがて木々の向こうへと消え去ってしまった。久しぶりの収入をぶんどられた狩人は悪態をついた後、はっと我に返り自分の置かれた状況に気づく。

 薄暗い森。

 無表情な木々たち。

 痛いほどの静寂。

 鳥の声すらしない。狼を追いかけることに夢中になっていた彼は、いつの間にか今まで入ったことのない森の奥深くまで分け入っていたのだ。

 振り返ってもそこに道はなく、あるのは無造作に草が傾いだ獣道のみ。

 ――迷った。

 そう理解するのにたいして時間はかからなかった。

 森は広い。しかも、基本的に狼の根城であるこの森にすすんで入ろうとする村人はそう多くない。動物を狩ることを生業とする狩人か、薪を調達する木こりくらいだろう。だがそれでも森の奥深くには入らないこと、そういう暗黙の了解があった。迷ったら帰れない、森の奥は神の聖域だ、という考えがあったからだろう。

 このまま帰れないのでは? 自分はここで朽ち果てるのでは?

 暗い考えが頭を掠める。それでも何もしないよりましだとしばらく歩いていると――急に開けた場所に出た。

 そこは光が射し込む広場のようでもあり、多くの動物がいた。鹿や、鳥や、兎が。薄暗い森の奥にしては信じられないような明るさだ。その明るさに魅入られたように彼は呆然と立ち尽くし動物たちが戯れる様を見ていた。そして、何かに操られるように無意識で矢筒から取り出した矢をつがえ、弓を引いた。

 あの日の狼は未だに印象に残っている。何かに引き寄せられるようにこの場所にたどりついて以来、狩人は毎日獲物に困らなくなったのだ。この場所は自分以外知らない、秘密の狩り場だ。ここへ来る道も、ここから帰る道も、自分しか知らない。そう思うと密かな優越感がこみ上げてくる。

 今日の獲物は鹿。牝鹿だろう、角は短く、なかなか良い肉付きの鹿である。しとめた後は村の肉屋に売れば良い値段になる、そう判断して、狩人は音を立てずに立ち上がった。蔦のカーテンは所々開いた隙間から向こうの姿がよく見える。無防備に草を食む鹿に向かって、矢をつがえる。全神経を集中させて狙いを定め、流れるように優雅な動作で弓を引き絞る。矢の白い羽が頬に触れる。キリ、と弓が微かに軋む。

 一瞬の、緊張感。

 指を離せば、矢は寸分違わず的の首に吸い込まれた。急所を貫かれ身体をびく、と痙攣させた牝鹿はその体勢のまま鈍い音を立てて横に倒れ伏した。即死だ。

 一仕事を終えた狩人は深く息を吐いて弓を下ろし、鹿の元へ歩み寄る。息絶えた直後のその身体は、しなやかな筋肉をまだはっきりと見ることができた。持ち帰るのはなかなか骨が折れそうだが、それに見合っただけの報酬は出るだろう。

 満足げにため息をついた男は、牝鹿を抱え上げようと手を伸ばしたところで異変に気づいた。それの姿を認めると、それまで満足そうだった男の眉が困ったように下がる。あぁ、やってしまった、と彼は頭を抱えた。

 牝鹿の身体の陰で弱々しくもがく小さな生命。仔鹿は母親の重い死体に足を挟まれ動けずにいる。

 この牝鹿は母親だったのだ。おそらくちょうど身体の影になって狩人からは見えなかったのだろう、子連れだった鹿を仕留めてしまったという失態に彼は大きくため息をついた。

 人間でもそうであるように、子供は親がいなければ生きてはいけない。ましてや自然にそのまま生きる他の動物など特に顕著で、子供の鹿などこの森に放っておけばすぐに狼に食われてしまうのがいいオチだ。だから狩人はせめてもの良心として、自分がどれほど飢えようとも子連れの獲物は狙わないようにしていた。無論他の狩人の中には子連れだろうと容赦なく狙う者はたくさんいるし、仔鹿の肉は美味しいと評判だからむしろ子連れを優先して狙う狩人もいる。だが彼は自分の中の美学として、まだこれから未来ある子供を狩る、という行為だけは許せないのだった。

 さて、どうしたものか。

 自分の中でそうやって美学を並べ立てたところでやってしまったことは仕方がない。この仔鹿をどうすべきか。

 逃がすのも一つの手だ。だが、この小さな命がこの深い森の中で生き延びていけるだろうか。そもそも母親の巨体に潰された足が折れていないとは限らない。もし足が折れているなら、仔鹿が生き延びるのは絶望的と言っていいだろう。逃げられない草食動物などすぐに補食されてしまう。

 狩人の中で様々な考えが逡巡した。その結果出た結論というのは至極簡単なもので、それがただの人間のエゴであることは分かっていても仕方のないことだ、と割り切った。

 彼はおもむろに仔鹿の側に跪くと腰から狩猟用のナイフを抜いた。長年使い慣れてしっくり手に馴染んだそれは木漏れ日を反射してぎらりと凶悪に輝く。

 どうせ助からないのなら、いっそ――。

 動かないように首根っこを強く押さえると苦しいのか仔鹿が哀れっぽく小さく鳴く。その声が命乞いをしているようにも聞こえて、男は罪悪感に目を瞑った。押さえつけた手のひらから伝わる仔鹿の体温と、必死にうねる筋肉。生きている、と切に感じる瞬間。

 迷って手を止める前に、ナイフを高く振り上げる。


 がさり、と、目の前の茂みが大きく揺れる。


 男はその茂みの奥に金色に揺らめく瞳を見た。

 それに一瞬気を取られ、ナイフを振り下ろしかけた手が止まった刹那。

 茂みから何かが弾丸のような速さで飛び出して男に襲いかかった。

「――っ!?」

 小柄ながらも勢いのあるそれは信じられないほどの衝撃をもって狩人を張り倒す。優に一メートルは吹っ飛んだであろう狩人の手からナイフが飛び、手の届かないところに軽い音を立てて転がった。

 くらくらする頭を押さえてなんとか身体を起こすと、自分と鹿を隔てるように、焦げ茶色の物体がこちらを警戒するように吠える。めまいの酷い揺れる視界でどうにか焦点を合わせると、それは人の姿をしていた。

 ぼさぼさに絡まり薄汚れた長い茶色の髪、狼のような鋭い琥珀色の瞳。特徴的な面立ち。白い肌。無駄な脂肪など付いていない細くしなやかな身体。女性的な成長という観点では一切乏しいといえるその身体でも彼女が女だと分かったのはなぜだったのか、今ではもう分からない。

 薄汚れた黒い布切れを纏って、四足歩行の彼女はこちらを鋭く睨みつけている。両手両足全身を強張らせ、歯をむき出し、唸り、狩人を威嚇する。滑稽な姿だと嗤う気力を奪うほどに、彼女の威圧感は凄まじい。黒いぼろ布を全身に纏うその姿は、冷たく美しい死神のようで。

 それが狼に育てられた少女と狩人との、最初の出会いだった。


***


 あの日、仔鹿を助けるように突如現れた狼少女は狩人を威嚇するように唸り、混乱する彼を後目に仔鹿へ歩み寄った。助けを乞う鳴き声をあげる仔鹿を見て彼女は躊躇なく親鹿の死体を蹴り飛ばし、仔鹿を解放したのだ。足が自由になった仔鹿は彼女に感謝するように身体を擦り寄せるとひょこひょこと危なっかしい足取りで森の闇へと消えていく。

 その後ろ姿を見送ってから少女はこちらへ向き直った。改めて彼女をよく見ると、十代後半だろうか、鋭い顔つきではあるもののどことなく可愛らしさのあるような顔だ、と狩人は感じた。爪も歯も尖り、人間というよりは狼に近いような野性を感じもしたが、彼女は紛れもない人間の姿をしていた。ぎらぎらと激しい色を湛える瞳は人間への絶対的な不信感をこちらに伝えてくる。

「……君、名前は?」

 あの時話しかけてみようと思い至ったのはなぜだろう。狩人の問いは理解できたのか、少女は無愛想に首を振る。

「名前がないのかい?」

 今度は頷く。人間らしく多少の知能はあるようだ。狩人は続ける。

「どこに住んでいるんだ? 君は村の子かい?」

 少女はしばらく無言だった。質問が難しすぎたのか、と狩人は再び口を開こうとしたとき、少女が口を開けた。

 狩人に見せつけるように光に当てられた口の中には、ぽっかりと空洞。そこにはあるはずのものがなかった。

 付け根から綺麗さっぱり抜き取られたように、何もない。

 舌が、ない。

 彼女は話すことができないのだ、と理解した狩人は言葉を失った。

 そんな彼の様子につまらなそうに鼻を鳴らし、不遜な態度で少女は背を向けた。そのまま駆け出した少女の背中に向かって男は思わず声をかける。

「ま、待ってくれっ!」

 男の声に少女はため息をついて一瞬だけ立ち止まり、後ろをちらりと見てからまた駆け出す。その背中をどうにか追いかけようと暗い獣道を狩人が走る。慣らされていない獣道には木の根が張り、ぬかるんでいる場所もある。ただでさえ足場の悪いようなところを、少女は平然と走り抜けていく。狩人など気にもかけないかのように一度も後ろを振り返らずぐんぐんスピードを上げる少女は人間とはいえ四足歩行に慣れているのか、とてつもなく速い。

 徐々に離れていく背中を揺れる視界で追いかけながら思った。

 ――いつぞやの黒い狼を追いかけているみたいだ、と。

 だが今度はあの時と違って見失うわけにはいかない。見失ってはいけないと本能が叫んでいた。

 息を切らしながらどうにか見失わずに走ってどのくらいが経ったろうか。さすがに疲れて足がもつれ始めた頃、急に少女が立ち止まった。不審に思ってよろよろと荒く息をしながら近づく。彼女が見据える先からは強烈な獣の匂いがして、狩人は思わず鼻を塞いだ。濃い獣の匂いに顔をしかめつつもそこをよく見れば、それは狼のねぐらのようだった。何匹か他の狼がごろりと横になり、惰眠を貪っている。

 狩人がどうするべきか迷っている間に横にいた少女は狼の群れに飛び込んだ。危ない、と彼が声を発するより先に少女は群れの真ん中で眠っていた雌の狼をどつく。狼は睡眠を邪魔されて不快そうに唸り声をあげたが、少女はお構いなしに彼女に身体を擦り寄せ側に転がる。

 その姿は狼とじゃれあっているようにも見えて、あぁ、この名も知らぬ彼女は完全に獣の側なのだと、呆然と彼らを見つめる狩人は思った。


 その後の記憶は多少……いや、かなり曖昧だ。

 狼と戯れる少女。お転婆な娘を受け入れる母親のような態度で少女を受け入れる雌の狼。

 彼女が狼と共に暮らしている人間なのだということを知った後、自分はどうやって村まで戻ったのか、あの広場で仕留めた鹿はどうしたのか、よく覚えていない。

 だがどうにか村まで戻れたということ、そして匂いでも覚えられたのか、あれ以来森に入って狩りをしている最中に狼の少女と出くわすことが多くなったことはなんとか記憶している。

 彼女がどんな人間だったのか、いつから狼と暮らしているのか、興味がないわけではなかったが、肝心の少女にそれをしゃべる口はない。ただ好奇心だけが膨らむまま、いつしか少女と仲良くなっていったように思う。

 彼女は同年代の子供よりは遙かに低いものの一応知能はあるようで、簡単な質問なら答えてくれた。そうやってどうにか意志疎通をはかっていくうちに人間嫌いな彼女も慣れてきたのか、狩人の側にいる時間が徐々に増えてきた。

 ある時はほの暗い森で、ある時は清流のせせらぎが聞こえる草原で、狩りの合間に彼女とぼんやり森で過ごす日々。言葉を使わない少女との時間は煩雑な会話に費やすこともなく静かに緩やかに時が流れていくのを眺めているだけだったが、彼にはそれがひどく心地よく感じた。ひなたぼっこをしたりぼんやり雲を眺めたり、昼寝をすることもある。狩人の仕事というのは適当に獲物を仕留めては肉屋に売るか自分の腹の足しにする程度で良いので時間はいくらでもあった。

 年寄りの隠遁生活のようだ、と笑われそうだが、以前この付近で戦争があった折、兵士として前線で戦うという忙しい日々を送っていた狩人にとってこの日々こそが至高。望んだ生活だった。

 そして飛び飛びに鮮明に思い出される記憶は、ある日の行水のときのことを思い出す――。


 ひどく暑い日だった。日光を遮られるため外よりは遙かに涼しい森の中でもその暑さはぬるりと忍び寄ってくる。

 その日はどうも運がなかったようで、日が陰ってくる夕方まで森の中をさまよっても見かけるのは狼ばかり。獲物となりそうな動物を見かけることがなく無情に一日が過ぎようとしていた。タイミングが悪かったのかいつもの広場に行っても動物がいない。暑い森の中、全身が汗でびっしょり濡れるまで獲物を探した狩人はがっくりと肩を落とした。別に一日獲物が獲れなくとも生活に支障はないが、一日が徒労に終わる感覚というのはやはり虚しいものだ。苔が生えるほど湿度の高い森の中は蒸し暑く、一歩足を進める度に汗が頬から滴り落ちる。

 やっていられない、と狩人はため息をついた。思えば久しぶりに一日獲物を見つけられなかった気がする。昔は頻繁にあったことだというのに、最近はあの広場のおかげで獲物に困るということがあまりなかった。一日獲物が見つからなかっただけでため息をつくとは、自分も贅沢になったものだと思わず苦笑いが零れる。人間は一つ得るとさらに一つ、もう一つ、とより上の欲求を満たそうとするから強欲でいけない。

 このまま鬱々とした気分で自宅に戻りたくはなかった。気分転換に帰り道にある湖で行水でもしてから帰ろうと思い至り、湖へ足を運ぶ。

 森の中には大小いくつかの湖があり、そのどれもが底が見えるほど澄んで綺麗な湖だ。大きさによっては池に近いものもあるが、そういった小さいところでも水は澱むことなく流れ、恵みの水を求めて多くの動物が訪れる。小さな虫や鳥、魚など、湖の側もありとあらゆる動物が生き生きと輝いて生息している。村に幾分近いところにある湖の水は村の生活用水にもなっていて、狩人の暮らす村にもかかせないものだ。

 立ち寄った湖は村が使っているものより少し森の奥に入ったところで、狩人や木こりといった人間か森の動物しか使わない湖。大きさは中程度、といったところか。ある程度までは底が浅いのだが、途中で一気に深くなるため気をつけないと溺れてしまいそうになる。

 淵に荷物を下ろした狩人は湖の水を手で少し掬い、口に含む。この暑さの中でもきんと冷たい水は火照った身体を鎮めてくれる。どこまでも清らかで純粋な味は素直に美味しいと言えるものだった。

 水を補給して満足した狩人は手早く服を脱ぎ、水にゆっくり入っていく。心地よく冷えた水が身体を包み、なぜか安心したような気になって安堵のため息が出た。頭上の木々から落ちてきた葉や枝が沈んで朽ちた底はふかふかと柔らかく、歩く度に足が少し沈みこむ。鋭いものを踏まないよう注意しながら水が腰のあたりにくるまで奥に進み、ある程度進んだところで止まって水を掬って上半身にもかける。冷たい水がかかった身体は急速に冷え、湖の周りの空気も他の場所より冷たいせいかぶるりと身体が震えた。爽やかな風が通り抜け、水に濡れた身体を撫でる。

 ふと自分の身体に目を向けた。年相応の筋肉がついて日焼けした肌に幾重にもある白く引き攣れたような痕。腕や腹、背中にもあるその傷は戦に参加していたときについたものだ。弓が得意だから後衛に配置されるとばかり思っていた彼は、なぜか弓ではなく剣を持たされ前線に送り込まれた。その時の戦では前線の兵士が不足していたらしい。近所の村との小競り合いというレベルではない大きな戦いの中で、必死に生きるために剣を振るった。噎せ返るほど濃い血の匂いは今でも鼻の奥に残っている。

 戦争が終わった後、そういったことに疲れた狩人は住み慣れた村からも距離を置き、森の近くに居を構えた。戦争以前に住んでいた家よりは遙かに小さくこぢんまりとした住居だが、一人住まいにはこの手狭さがちょうど良い。

 争いごとはもうたくさんだった。村からも距離を置きたがったのは、村の中でも頻繁に起きる小競り合いのような小さな争いにさえ辟易したからだ。戦士だった日々の記憶は迷惑なことに鮮明に残っている。だがその一方で、何か他人の映像でも見ているかのような非現実感もあった。その記憶の中に映っているのは、戦っているのは自分なのに、それでもその日々のことは雲を掴むような実感のなさが常に伴っている。身体に残っている古傷がときどき痛むと、その時ばかりは実感が手元に戻ってくる。そんな日々が続いていた。

 腕についたそこだけ白い傷を指でなぞっていると、吠え声が聞こえた。犬が飼い主の注意を引くときに使うような鳴き声にも似たそれに顔を上げる。そこには例の狼少女の姿。過去の追想に耽っていた男は彼女にうっすら微笑みかけた。一人でいるとつい過去に浸ってしまいがちだが、彼女が側にいると無言でも不思議と過去を思い出すことがない。

 少女は物珍しげに狩人をじっと見つめる。こちらを穴が開くほど見つめ続ける彼女の姿に疑問符が飛ぶ。何かそれほど珍しいことでもしただろうか。

「何かついてる?」

 ありきたりに問えば、彼女は首を振った。

 彼女は何をしに来たのだろう。森の出口に近いこのあたりまで少女が来ることはあまりなかったはずだ。極度の人間嫌いな彼女は他の人間の匂いを感知するといつも途中で去ってしまうくらいなのだから。

 もしかして、水を飲みに来たのだろうか。

 ならば自分は水場を荒らしてしまったことになる。慌てて湖から上がろうとする狩人に対して、それまで動きを見せなかった少女は布切れを纏ったままいきなりざぶざぶと水に入ってきた。

 驚く狩人をよそに少女は無言でこちらへと向かってくる。彼女が動く度水が波紋を作る。すーっと滑るように狩人のすぐ側まで来た少女は再びじぃっと彼を見つめる。

 少女は年の割に小さいようだった。狩人の腰まできている水は少女の胸のあたりまで濡らしている。幼い頃から四足歩行に慣れているなら背は伸びないかもしれないな、などとどうでもいいことを考えた狩人に向かって少女は手を伸ばし、狩人の腹や胸をぺたぺた触る。

「……うん?」

 水に濡れた冷たい手が撫でるでもなく、ただ自分の身体に触っては離れ、離れては触る。その行為の意味が分からず困惑する。小さな手が自分の腹を触る感覚がこそばゆくて思わず腹に力を入れると、掌の下で筋肉が動くのを感じた少女は驚いたようにびくっと大袈裟に身体を震わせた。反射的に離れた手がおずおずとまた伸ばされ、今度は腹をつんつんとつつく。

 特に害はなさそうなので一応彼女の好きなようにさせておく。自分の腹をいじり倒すことに夢中になっている少女の顔を困惑しながらも覗き見ると、いかにも興味津々といった感じの表情をしていた。

「……初めて見た?」

 彼がそう問うと、その声に顔を上げた少女は大きく頷いた。好奇心を隠さず彼女は再び人の腹をいじる。つついたり軽くひっかいてみたり、そろそろくすぐったいので止めて欲しいのだが彼女のどこか楽しそうな顔を見ると言う気にならなかった。

 ずっと狼と暮らしてきた少女。彼女にとって、自分以外の人間の肉体は初めて見る未知の存在だったのだろう。ましてや男の肉体、少女は女である自分の身体は見たことはあっても男は初めてだったに違いない。もしかしたらそもそも男という存在を間近で見たのすら初めてかもしれない。服を着た村の人間たちくらいなら見たことがあるかもしれないが、今回は狩人が行水のために服を脱いでいたからだろう、物珍しく見えたようだ。知能と違って知的好奇心は人並み程度にある少女は疑問に思ったことはなんでも解き明かそうとする。

 冷たい手がぺたぺた触る。くすぐったいようなその動作が可愛らしく思えて、狩人は目を細めた。そんな様子を知ってか知らずか、しばらく狩人の身体を物珍しげにつつきまわしていた少女は新たな発見をしたようだった。腹についた痛々しい傷痕を、少女の細い指がなぞる。

「……ん、」

 傷痕になっている部分は他の場所より少し感覚が鈍い。他の部分とは違うその感覚に小さく反応すると、少女は傷痕をしつこくなぞってきた。時折爪も立てられる。少女の表情が、徐々に変わっていく。

 好奇心から、困惑に。

 傷を執拗になぞりながら、少女の顔は露骨に曇っていく。胸や背中にも似たような傷があることに気づいて、さらに少女は顔を曇らせた。きゅっと下がった眉を見て、あれ、と思い始めた狩人に構わず、少女は傷を触る。

 白く引き攣れた傷痕は怪我が治癒したもの。森で暮らし、狼と生活をともにする彼女であってもそれ自体を知らないということはないはずだ。それなのにこの違和感は一体、何なのだろう。

 彼女の指先に力が入る。鋭く尖った爪先が、薄皮を破る。血が滲みだした傷を見つめる彼女の顔には困惑の表情が浮かんでいた。

 ――違う違う違う違う、この傷もこの傷もこの傷も全部。こんな傷知らない、自分は知らない。

 そう言いたげな、どこか悲しそうな表情をして、彼女は傷を見つめる。

 彼女には理解できなかった。自分の知らない場面、少女と出会うより以前、過去の狩人が存在するという事実が。本能に生き、動物を狩ることしか知らない彼女には理解できなかったのだ。いや、もしかすると理解したくなかっただけなのかもしれない。

 彼女に言葉を発する口があったらどんなによかったろう。拙くとも、意思を伝える手段があれば。表情だけでは分からないことが多すぎた。狩人の過去を示す傷痕に執拗に執着する理由も、時折見せる人間らしい一面も、言葉を持たない少女は何一つ教えてくれはしない。

 ――ねぇ、君は今、何を考えているんだい?

 そう尋ねたところで、返ってくる答えはないのだ。

 少女は傷から手を離し、ぐっと伸び上がって肩口の傷に噛みついた。戦で一番最後に負った傷だ。利き手の肩をやられて戦線離脱せざるを得なくなったことより、弓が引けなくなるかもしれないことにどうしようもない恐怖を感じたことを覚えている。

 一切の容赦などなく、獲物の喉笛を噛みちぎるように強く強く噛みつく。痛みに顔をしかめて苦しそうに呻く狩人の声を聞いてか、少女は満足したように喉を鳴らした。少女を引き剥がそうと狩人が少女の身体を引っ張るが、彼女は応じなかった。尖った歯が柔らかい肉に食い込む。いとも簡単に破れた皮膚はじわり、と血を映す。その血を彼女のざらりとした舌が舐めとっていく。執拗に、傷を上書きするかのように。

 喰われる。

 本気でそう思った。彼女は獣なのだと、人間ではないのだと、思った。

 少女が口を離す。深く噛みつかれたそこは血が滲み、未だに痛みを訴えてくる。

 口端に狩人の血を付けたまま、少女は笑った。

 いっそその傷全て、自分がつけたかった。

 そう、言いたそうな瞳で。


***


 森が枯れ始めた。

 そんな噂を聞くようになったのはいつからだったろう。少女と出会って既に二年が経とうとしていた。

 彼女と出会った頃の森は豊かで、獲物もたくさんいた。木々は茂り、その枝にはいつも動物がいた。水は清らかで、空気は澄んでいた。

 最近は少し獲物の量が減ったように思う。あの広場でも動物を見かけない日が増えてきたような気もする。だが森によく出入りする狩人でも感じるのはその程度で、別段水が澱んだとか、空気が汚れた、と感じることはなかった。特に森を侵すようなことは誰もしていないのだから、ただ単に食物連鎖のピラミッドが崩れているだけなのだろう。

 むしろ最近気になることは狼の被害。少女と出会ってから森の狼の実態について知る機会が増えたわけだが、この二年間で狼の数がかなり増えている。それに対してその餌となる動物の量は減っている。飢えた狼が出てくるのは自然なことだった。

 飢えた狼は村の家畜を襲う。家畜が被害にあった村の家は少なくない。けれど、不思議なことに人間で襲われた者は誰一人としてなかった。

 狼の群れはあの少女が仕切っている。彼女が狼ではないことに彼らも気づいているのだろう、曲がりなりにも人間の脳を持つ彼女の方が賢いのは必然で、生き延びるために彼らは彼女を長に立てたのだ。そして彼女は飢えた仲間をどうするか、自分なりに考えたらしい。家畜を襲うのは仕方がない。けれど人間は絶対に襲うな。少女がそう命令でもしたのだろう。

 それでも家畜がこうも被害にあっては生計が成り立たない者も出てくる。森に詳しいからということで、狩人は山を越えた向こうにある村へと出向き、こちらの村へ援助をもらえないかということを頼んでくるよう言われてしまった。

 慣れた森を進み、山を越える。途中であの少女と会い、山を越えるところまで一緒に来てもらった。だが、山の頂を越え、反対側の村が見えてきたところで少女の足取りが急に遅くなった。狩人は不審に思ったが、少女が行きたくないのなら、と途中で別れることにする。

 別れる際、ふと気になったので質問してみた。

「森が枯れ始めた、って最近聞くんだけど、君はどう思う?」

 少女はただ首を傾げるのみだった。


 あちらの村の村長との交渉はなかなかうまくいったと記憶している。家畜はこの村も被害を受けているようだが、山を越えたこの村は畜産より農業に重点を置いている。なので余った麦などの農作物があればこちらの村に渡してくれるという話になった。

 そして彼も言っていた。

 森が枯れ始めた、と。

「また生贄を用意しなくちゃならんのかねぇ」

 年老いた村長が言った言葉。生贄。ふと、少女の姿が脳裏をよぎった。

「村長さん」

 外れて欲しい。嫌な予感がした。

「この村で、何年か前に生贄を捧げたことはありますか」

「ふむ……十数年くらい前になら……確かあったぞ。女の子だったはずじゃ。君はあの時の飢饉を知らんのかね?」

 外れて欲しい。そう思ったのに。


 少女は、あの村の生贄として捧げられた赤子だった。十数年前の大飢饉、それから国中を襲った流行りの疫病。山への供物が選ばれるのは必然だった。

 普段は人ではなく動物を捧げる供物だが、その時は村にいる家畜動物全てが息絶えていた。森は枯れ、飢えた狼の群れが人を襲う。そんな時分に生まれた女の赤子。狼に似た琥珀色の目をした彼女は、選ばれてしまった。

 泣き叫ぶ赤子に母親の情が移る前に。山の神のものになるという分かりやすい印を付ける。涙を流す母親から赤子を取り上げ、舌を根本から引っこ抜く。そして黒い布に包み、山を登ったところにある祭壇に供える。

 森は息を吹き返し、狼は森へ戻り、疫病は去った。赤子の犠牲で村は救われたのだ。全てが元通りになった世界は何事もなかったかのように廻っていく。あの赤子を置き去りにして。

 少女の人間嫌いの態度、山を越えたがらない理由。全てが繋がった。

 村長に聞いたが、赤子の名前は分からなかった。もしかすると名前がつくより前に生贄にされたのかもしれない。

 赤子は死ぬはずだった。だが、森の狼がその捨てられた赤子を拾った。彼女は人間に憎しみを抱きながらも育っていく。誰にも知られずに。

 赤子の母親はその生贄の儀式の直後に遠く離れたところへ引っ越していったらしい。

 その村の帰り道で少女に会うことはなかった。


 そして、大きく成長した彼女は、牙を剥く。

 森が枯れた。あれほど美しかった木々は立ち枯れ、乾いた葉を大地に落とす。森に分け入っても一切動物の影も形も見えない。空気も澱んでいる。少女と出会った広場は更地になり、行水をした湖は干上がってしまった。今ではその思い出の欠片さえも思い出せないほど様変わりした森を眺めて、狩人はため息をつく。

 村の家畜はほとんど全てが狼の餌食になった。農作物は種を蒔いても芽が出ない。飢饉が村を襲い、飢え、苛立った人々は些細なことでも争いを始める。

 十数年前と同じだ。

 それでも人間が狼の被害にあうことはなかった。人間が飢えているなら、住処が廃れた狼はもっと飢えているはずだ。村の人々は不思議がったが、狩人には分かっていた。

 山向こうの村に出向いてから、もうしばらく少女と会っていない。だがこうやって狼の統制がとれているということは、彼女は生きているのだろう。

 それだけでも嬉しかった。

 生きていてくれるなら、それで。

 狩人も仕事がない。獲物がいないと狩人は仕事にならないのだ。彼も飢えていたが、それでも弓矢の手入れと鍛錬は怠らなかった。

 そして、その日は訪れた。

 不思議なほど静かな夜だった。星が輝き、月は冷たく枯れた大地を照らす。何の物音もしない、静寂。

 夜もだいぶ更けた頃だったが狩人は眠る気にならず、愛用の弓を撫でながら窓から月明かりを見つめていた。空腹から腹が鳴るが、残念なことにそれを満たすものはない。明かりの火を灯す薪ですら無いのだから。

 遠吠えが聞こえた。飢えた狼の遠吠え。それは何度も響きわたる。

「!」

 少女の声が聞こえた。他の狼の声より少し高い、女の吠え声。号令が、響きわたる。

 その声に何か尋常ならざるものを感じて狩人は弓矢を持って急いで外へ出た。そして――。

 枯れた森から這い出てくる、黒い塊。闇夜に光る、何対もの金色の瞳。獰猛に吠える彼らの瞳は、ぎらぎらと飢えで凶悪に光っていた。

 狩人が村人に危険を知らせる間もないまま、飢えに耐えかねた狼の群れは村を襲う。村へ走りこんだ狼達が窓を破り、飢えを満たすためにその鋭い牙を剥く。

 複数の家から悲鳴と断末魔の絶叫が響く。その声に驚いて飛び起きた他の家の村人が扉を開ける。狼が飛びかかる。あっという間に村は地獄絵図と化した。

 悲鳴。断末魔。逃げ惑う人々。血の匂い。死臭。道端に転がる、無惨に食い荒らされた人間だったもの。

 それはかつて経験した戦場のそれに似ていた。

 逃げる人々を狼が追い回す。人間より遙かに速い彼らの足はすぐに人間を捕らえ、喉笛に噛みついた。血が噴き出す。死に際の痙攣をする身体はそれでも助けを求めて手を伸ばす。その手を狼が食いちぎる。

 夜で明かりもない闇の中、為すすべもなく狼の餌となる人間。夜目の利かない人間にそもそも勝ち目などなかった。

 呆然と立ち尽くす狩人に向かって、血に飢えた狼が襲いかかる。反射的に素早く矢をつがえ弓を引き絞り、狼に向けて矢を放つ。しばらく弓をまともに使っていなかったが、腕は落ちていないようだ。見事に急所を射られた狼はその場に倒れ伏した。その死体を他の仲間が食い荒らす。

 目も当てられない惨状だった。それでも狩人は走った。狼が群れで襲ってきたということは、命令を下した長である少女もここに来ているはずだ。途中、道を塞ぐ狼は弓で射って殺した。そのうち矢がなくなりそうになると、最後の一本だけ残して使いきり、あとは狩猟ナイフで狼を殺していった。何度も噛みつかれ、引っかかれ、新たに傷が増えていく。足元に転がる死体に蹴躓いて転んだが、それでも走り続けた。服はぼろぼろになり、返り血と自分の血に塗れた身体はひどく重い。それでも走らなければならなかった。

 そうしてどこまで走っただろうか。村の中を走り回り、いつの間にか村の外れの自宅の近くまで戻っていた。長時間痛む体をおして走り続けたせいで息は切れ、酸素が足りずに視界はぐらりと歪む。

 少女は狩人を待っていたかのように、ただ静かに佇んでいた。暗くて分かりづらいが、再び会った彼女の姿はひどく痩せ細り、口元は血に塗れていた。

 それほど離れていないはずの村の騒ぎはどこか遠く感じた。狼の吠え声も、人々の悲鳴も、全てが遠いところで起こっていることのような気がする。

 少女が吠える。その声は朗々と響きわたり、びりびりと肌が震えた。威嚇されているのだと分かる。凶暴に歯を剥き出し、ぎろりと睨みつけてくる。四つ足で今にも飛びかかろうと構える少女。獣によく似たその姿は、最初の出会いのときの彼女を彷彿とさせた。

 ふと、今まで彼女と過ごした日々の思い出が蘇ってくる。

 彼女に人間の言葉を教えようとしたこともあった。簡単な母音から発音させようと何度か試してみたが、いかんせん舌を持たない彼女は音を明確に区別して発音することができない。結局は諦めざるを得なかった。

 彼女には、人間として生活して欲しかった。人間として生き、生活し、自分の側にいて欲しい。そう思っていた。これは完全に自分のエゴでしかないが、それでも少女が人間に戻ってくれるなら、人間側にいてくれるなら、と何度思ったことだろう。おそらく自分は最初から分かっていたのかもしれない。いつか必ず、こうなるということを。

 少女と協力して狩りをしたこともあった。獲物を正確に仕留める正確さを持つ自分と獲物を逃がさぬ俊敏さを持つ彼女のコンビはなかなか相性が良く、狙った獲物を逃がしたことはなかったはずだ。必死で素早く逃げ回る獲物を追い回す少女が弓を構える自分の前に獲物を誘導する。そして後ろから激しく吠え立て獰猛に威嚇する狼と前から急所に弓を構える狩人に挟み撃ちにされた獲物は逃げることなど許されず、どちらの手にかかるか選択を迫られることとなる。色々な種類の獲物を相手にしたが、彼らはきまっていつも狩人に飛びかかってきた。少女に恐れをなしたのだろう、死ぬと分かっているのに、引き寄せられるように狩人の弓へと突進してくるのだ。

 獲物を狩るときの少女はまるで死神だった。端から見ている狩人が怖い、と感じるほどに少女の覇気は圧倒的なもので、相手が思わず動けなくなる程度には絶対的な恐怖というものを引き起こすような存在だった。そして獣故の凶暴さで獲物を食らい尽くす。

 怖い。

 純粋にそう思った。

 人間らしい一面を見せる彼女だが、やはり獣なのだと、そう感じた。住む世界が違うのだと。

 行水をしたあの日のこと、一緒にぼんやり雲を眺めて過ごした昼下がり、水を掛け合って遊んだ夏の午後、他の狼に襲われそうになった自分を間一髪助けてくれた秋の日の夕暮れ。いくつもの彼女との記憶が、水面を流れるように頭の中で現れては過ぎていく。

 戯れに二人で蝶を追いかけて草原を走り回った日もあった。眠そうに欠伸をする彼女が自分の膝を枕に安心したような寝顔を見せて昼寝をした日もあった。この数年間、自分の過ごしてきた日々のどこかに必ず、彼女の存在があった。

 ――だがそれらの日々も全て、最初から喪失を約束された出会いだったのだろうか。

 目の前で自分に対して威嚇を続ける彼女。普段獲物を仕留めるときならばもうとっくに飛びかかっているはずの彼女が珍しく長々と威嚇を続けている。激情に揺れる彼女の琥珀の瞳に、一瞬だけ哀願の色が映る。

 彼女が言わんとしていることは声に出さずとも手に取るようによく分かった。

 ――嗚呼でも、それでも僕は。

 僕は、君から逃げることなど、できないよ。

 最後の一本だけ残しておいた矢を矢筒から手にとり、静かに矢をつがえる。銀色に輝くその矢は月明かりを反射してよく見えた。

 少女の顔がほんの一瞬だけ、泣きそうに歪む。初めて見る彼女の表情に、なぜか笑みが零れた。それと同時に喉の奥がぐっと熱くなるのを感じる。

 人間として共に暮らせたらと、思ったときもあった。それが無理ならせめてこの幸せな日々がずっと続いて欲しい。そう思った時期もあった。

 けれど。

「そうか……やはり君は、こっち側には、いられないんだね」

 そう言った自分の声は情けないほど震えていた。

 少女が飛びかかる。

 弓を引き絞る。

 弓がしなる。

 獣のごとく喉笛を噛みちぎろうと躍り上がった身体を、その心臓を、いつものように寸分違わず矢が貫く。

 森で獲物を仕留めるときと、まったく変わらない感覚だった。

 その場に崩れ落ちた彼女は、最期の力を振り絞って狩人に手を伸ばす。ひどく満ち足りた表情をして微笑んだ少女の手は、狩人に届くことなく地に落ちた。

 手を伸ばしてもまだ足りぬとでも言うかのように、手を伸ばしたまま事切れた少女の側に跪いた狩人はその身体をそっと抱きしめる。彼女を貫いた矢からぬるりと垂れた血が狩人の服を汚す。

 自分は今、どんな顔をしているだろう。

 眠ったような少女の顔を覗きこんでいると、少女の白い頬にぼたり、と透明な滴が落ちた。そのままぼたぼたと、滴は止まることなく冷たい少女の頬を濡らす。血と混ざりあった滴は綺麗なマーブル模様を描いていた。

 ひくり、と自分の喉が動く。喉の奥が熱い。

 狼達の遠吠えが聞こえる。それは歓喜の調べにも、悲しみの嘆きにも聞こえた。

「さよなら、……」

 名前を呼ぼうとしたが、彼女の名前を自分は知らない。

 ふと視線を上げると、夜が明けていくのが見えた。赤く燃え上がる太陽は枯れて枝ばかりになった森の木々を照らし、惨状の村を照らし、食い漁る狼を照らし、少女を抱きしめる狩人を照らした。そして場違いなほど暖かい光は、永遠に夜に置き去りにされた生贄の少女を照らす。

 目映いその光に狩人は目が眩み、思わず手で自分の瞳を覆う。

 暁光の中、少女の胸に突き刺さった矢が光を反射して明るく煌めいていた。


***


 あれから何年経ったろう。あの頃の記憶は今でも鮮明に思い出せる。長い年月の中で風化も色褪せもせず、切り取ったようにそこにある記憶。今でもそっと思い出す、懐かしい風景。

 若かりしその時代の思い出を頭の中で再生する度、置き去りにされたのは少女ではなく自分なのではないか、と錯覚してしまう。今ではあの時の飢饉、狼の惨事を実際に体験した者はほとんど残っていない。そもそもあの狼の群れに襲われた際、生き残った村人がごく少数だったこともあるだろうが、それでも年月が経ちすぎた。

 数十年。

 数十年、経ったのだ。あの日少女をこの手にかけてから、それだけの年月が経った。あの頃若く男盛りであった身体も今は衰え背も曲がり、歩くのがやっとだ。髪は総じて白く色が変わり、肌は丸めた紙のようにかさかさで皺だらけ。弓の名手として名高かったその腕もとうに鈍り、今ではもう弓を引くことすらできない。時とは残酷なもので、若い頃とは別人になってしまった自分があの狩人だと証明できるものはほとんどない。最近は身体の古傷が時折痛むのみだ。

 記憶の中の少女は一切老いることもなく、自分に向かって微笑んでいる。それに微笑み返すのは若い自分。それをただ眺めるだけの年老いた自分は一人置き去りにされたような気分だった。

 本当に置き去りにされたのは、彼女の方だというのに。

 共に老いることも共に死ぬこともできず、あの日の夜に自分の手によって死んだ彼女。それに対しての罪の意識はありながらも何一つ贖罪できず今までのうのうと生きてきてしまった自分。

 本当に置き去りにされたのは、どちらだというのか。


 森は再び蘇った。以前ほどではないが村も活気を取り戻した。狼も相変わらず森で生態系の頂点に君臨している。若い頃と変わらない日々が戻ってきても、それは砂を噛むような日々でしかなかった。少女のいない森は色を失ったように見え、彼女のいない狩りはひどくつまらない。自分の中での彼女の存在の大きさに喪ってから気づくとは情けないものだ。

 あのとき、自分が逃げ出していれば結末は変わっただろうか。彼女とまた、笑いあえただろうか。

 結局彼は所帯を持つこともなく、生涯独り身で過ごした。これといって所帯を持たない理由はなかったのだが、誰かを愛し、共に暮らすということに何とはなしにしこりを感じたのだ。寂しくないといえば嘘になるが、村の子供たちが昔の話を聞きに来るなど毎日訪問者がいるのであまり問題を感じなかった。

 今でもふと思い出す、少女の面影。当時彼女に抱いていた感情は何だったのだろう。まだ青二才だった自分はその感情自体を自覚すらしていなかったように思う。

 きっとそれは、愛にも恋にも満たない、ひどく曖昧なもの。

 淡い恋をする、という段階に達することさえできなかったような、そんなもやもやした感情を持て余していた。彼女への様々な想いや憐れみ、愛情を全てごた混ぜにしたその感情を当時の自分は理解することすらできなかったのだ。その時の自分が感じていたことはただ一つ、彼女の側にいると安らぐということだけ。

 きっと自分は癒しを彼女に求めたのかもしれない。戦争の傷がまだ癒えていなかったのだろう。

 無駄に言葉を垂れ流すおしゃべりな人間に辟易していた。

 愛憎を抱える村の人間に迷惑していた。

 もう争い事はたくさんだった。

 だから、森で一人で過ごす方が安心した。

 完全に子供の理論だったような気もする。だがそれがあの頃の全てだった。


 自分がもう長くないことは分かっていた。長年自分の身体と向き合っていると自然と分かるものだ。穏やかに老衰で逝けるなら何の文句もない。

 ふと右肩の古傷が痛んで、夢の世界に沈んでいた意識がゆるやかに浮上する。昔の夢を見ていた気がした。それは過ぎ去りし幸せな日々の夢で、もう少し夢に浸っていたかった彼は微睡みに任せて目を瞑ったままにする。

 ぺたぺたと、足音を感じた。小さなその音は聞き取るというより感じ取るという方が正しく、気になった彼はそっと目を開けた。

 そこには、懐かしい姿。

 ぼさぼさの茶色の髪、琥珀色の瞳、細い身体。申し訳程度に纏った黒い布切れ。

 あのときから老いも若返りもせず、息絶えた瞬間と全く同じ背格好の少女。枕元に佇む彼女を捉えた彼の表情が安堵したように崩れる。

「……来ると思ってたよ」

 あの頃より幾分しわがれた声。

 心のどこかで、いつか来ると思っていた。彼女は必ず自分の側に来てくれる、馬鹿馬鹿しいことに、この数十年の間ずっと、そんな確信があった。

 少女はそんな彼に微笑みかけ、口を開けてみせた。根本から抜かれたはずの彼女の舌が、そこには確かにあった。真っ赤な舌が、誘うように見え隠れする。

「迎えに来たよ」

 少女の言葉は澄んだ水のようにすんなりと狩人に染み込んでいく。柔らかな鈴の音のような美しい声をもった彼女は婉然と笑う。

 君は死神かい? そう問おうとしたが、声が出なかった。

 無言でぼろぼろと涙を流す老人の皺だらけの手に少女が触れる。少女の手は行水のときのように冷たく、その冷えた手を握り返すと彼女は急かすように手を引っ張った。

 仕方ないなと苦笑しながら痛む身体を起こし、彼女に引っ張られるままに立ち上がる。いつの間にか老人の身体は若返っていた。少女と過ごした日々の、懐かしい過去の記憶そのままの姿だ。

 笑いかける狩人の様子に満足したのか少女も微笑み返し、ぐっと伸び上がって口づけをしてきた。

 甘くて少しほろ苦い、懐かしい血の味がした。

 彼女は、幸せそうに笑う。


(あぁやっと、私のもの)


***


 その少女の口づけは、ほろ苦い血の味がした。

 まるで楽園へと導く、天使のような。


 朝日が昇る。

 夜明けの光が射し込む窓辺のベッドに横たわる一人の老人。彼の身体は冷たくなっていた。

 苦しむことなく息を引き取った彼は穏やかに微笑んでいる。

 彼の寝室の床に転がる、一本の矢。

 少女を貫いたそれと同じその白銀の矢は、暁の光を受けて鈍く輝いていた。



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白銀の矢 日車文 @ikansoku

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