第29話 彼の愛称は

 国立国民議会図書館ポンパドーラから出て、いつもと違う路線の路面電車トラムに乗り込む。降りた停留所は、大きな病院の前にある。近くの花屋でガーベラの花束を一つ作ってもらい、病院のエントランスを通る。


 あらかじめ伝えられていた番号の病室に直接向かう。ノックをして開ければ、広々とした個室にベッドが一つ。目当ての人物は見舞いの品らしき大量の花に埋もれている。花の王子様も真っ青だ。


「待ちくたびれたよ。明日にはもう退院なんだ」


 腕や肩に包帯を巻いた議員が、怪我をしていない方の左腕をひらひらと上げる。


「それを見計らってきたんですよ。入院直後は人が大勢来るでしょうし。でもお元気そうで安心しました」

「そうだね。なんとか五体満足でここから出られるよ。むしろここからが正念場かな。出たらマスメディアが私のコメントを聞きたくて待っているだろうから」


 お見舞いの花束を手渡すと、彼はありがとう、と朗らかに笑った。彼は近くの空の花瓶を引き寄せると、私の買ってきたガーベラを、まるで特等席のように枕元の近くに置いた。

 その間、沈黙が続いた。話していればどうしたって、あの事件のことになってしまうからだ。私は彼に対して引け目のようなものを感じている。

 しかし、彼は花瓶のガーベラを微笑みながら見つめてからこう口火を切った。


「これって、惚れてもおかしくないと思わない?」

「誰が誰にですか?」

「君が、私に。形だけで言えば、私が君を助ける感じになっているからね。今ならデートに誘えば乗ってくれるかな?」


 彼がおどけたように言えば、私にも笑みが零れる。


「そんな簡単にはいきませんよ。若い女性がみんな助けてくれた消防官や警察官を好きになると思ったら大間違いです」

「女性の心を掴むのは難しいね」


 甘いマスクで女性ファンを大勢抱える若手政治家がそんなことを言っては他の人も立つ瀬がないだろうに。


「君はいつも通りでいなよ。その方が安心だ。それに聞きたいだろう、あの事件の裏事情をね」

「実を言えば、お尋ねしたい気持ちもありましたが……今はもう大丈夫ですか?」

「いいよ。君にはそれが許されている」


 彼は私にベッドの側の丸椅子に座るように促した。着席したところで彼がこう語りかける。


「前提として、私は彼女と法的な婚姻関係を結んだことはないんだ」

「……知りませんでした」


 思いもよらない告白に目を丸くする。

 あえて喧伝することでもなかったからね、と彼は言う。


「彼女が周囲にそう振る舞っていただけだ。私が肯定も否定もしなかったから、そういうふうにみんなには思われていたけれど。住む家だって別だし、交際の事実さえない。ただね、彼女の父親には以前から色々とお世話になっていたから、それなりに面倒をみていた。それだけ恩の深い相手だったから。彼女の方はそう思っていなかったようだけれど。裏側では目に余るようなひどいこともしていたのは薄々気がついていた」

「気づいていらっしゃったんですね」

「そうだよ。でも彼女は常に私の言葉を都合よく解釈してきた。遠回しの拒絶も、私の遠慮や好意の裏返しという具合にね。段々とそれが増えてきた」


 二年半、彼は忍耐を強いられてきたという。彼女の父の体面を守るために。彼女の父は党の重職や大臣職を歴任した政治家だったから。

 何かの機会に議員を見初めたらしい彼女は父親に頼んで議員のオフィスに秘書として雇われることになった。

 

「彼女との結婚を勧められていた。今の時代、そんなものはナンセンスだから断ったけれど、彼女と家族がしつこいように勧めてきたよ。『形だけでも構わないから』とね。そんな状況が、君に出会う前から続いていたんだよ」

「二年半もですか? ですが、議員にとっても相手の性格はともかく、色々と前向きに考えてもいい条件がそろっていたのでは? それこそ、形式上だけでいいのなら、紙一枚で済むことかもしれませんし」

「本当にそれだけ済むのかな。彼女は紙一枚以上のことを望んでいるのに。それにね、彼女は結婚しなければ自殺すると脅迫めいたことをするようになっていたよ。そんな彼女を理解しなければならないのかな?」


 彼ははっとなるほど強い眼差しを私に向ける。柔和な面差しに、これほどまでの意思の固さを感じたのは初めてのことだ。


「形だけであっても縛られるのはごめんだ。後でその形式的なものに苦しめられるに決まっている。好きな相手でない限り、そんなことはしないよ」

「そうですか。私は勝手に、議員はもっと合理的な決断をしているものと思っていました」

「ある意味で合理的じゃないかな。人生のパートナーを選択するならば、気の合う相手、好ましい相手の方がずっと楽しい。人生だって充実するだろうし、仕事のパフォーマンスだって上がるだろうね。どうだい? 案外、私も家庭的な男なんだよ」


 議員はおどけたようにウインクを放つ。自ら「家庭的な男」を標ぼうする割には、サービス精神旺盛だ。


「家庭的かはわかりませんが、事情はわかりました」


 元々が賢明な人であったから、彼は上手く立ち回っているのだろう。それでも二年半も拒んできたのなら、かなりの胆力を使っていたのではないだろうか。彼の顔も以前と比べると心なしか、和らいだように思える。


「その割には気分が晴れないようだね?」

「少し、引っかかっていたんです。さきほど議員は彼女が裏側でやっていたことを知っていたのに、彼女が言うことを聞かなかったとおっしゃいましたよね?」

「ああ」

「私の前の担当者は何度も替わっています。それ以外にも、おそらく議員の周囲にいる人々はかなりの被害を被っていたはずです。しかし、本当に嫌だったなら、議員は二年半もかけずに処理できたのでは?」


 彼はすぐに答えず、枕元の花瓶から赤いガーベラを抜き取る。


「私をそこまで評価してくれているんだね。ありがとう。正直を言えばね、私の中で彼女のことは優先順位が低かった。そうとしか言えない。それに、私自身もね、客観的に見れば、女性に好まれる容姿や地位を持っていることもわかっているんだよ。そういったものを目当てに集まってくる女性は昔からかなり多かった。彼女は良い牽制になったよ。本当の意味で仕事熱心ならば、彼女の発言や行動には反発して当然だが、仕事だけはまっとうしようとする。リディ、君のようにね」


 彼女をいいように利用し、周囲の人間をふるいにかけた。彼はそう自白したのだ。

 彼に潜んでいた狡猾さに身震いした。


「私は君を誰よりも高く評価している。君は優先順位が高いんだよ」

「それは光栄です」

「……軽蔑したかな?」

「どちらもどちらではありませんか? 私には議員を責める資格はありません。あなたは政治家です。私があなたならきっと同じ選択をしたかもしれない」

「でも哀しそうな顔をしているね」


 彼は自身こそが辛そうな表情で、先ほどのガーベラの茎を折り、その花を私の髪に挿した。

 きれいだと目を細めて小さく呟いた彼は、外の景色に顔を向けた。築百年以上の建物が立ち並んだ通りはきっとずいぶんと昔からの姿を留めている。

 外はすでに黄昏に差し掛かっていた。オレンジの光がベッドのシーツを染め上げる。


「初めはそうでなかったんだよ。彼女……エリスは、ごく普通の育ちのいいお嬢さんだった。礼儀正しく、純粋そうで。私には、なぜ彼女がああなってしまったのかがよくわからない。彼女はこれから殺人未遂で裁判を経て、刑に服することになるだろう。刑期を終えたところで、彼女の将来は明るいものではない。それはほんの少し、気の毒には思っている」


 やはりマクレガン議員はずるい人だ。他人を意識的に利用するが、憎み切れない。彼の言葉には力があった。肝心な時には、嘘を言っているようには聞こえない能力。人を説得するのにこれほど力強い味方はないだろう。


「君には何ら落ち度もない。責任はすべて私にある。だから笑っていなよ。今日呼んだのはそれを言いたかっただけなんだ。また一緒に仕事をしてくれないか、今まで通りに」


 彼が差し出した手を、握り返す。

 議員の手は分厚くて柔らかだ。そういう手を持つ人は政治家向きだと本で読んだ。

 称賛されるよりも批判されることの多い仕事だ。ふつうの民間企業で働いた方が高収入を得られることもある。そんな時代に政治家を志したこの人は、私が思うよりも覚悟を決めているのかもしれない。このスキャンダルを経てもなお、彼は議員を続けるのだろう。


「わかりました。よろしくお願いします」

「よかった。こちらこそよろしく」


 落ち着いたところでふと、彼は話を切り替えるようにこんなことを言った。


「ところで、ずっと思っていたんだが、君になら愛称で呼ばれたいな。『セディ』ってね」

「なぜですか」

「知り合ってそこそこ経つし、だいぶ打ち解けてきたような気がするからね。どう?」


 マクレガン議員。本名はセドリック・マクレガン。愛称は「セディ」。

 彼は私の知るセディとよく似ている。言動や容姿も。

 しかし、だからこそ私はいつも警戒していた。彼との適切な距離感を。なぜならば、彼は私の知る「セディ」とは別人だから。

 誰かを誰かの代わりにしてはならないから。


「残念ながら、愛称で呼ぶほど親しい関係ではないのでは?」

「ひどいなあ。なら私は勝手に君をリディと呼ぼう」

「それは以前と変わっていませんよね?」

「何を言うんだ。『女史』を付けなくなったんだよ。これは私の中で大きな進歩だ」


 そう言いはる議員に首を傾げながらも、相手がどう思うかは自由だと思いなおすことにした。


「さっそく呼んでしまおう。リディ、リディ、リディリディリディ……」

「唱えているうちに空を飛んだりしませんよね」

「さあ。私の心は舞い上がるけれど」


 そう言いながら彼は吹き出した。

 それは私の知るいつものマクレガン議員だった。そのことに安堵する。今までと何も変わらない空気感だ。

 こめかみに挿された花を抜き取って手のひらに載せてみる。

 花びらはいまだみずみずしく、目が醒めるほど赤かった。

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