第28話 薔薇の木の下で
今から思えば、何であんな気持ちになっていたのかしら、と金糸雀館の主人は不思議そうに首を傾げる。
「あの人は確かに仕事の関係で女性と話す機会は多かったし、時に誤解を生んだこともあったけれど。大事にされていたのに。わたくしたち二人に子どもはできなくても、二人でいいからと言って、親戚から責められるわたくしをずっと守ってくれていたわ。どうしてあんな大切なことを忘れていたのかしら……」
「きっとあまり人と関わることがなかったから気が滅入っていたんですよ」
そうね、とミュラー夫人は膝の上に乗せた犬を穏やかに撫でている。ベルベットのリボンを首に結ばれたポメラニアンは身体を伏せたまま私をじいっと警戒の目で見上げている。
吠えられないだけでも進歩だと思う。
「どうしてだかわからないけれど、わたくしはあの館からもう出られない気がしていたの。ずっと閉じ込められたまま逃げられないんだって……。でもそうじゃなかったわね。わたくしは初めからどこにでも行けたし、今すぐにでもそうできたのに。ここを離れることなんて思いも寄らなかった」
「それも気が滅入っていたからですよ。時々はこうして誰かと話をして、どこかに出かけるだけで楽しくなりますよ、きっと」
ええ、と彼女はあどけない少女のような微笑みを浮かべた。そして背後に広がる館を振り向く。
「わたくし一人ではもう管理の手も行き届かないから、もうこの館も手放そうと思っているわ。人に譲るのもいいし、町に寄付してもいい。主人もきっと、この館がより良い形で残ることを喜んでいると信じるわ」
「素晴らしいお考えだと思います」
「フロベールさんにはいろいろとご迷惑をおかけして申し訳なかったわ。……本当に、あの時は悪夢に入り込んだみたいで、何も覚えていないのよ」
「いいんです。もう悪いことなんて起こりませんよ」
ところで、と私は気になっていたことを尋ねる。
「この館の『薔薇の木の下』はどこかわかりますか?」
「『薔薇の木の下』?」
彼女は顎の下に指を当てて考え込んだ。
「もしかしてあれかしら? 館の裏手に一本だけ赤い薔薇の木があるのだけれど、いつも一輪だけしか咲かないのよ」
「少し見てもいいですか?」
「もちろん。どうぞ」
彼女はポメラニアンを抱いて立ち上がる。続いて立ち上がったところ、夫人は私の胸元を微笑ましそうに見下ろしながら「わたくしたち、おそろいね」と言うので、私は苦笑気味に答える。
館を回り込んだ裏手。日陰の土の上に夫人の言う通り、薔薇の木があった。ちょうど、薔薇の蕾が一つついている。
『薔薇の木の下で私は待っている』とあのアレッサンドロは叫んでいた。あの言葉はどういう意味だったのだろう。
蕾に目を映した時、うっすらと人影が傍らにいたことに気付いた。息を呑む。
アレッサンドロだ。
彼は薔薇の蕾をかすめるように触れた後、私の胸元に手を伸ばす。正確には、私の抱えていたテディベアの頭に触れようか触れまいか逡巡したようだった。だが触れるのを諦めて、その手は力弱くぶら下がる。
『もう探すこともあるまい』
かすれたような声が耳に直接響く。
『さらば『マリー』。どこへなりとも行け』
彼は頬に涙を一筋流しながら、薔薇の蕾をもぎ取った。びゅう、と一陣の風が吹き抜ける。
あら、とこれまで静かに薔薇の木を見守っていた夫人から不思議そうな声があがる。
「せっかくついた蕾なのに、風で落ちてしまったわね。元気もなさそうだし、水でもあげてきましょう」
薔薇の木の下に小さな蕾がころんと落ちたのを拾った夫人は如雨露を取りに行くためにその場を離れる。
その背中を見送るうちにアレッサンドロはもういなくなっていた。
小さな嗚咽が腕の中で響いている。赤ん坊をあやすように身体をゆすった私は、複雑な気持ちで目を伏せた。
彼は、たださようならと彼女に告げたかっただけかもしれないし、彼女も憎しみばかりを抱いていたわけでもなかっただろう。少なくとも初めは彼女に夢を与えた恩人であったのかもしれない。
白か黒か。それだけで生きていけるのならどんなに楽な人生か。そうでないからこそ、罪の軽重を測るのは難しく、彼が去った今となっては彼と『マリー』を心の底から責めようとは思えない。
そうして空を見上げてみれば、薔薇の木の真上にはあの閉じられた小部屋の窓がある。
物言わぬテディベアの手足がぶらぶらと揺れていた。
ここ数日で上司のオフィスから『悪霊退散』とのたまうユーカリの香りが薄れた。仕事の書類を見せに行ったところ、彼は普通に私に応対し、まるで何もなかったかのような態度を取る。追求するべきか考えているうちに、彼の方から話を振ってきた。
「あのテディベアの身体の向きを変えてくれないかい? ここと君のいるフロアはガラス張りで仕切られているだろう? どうにも視線が気になって気が散るんだよ」
「……気になるんですか」
私は確認するように聞いた。
「だって『いる』だろう? 前よりはずいぶん毒気が抜かれているようだけれど……君、何したの」
「それは秘密です」
「そうかい。どのような経緯があったかはわからないが……」
彼は少し逡巡してから、問いかけるような目を向ける。
「君は
「まったく違います」
「ならばそういうことにしておこうか」
彼は私をおちょくるように笑っているが、私には冗談事ではなかった。この変人な上司と同じカテゴリーに分類されるのはあまりに心外なのだ。
「まああれだよ。生きていてよかったね」
「おかげさまで生きています」
気のこもっていない言葉に、私の返答までそっけなくなる。
この上司は私がどうなろうとも「残念だったね」と一言で済ませそうで怖い。
「そういえば例の日記はどうするの?」
「あれですか? 家にありますが、急速に破損が進んでしまい、
元々、表紙が赤く染色されたあの日記はかなり保存状態が良く、当時の日記制作状況を知る上で書誌学的な価値も見いだせるものだった。
しかし、あの出来事の後、目に見える形で日記は劣化が進んでいった。光沢さえあった表紙がくすんだ色となり、頁の文字の判別は虫食いとカビのために難しくなっていく。私も気を付けて管理をしていたのに、その速度は異常すぎるものだった。
今は自室の作業机の上にあるが、
ミュラー夫人は私に日記を譲ると言ってきているので、このままずっと私の手にあるのだろう。
「そうかい。まあそうだろうねえ」
上司はすんなり納得したようだった。
「人が住まなくなった家は荒れるのも早いと言うしね。あの日記はとうに朽ち果てているはずだったのだろう。君は残念がるよりも先に喜んだほうがいいよ。自分が助かったことと比べれば、日記が失われるのはささいなことさ」
やりとりの合間に思い至る。私は、この上司に日記の件を話した覚えがないことに。
顔から血の気が引く思いだった。
上司は私の様子に気付くことなく、机に片ひじをついてこちらを見上げる。
彼の瞳は以前とは明らかに違っていた。普段は無気力で斜に構えた態度を取るはずの人が、爛々と瞳を輝かせている。
「君は僕が思っていた以上に興味深い人だったらしいね。人生はたまにこういうことがあるから面白い」
私は彼の何らかの琴線に触れたらしい。さしづめ、観察対象としての興味を抱かれたようだ。面倒なことになった。
「そういえば、マクレガン氏の担当は替えないことになったからね、よろしく頼むよ」
「替えないんですか?」
「君に落ち度がないのにどうして。あの事件のせいで替わりました、なんてなったらそれこそ疚しさを喧伝しているようなものさ。うちの方が負けたみたいで癪だろう?」
「たしかに」
「仕事はこれまでと変わらないだろうさ」
「そうですね。頑張ります」
「けれど……」
彼は喉元までせりあがる言葉の処理を思案しているようだった。
「あの、まだ何か?」
「いやね、僕には君が自分自身から望んで引き寄せているのが目に浮かぶようだよ。何だって君はそうやって余計な苦労をする人生を歩んでいるんだろう?」
よくわかりませんが、と前置きしてから答える。
「余計な苦労をすることで新しい世界を見つけられたらそれはそれで素敵なことだと思いません?」
ややあって、上司はホールドアップをして「完敗だ」と呟いた。
勝った。
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