第27話 帰還

 目の前が薄い水の膜を張ったようにぼんやりしている。

 ぐるん、と膜の向こうの景色が回った。たまらず悲鳴を上げる。

 びっくりした……。

 その時、視界が晴れる。さかさまのレオ青年の顔があった。


「別の容れ物に入ったのね!」

「え、え、どういうことっすか? え、なんだろ、コレ。……テディベアがしゃべってる!」


 彼が私を見ながら言った。ゆっさゆっさと彼の顔も上下する。いや、私の方が揺らされているのか。

 テディベアがしゃべってる?


「お、おおおおぅ……スゲー。これ、中に機械が入っているタイプのぬいぐるみ? はー、よくできてるなー。触ってても全然気づかない」


 別のところからはずっと笑い転げるような女の声音が響いている。

 一体、どうなっているのだろう。


『あの、サーチマンさん』

「またしゃべった! あ、こんにちはー。お名前は何て言うんですか?」

『リディ・フロベールですが』


 いぶかしげに答えれば、途端に彼の顔が強張った。

 逆さまだった視界が元に戻り、テーブルらしい平面にそろそろと下ろされる。

 レオ青年がテーブルにひじをついている形で視界が固定された。

 いい加減、察してきた。彼は私がテディベアに見えている。そのようにも扱われてもいるのだ。


「そんな馬鹿な」

『申し訳ないのだけど、ここはどこですか? 今は何日ですか?』

「え、え? ここはイーズのレストランで……今日は十三日っすけど」


 私が《金糸雀カナリアハウス》を訪れたのは十二日。丸一日が消えている。


『今、私はどうなっていますか?』

「テ、テディベア、っす。今日はリディさんとデートで……あ、リディさんではなかったのですが、たまたま店で見かけたので買ったばかりで」

「……そうよ。わたしが彼に買ってもらったの」


 静かな声が聞こえる。高い笑い声はいつの間にか収まっていた。


『誰?』

「わたしはわたし。『マリー』よ。目蓋の裏側から抜け出してきたのね。できないと思っていたわ」


 視界が動く。目の前にはリディの顔が来る。彼女の手がテディベアの身体の向きを変えたのだ。

 彼女は肘をついて私を覗き込み、ひっそりと呟く。


「守られているのね。うらやましい」

『……どういう意味?』


 彼女はツン、と顎を上げた。


「しらないわ。それよりもリディ。もしもこのテディベアを燃やしたらあなたの存在は掻き消えるのかしら?」

『それはやめてほしいな。熱そうだから。『マリー』はそうしたいの?』

「しらないわ」


 彼女の顔から感情を読み取ることができなかった。元は既知の顔であるはずなのに、初めて会った人のように思える。

 

「あ、あのー、これはどういう状況なんでしょう?」


 レオ青年が事情を呑み込めていない声で割り込む。


『ごめんなさい、サーチマンさん。ちょっと今は……』

「大丈夫よ、レオ」


 あ、そうっすか。彼は何も言わなくなった。


『『マリー』、私の身体を返して』

「いやよ。だってもうわたしのものよ」

『……本当にそう思っているの? 話を聞いていると、あなたの願いは別のことなんじゃないかって感じた。私の身体を奪うことは、願いを叶えるための手段となるだけ。その先に、一番の望みがあるような気がする。それは何? 教えて』

「そんなものは、ない」


 一度伏せた顔を上げた時、彼女は私を睨みつけていた。

 親の仇のように睨みつけながら泣いていた。

 彼女はべたべたになった頬を手の甲で乱暴に拭う。


「言いたくないの、本当に」


 そう話しながらも彼女の目は何かを求めて訴えかけているようだった。


『『マリー』、大丈夫。あの人はここにはいない。あなた自身の言葉はあなた自身から口にしなくては何もわからないし、私もどうしようもないでしょう?』

「それは、わかってる。言葉を尽くしたところでどうしようもなく心が通じ合わないことだって」

『そうね。そういうこともある』

「もうひとりきりはたくさんなの。わたしは誰かと関わり合いたい。わたしのことを本当に愛してくれる誰かと。そうすればきっとさびしくなくなる」

『うん』

「でもやっぱりそんなことは無理なのかもしれないとも思っているのよ。わたしはとうに死んでいて、それに……人に軽蔑されるようなことをしたの」


 言葉の端に見えた躊躇いの意味が掴めない。


『どういうこと? 全部、ちゃんと聞いてあげるから。話してみて』


 『マリー』は幾度も口を開いては閉じる動作を繰り返した。彼女の中でどれほどの葛藤があったのか。

 辛抱強く待ったところで、彼女は自らの両手で顔を覆う。


「人を、殺してしまったの」

『それはどういう……』


 遮るように、言わせて、とマリーは言った。腹を割る覚悟を決めた目をしている。


「わたし、たぶんお腹に赤ちゃんがいたの。それなのに赤ちゃんを殺しちゃった。お腹を叩いたの、何度も。生まれてきませんように、生まれてきませんように、って祈ってた。自分のお腹の中で得体のしれない生き物が蠢いていると思ったら、気持ち悪くなった。最後は、私ごと、赤ちゃんを殺してしまったの」

『うん』

「絶対にあの人には知られたくなかった。だからわたしは死んだの。でも死んでもあの人は近くにいた。逃げ出したかった。でも死んでも苦しいままだったわ」

『赤ちゃんはどうなったの?』

「わからない。どこに行っちゃったんだろう……」


 彼女は何もないお腹を撫でている。それはまるで慈愛の母のようで、なぜか胸が切なくなった。

 人の魂はいつから身体に宿るのだろう。母親の胎内にいる時からか、産声を上げた時からか。彼女のお腹にいたはずの命が、まだ何も自身で感じないうちに摘まれた方がまだ幸せだったのだろうか。あまりにも重い事実に、答えは見えなかった。


『あとどのくらいで生まれる予定だったの?』

「お医者様に見せたわけでもないからわからない……あの時は、お腹がずっとお腹が空いていたから、赤ちゃんに悪いと思っていたの」


 ふと、ある考えが頭をよぎった。


『もしかして、月の物が来なかったから妊娠したと思ったの?』

「ええ。吐き気が来たからそうだろうって」

『そう。それなら実際のところはわからないままだね』


 そういえば、彼女の顔が上がる。


「身体は案外デリケートだから、ストレスや不摂生のために月の物が滞る事もある。想像妊娠なんて言葉もあって、実際は赤ちゃんがいないのに、身体が勝手に子どものための準備を始めてしまう場合もある。……もう三百年も昔のことだから、真実は誰にもわからないけれど、自分を保つための優しい嘘もあると思う。あの時のあなたはきっと正常な判断ができる状態ではなかった。誰にも赤ちゃんがいたかどうかなんてわからなかった』


 それなら、と彼女は親とはぐれて途方に暮れた子どものような目をする。


「リディ。あなたはわたしを救ってくれる? わたしに嘘をつかせてくれる?」


 その必死な反応に直感する。

 彼女の中では赤ちゃんの存在は疑うことなき事実なのだ。それは母の勘とも言うべき感覚で知らされたのかもしれない。だからこそ彼女はこんなにも罪悪感に苛まれている。

 彼女の投げかけた問いは目の前の彼女か、存在するかもわからない赤ん坊かを選ばせるものだった。


『……いいわ。救ってあげる』


 私は前者を選択する。後味の悪さを自覚しながら。

 誰かが彼女の味方になるのなら、私しかいない。今はテディベアの小さな手しか差し伸べることができなくとも。


『万人を救うのはあまりにも無謀かもしれないけれど、あなた一人の傍にいることはできる。誰もあなたを気づかなくとも、私が気づいてあげるし、あの人よりもあなたの意志を尊重して、大事にできる。母のように、姉妹のように、友人のように私が『マリー』を愛してあげる』

「うん。うん……」


 彼女は最後に残った目元の涙を指先で拭って頷いた。

 胸の奥につかえていたものがなくなった、そんな表情を見せた。


「やっぱりこうして話しちゃうとだめだわ。知ってしまうと憎みきれなくなって、すぐに負けてしまうの。リディが心底嫌なやつだったらよかったのに」

『負けるとかそういうことではないよ。きっとどこかであなた自身が望んでいたから心が動いた。いつまでも一人きりだというのはさみしいから』


 そうね、と頷いた彼女はようやく少女らしいはにかんだ笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間には早口になる。


「なんか、おかしな感じね。こんなところでテディベアを相手に話をしていると、周りから思われているかも」

『……あ。私の身体』


 ある意味、問題は解決されていなかった。

 私は元に戻れるのだろうか。


「今なら返してあげてもいい気分だけれど、やり方なんてわからないわよ? やっぱりこのままわたしが身体をもらっておこうかしら……」

『まずは話し合いましょうか、今すぐに』


 彼女はテディベアを手元に引き寄せ、ふわふわの両腕を好き勝手いじっている。私自身に痛みはないが、居心地が悪い感じがする。


「今、身体にはわたしがいるから、手近な容れ物に飛んだのかしら。それともあのフクロウの仕業……」

『フクロウ?』

「いたでしょ、わたしの邪魔をするフクロウが。あいつがリディを守っていたのよ。あれがいなかったら今頃わたしはリディの身体を簡単に乗っ取っていたし、リディの魂はあの館にいるあの人に囚われていたままだったわよ」

『へぇ。不思議だね』


 私にもあのフクロウの正体はわからない。私への悪意はなさそうだが。


「あのー、さっきから込み入った話をしているみたいっすけど、俺の考えを実践してみても構わないっすか?」


 唐突に会話を聞くだけだったレオ青年が、はいはい、と手を挙げる。


『何かあるんですか?』

「試してみたいことがあるんすよ」

『どんなこと?』

「ダメで元々っすけど、閃きました。とりあえずやってみましょう! ちょっと目を瞑ってもらったまま、こちらに顔を向けてもらっていいっすか? あー……二人とも?」

「わかったわ」


『マリー』は素直に従ったので、私もつとめて何も見ないようにした。テディベアに入った私が持ち上げられる。そのまま百八十度回転し、ぶちゅっ、といった。


 ぐるん、と景色が一回転。

 次の瞬間には元の身体に戻っていた。

 唇に当てられたテディベアの口元を離した私は、テーブルの向こうにレオ青年が見えたことにとても安心した。

 手が動く。足が動く。

 しばらく、手のひらを見つめて、握ったり開いたりを繰り返した。

 結果的に彼の閃きは天才的だったことが証明されたわけだ。


「どうっすか? 戻ったっすか?」


 彼は半信半疑で聞いてくる。そんな彼に対し、私は。


「……不思議な感じ」


 視線が高くなり、身体が物理的な重さを伴っているのを実感する。固唾を飲んだ顔の彼を目端に捉えながら自分のお腹に手を当

 てる。


「とりあえず食事にしませんか? お腹が空いてしまって」


 テーブルの上でテディベアは微笑を湛えている。その頭を少し撫で、二人を見渡せる場所に置き直した。

 レストランの外では夜が深まっていく。冷めたグラーシュはそれでも美味しかった。

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