第25話 目蓋の裏側

 鏡の向こう側は、冷たくもなく熱くもない。ただ、肌に柔らかなものが絡みつくような感覚。そこへ、足から、手から、頭から浸っていく。

 暗闇の中、白いフクロウが水中をたゆたうように先導する。

 それは上へ上へと浮かんでいくように思えた。はるか頭上から光が差していくのがわかった。

 白い翼が大きく広がる。フクロウは天翔ける。

 あまりにも美しい光景だった。

 あと少しで光に、フクロウに届く、その時に。

 黒い何かが横から身体に衝突した。

 世界は暗転する。






 パチパチ、と頬を軽く叩かれた。

 目が覚めると《私》がいる。秘密の小部屋の冷たい床の上にぺたりと座り込んでいる。なぜか私も向かい合って同じ姿勢を取っている。彼女はスカートの上に日記を広げていた。泣きそうな顔になっている。


「どうして来ちゃったの?」


 《私》が聞いてくる。


「あなたは誰?」

「マリー」

「……マリー=テレーズ?」

「違うわ! わたしはわたし、マリーよ」

「……ここは? アレッサンドロは?」

「その名前は言わないで」


 早口で私の質問を遮ると、


「ここはわたしの隠し部屋よ。あの人とわたしは似ているようで別の位相にいるの。目蓋の裏側、とわたしは呼んでいる。見つかりそうになるたびに、あの館にいる女たちの目蓋の裏側へ逃げ込んできた。日記を通して、あの老婦人や……今はリディ、あなたの目蓋の裏側にもね」

「聞いたことのない話だね」

「目の前にあるものが真実でしょ? 本物の女王様が何百年もの時を経て、別人として生きているのと同じようなものだわ」


 沈黙が落ちた。彼女は自分の言いたいことを整理しているようだった。やがて、溜めていた怒りを徐々に吐き出すようにまた語りだすことになる。


「残念だわ。あの邸の中に閉じ込めておいたのに戻ってきちゃうなんて。わたしの野望を邪魔しないで。わたし、これからなの。これから幸せになるのよ!」


 マリーは開いた日記を突き出してみせる。

 私が投げつけたはずの日記だ。


「わたしの人生は散々だったわ。あなたの身代わりをさせられて、あの人に全部台無しにされた。あなたはわたしのことなんて知らなかったでしょ? 水晶のシャンデリアがきらめく宮廷で、たくさんの人たちに囲まれて、幸福な人生を歩んできた女王陛下! わたしの苦しみはわかる? みじめで哀しい『マリー』は、ここにいたの! 生きていたのに! わたしだって、好きな人と暮らして子どもを産みたかった! こんな日記を書かされるのではなくて!」


 私は彼女に対してかける言葉を見つけられなかった。


「あの日記はね、矯正器具だったのよ。わたしをマリー=テレーズにするための、そしてあの人自身が抱いた妄想が正しいものだと満足するためのものだったわ。少しでも反抗して別の事を書くと、容赦なく頁は切り取られたの。どういうことかわかる? あの人は、日記に書いたわたしの心なんていらないってことよ! 馬鹿みたいでしょ」


 いつしか彼女は大粒の涙を流していた。


「わたし、全然思い出がないの。何もかも忘れていた状態で拾われたの。思い出は全部、あの人に関わるものしかないの。こんなのってない。わたしはどこの誰で、どんな子だったのかもわからない」


 彼女は足をこぶしで強く叩く。


「知りたくても、もうこの足が! 動かない! あの人に切られて動けなくされてしまったの! もう二度と逃げないように!」

「マリー……」

「だからちょうだい。わたしに身体をちょうだいよ……。もうこんなところにいるのは嫌、あの人から離れたい。さびしいのもいや。お願いよ……」


 ごめんね、マリー。私は言った。


「身体は明け渡せないわ。今の私には家族がいる。働きたいところがあって、悲しませたくない人たちがいる。だからできない」

「……なら、死んでよ?」


 マリーの手が首に回る。じりじりと締まってくる。

 反射的に私は立ち上がることで逃れたが、彼女の方はそのままの姿勢で静止した。


「ああ、もういや。この場所では生きていた時と一緒なのね。どうしていつもうまくいかないのかしら」


 私の視線を受けたマリーがむっとした顔になる。


「ねえその顔やめて。わたしはかわいそうなんかじゃない。見下されているみたいで不愉快だわ」

「違うよ。マリーはしたたかな人でしょう? 私の同情がほしいわけじゃない。かわいそうな人が私の命を狙ってくるわけがないよ」

「……そうね。そうだった」


 彼女の眉根が上がる。どれをとっても前世の顔と同じに見えて、別人のはずなのに自分と話しているように思えてくる。


「マリー=テレーズは幸せそうだわ」

「リディ・フロベールはごく平凡で平和な人生を歩めていると思う。私は、今が一番いい」

「それならちょうだいよ」

「だめ」


 少し考えてからこう付け加える。


「でも、あなたの気持ちが少しでも晴れやかになれるように協力したい。私、あなたの友人になれると思うわ」

「馬鹿じゃないの!」


 彼女は即答した。確かに、お花畑の住人の思考だったのかもしれない。


「もう身体は私のものよ。今、レオを口説いているの」

「は? どうして?」

「リディ・フロベールを人質にとれば動いてくれるから。だから、もうどっかに行ってしまってね」


 マリーが天井を見たと思った時、空間そのものが、照明が落ちたように真っ黒に染まる。彼女の声だけがいくつもの反響音を伴いながら、聞こえてくる。


「そこでおとなしくしていればいいわ。目蓋の裏側では何もできないだろうから」


 ――キィ、とどこかでフクロウが啼いていた。

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