第24話 対決

 突然入ってきた男に警戒する。

 石膏像のような肌の白さだ。表情がぴくりとも動いておらず、真っ白な仮面をつけているようだ。唇だけが小さく開閉する。


「どこへ隠れていた。見つけるのにずいぶんと時間がかかったではないか。私の手を煩わせないでくれ」


 しかし、その言葉はいかにも日常にありふれていそうなものだ。普通の人とまるで変わらない。


「お前はいつも反抗したがる節がある。私の上位に立ち、私を手玉にとって操ろうとしていた。あの時もそうだった。お前はこの館から逃げ、荒野で朽ち果てることを選ぼうとした」


 私は男と相対するように立ち上がっていた。だが、その首元に氷のような指が絡みつく。指に力が入った。


「どうしてだろう?」


 抑揚のない声が、苦しみに喘ぐ私の耳に入る。


「お前は私が見つけ出さなければ、汚らしい街の片隅で成人まで生きることも叶わなかった。何不自由ない暮らしができたのは私のおかげだ。それなのにお前は何という傲慢な女だったのだろう。失敗作としか言いようがない」


 男の言葉がぷつん、と切れた。同時に持ち上げられていた私の躰が爪先から床に着地する。


「ああ、ちがうちがう。今のはなし」


 瞬間、男は狐のように、にいっと笑う。


「やんなっちゃうよね。僕は僕であるはずなのに、何人にも分裂してしまうんだよ。どうしてかというと、僕は狂ってしまっているんだよ。だって、そうだろう? 愛する女王陛下に置いてかれた哀れなアレッサンドロは、斧で使用人を次々と殺してしまったんだ。それもどうしてかというとね、あいつらがマリーを殺したようなものだからさ。もちろんさ、その時にはアレッサンドロは頭に血が上って沸騰しちゃって、吹きこぼれたんだよ。大事な脳細胞が溶けちゃったわけ。だから本音も建て前も幻想も妄想もてんでばらばら。はい、それで終わり。もう二度とアレッサンドロは正気に戻らず、監禁犯はこの世から消えてしまいましたとさ、めでたしめでたし」


 あはは、と少年のように甲高い笑い声を立てる男。

 私は辛うじて、何を言っているの、と問いただすことしかできなかった。


「でもさ、ここからが傑作。狂ったアレッサンドロは狂ったなりに狂った意識で世界を構築した。その中に俺の女王陛下を閉じ込めようとしたわけ。どうやったのかは知らないがな。でもさ、結果できちゃったんだからしょうがない。この楽園の主は俺だ。マリー」

「……私は、お探しのマリーではありませんよ。別人です」

「また逃げるの? マリー。あたし、辛い」


 さきほどから身震いが止まらなかった。

 私の、目の前にいるのは誰? くるくると、別々の人格が出たり入ったりしているような感じでつかみどころがない。

 男はこつん、と拳で己の頭を殴った。首が直角に折れてから、また自分の手でまっすぐに戻している。

 すると男はまるで今までの饒舌さがなかったかのように黙りこくってしまった。その代わり、私の腕をおそろしい力で掴み、館中を連れまわす。

 図書室、寝室、客室、サロン、エントランス、庭園……。どうだろう、立派だろうと自慢げに案内した。

 彼は自分のことを「私」と言った。そして私のことを一貫して「マリー」と呼ぶ。あれはだ、マリー。これはだ、マリー。

 マリー、マリー、マリー。息を吐くように、マリー。

 そしてふたたび図書室まで戻ってきた。

 鳥と植物が競演する天井画の下で、男はまたも唇だけを動かして、

「楽園はここにある。私と女王陛下が望んで止まなかった楽園だ。ここでなら、私たちが何をしようと咎めるものはいない……」


 男の顔が近づこうとしていた。やめて、と私はその顔をぐいと手で押しのける。


「勝手なことを言わないで。先ほども言った通り、私はマリーではなく、リディという名前です。間違えないでもらえますか」


 確かに、顔はマリー=テレーズそのものだけれども。


「あなたの探し人ではありません。それより尋ねたいことがあります。かつて《金糸雀カナリアハウス》にいたマリーを女王陛下だと嘘を吹き込んで育てようとしたのですか?」

「マリーは、女王陛下だ。マリー=テレーズ女王陛下。私たちは恋人同士ではないか」

「は? あなたは本物の女王陛下とどこで会ったというの? いつ?」

「王宮の謁見室で出会ったではないか。陛下は一目で私を気に入ってくださり、そのまま私室に招いてくださった。それから手紙などで交流をしながら、逢瀬を重ねていたのではないか!」

「待って。それはおかしい」


 私はきっぱりと首を振った。


「それは嘘。史実的にも明らかになっている。女王マリー=テレーズは三十歳前後から病に伏せるようになった。謁見の数もかなり減っていたはず。サン=モナーク家のアレッサンドロが謁見できたとしても、そのほとんどが晩年の時期にさしかかる。生きていた時代も微妙にずれている。断言してもいい。あなたが女王の恋人であるはずがない」

「何を言っているんだ、マリー。あなただって覚えているはずだ、あの日々を」

「いいえ。そんな日々があるはずがない。そうであるべきだと、信じていたにすぎないの」


 記憶の混濁と妄想がかけ合わさった結果、男に都合の良い記憶が作り上げられている。

 でももしかしたら。彼は私に会ったことがあるのかもしれない。数多くいた謁見者の一人の中に、若き日の男の姿が。

 ほんの一、二度しかなかったはずの謁見が、彼の心に焼き付いてしまったとしたら。

 それはありうることだと思う。女王という地位は、それだけ魅力的なのだ。その恋人、伴侶ともなれば、国を手に入れたのと同じ。


「本物のマリー=テレーズ女王がどうなったのか、知っているでしょう? 彼女は三十四で死んだ。未婚で、子どもはいなかった。それ以上でも以下でもない。あなたにとってのマリーは一人かもしれないけれど、客観的に見れば二人いる。マリーはあなたから逃げて自由になりたかったのかもしれないね」

「あ? ああ……」


 今度、男は赤毛を掻きむしった。すると、また柔らかな声音で「僕は」と言い出す。


「アレッサンドロが可愛いよ。どろどろに溶けた自我が愛おしい。彼はね、もう誰でもいいんだよ。たとえ、アレッサンドロが求めるマリーではなくて、本物の女王であるマリー=テレーズが来たとしても、幸福の城の住人になるには十分さ」


 それはつまり、彼は本物ではなく、ここにいたマリーの方が大切で。目の前で「僕」と言っている彼は私が何者かを知っているということだ。


「マリーは本当に女王の身代わり、ただそれだけの存在ではないということ?」

「正解だ。十分ヒントは与えたけれどね。でもさ、アレッサンドロにも言い分はあるんだぜ。――アレッサンドロは穢れた女には興味がない」


 含みのある言い方に顔をしかめる。


「女王は夜な夜な側近たちを侍らせ、お楽しみ、なんてのはよくある噂だ。でもそうだろう? 若い女が男たちに囲まれている日常で、清廉であり続けることなんてできやしない。成熟した肉体をもてあまして、情熱に身を任せることだってあったはず。まして、三十四! 女として焦る時期じゃないか! そういう女は、アレッサンドロは虫唾が走るほどに嫌いだったのさ」

「くだらない流言をまともに受け止めたのね」

「そうだよ。若くて分別もよくわかっていなかった年ごろさ。それに奔放で淫蕩な母親の姿も見ていたからね。アレッサンドロは自分だけの女王が欲しかった。だから作ればいいと思った」

「むちゃくちゃだね。人間は大量生産できるものではないし、自分の思い通りになるわけないのに」

「それでも彼は頑なに信じていた。錬金術ではホムンクルスの技術なんてものが唱えられていたが、それにはアレッサンドロは懐疑的だった。けれど、まるで奇跡のような偶然で、理想の女王になりうる素質ある少女を見つけてしまった。彼はすぐにこう思った。――これなら現実的かつ、完成の希望の持てるになり得る。彼は実験を開始した」

「ひどい」

「そうだよ。想像はしても、実行するべきではなかった。彼は自分で自分の品性を貶めた。当時も悪逆な領主はいただろうけれど、彼が悪質だったのは、外面がよかったことだ。表向きには孤児を引き取った良心的な領主だ。マリーと彼との間で何が起きたとしても、周囲は全部、マリーのせいにした。誰もマリーの気持ちに寄り添う者はいなかった。マリーは庶民のくせに貴族の男に愛された幸運の持ち主にしか見えなかったんだよ――ああ、そろそろ時間だ」

「時間?」

「そう。ああ、もう。アレッサンドロのいかれ頭が!」


 何の前触れもなく、男の体が前に傾いだ。

 図らずも抱きとめる形になった私の身体も倒れるかと思ったが、そんなこともなく、なぜか男の腕が首ごと抱えるように抱き着いた。

 うう、うう、と男は私の肩で泣いていた。


「マリーちゃん、マリーちゃん、マリーちゃん。あたしはなかよくしたかっただけなの。どうしていつもうまくいかないんだろう……。どうして好きなんだ、愛しているんだって言えないのかな。大事なことを言おうとしても口を噤んじゃうのぉ……!」


 アレッサンドロはいつかの女言葉になっており、さめざめと涙を流している様子はまるで傷ついた十代の少女が感情をあらわにしているようだった。


「ずっとずっと待っているの。ねえ、あなた。マリーちゃんをあたしのところに連れてきてちょうだい。お願いだから……」


 うっ、うっ、うっ。男の嗚咽がしばらく響いた。

 やがて顔を上げた彼は、無感情な面に戻ると不審そうに涙を拭い、やがて私を乱暴に押しのけた。

 表情を隠すように窓辺で背を向け、肩で息をした男。その背中は小さかった。


「やり直しだ。マリーを探しに行く」


 何かを振り切ったような男が振り返る。眉が吊り上がり、目は血走っていた。荒々しく私の腕を掴む。


「命令だ。お前、マリーの居場所を吐け。そんなそっくりな顔をしておいて、知らないとは言わせないさ。早めにくっちゃべった方が俺の拷問が早く済むぞ? ハハッ!」


 開いた口がふさがらない。

 アレッサンドロという人間からどんどん別人が顔を出す。私、僕、あたし、俺……。「狂う」という言葉が頭をよぎる。そして間違いなく、私にとって危険なのは、「俺」と自称する彼だ。目の色がまるで違う。粗暴で暴力的な男だった。


「斧で手足一本ずつ、ぽーん、ぽーんってさ! 人の体って人形みたいだよな。昔、館の使用人に試してやったんだけどさ、すごかったんだぜ? わめいて泣いちゃって、みーんな、助けを乞うんだ。でも誰がマリーを追い詰めたんだって言ったら、やつらだろ? 俺、悪くないんだぜ?」

「あなた、誰?」

「『あなた、誰?』ってさあ? まー、名前なんてどうでもいいもんさ。俺だってお前の名前なんて興味ないし。それよりも吐けよ。そうしないと、この綺麗な服もびりびりにしちゃうぜ?」


 男と私はうんと近い距離でにらみ合うことになった。男の力は強く、振りほどくことはできそうにもなかった。


「俺は王様だ。世界はすべて俺のもの。だからお前も俺のものだ。お前が女王だろうが、ひん剥けば女に違いないだろ」

「……暴論ね」

「これは俺たちの問題なのさ。お前は元からいらないんだよ」


 この言葉で気づかされた。これまで私の身に起こった不可解な出来事はあくまで事件の核心ではなく、周縁部に過ぎなかったのだ。中心は私ではない。

 この男とマリーの世界に、私という存在が接触した「事故」に過ぎないのだ。さらに言えば、マリー=テレーズ女王に固執しているのは、アレッサンドロよりもマリーの方。マリーこそが鍵を握っている。


「違うよ。この場にいる以上、私も当事者。何も知らないでは済ませられない。私の前に現われた女性がマリーならば、会って話をしなければいけないと思う」

「話をしたらどうするんだよ」


 話をしたいのは、彼女がどういう気持ちなのかを知りたかったから。ならばその先は?


「そうね。友達にでもなろうかしら」

「あん?」

「友達が少ないから。彼女が拒否するというのなら仕方がないとも思うけれど」

「馬鹿じゃねえの」

「やってみないとわからないでしょ」


 前世でばあやが生きていた頃。私は無敵で無鉄砲な小さな女の子だった。世の中の柵や厳格な掟に頓着しないのだ。誰かへの優しさでできている。なぜならば、彼女はばあやに愛された子で、愛を誰かに分け与えることに何の躊躇もなかったから。

 前世の記憶とは曖昧なものだ。新しい記憶が日々積もっていくから、古いものはどんどんと心の奥底に沈んでいってしまう。だが、それでもふいに蘇ってくることもある。忘れてしまっていた別の私を。


「いつもいつも後ろ向きでいじいじしているばかりだったら、死ぬまで女王を続けられたわけないじゃない」


 私の言葉に呼応するように、キイ、とフクロウが啼いた。

 ぎゃあ、と男が叫んでよろめいた。両手で顔を覆っている。どこからかやってきたフクロウががっちりした二本の足で男の顔面を蹴りつけたのだ。

 フクロウが絨毯の上に着地し、そのまま、とと、と私の顔をちらちら見ながらある場所に誘導した。

 見覚えのある金縁の大きな鏡だ。フクロウは鏡面に飛び込み、早く来いと言わんばかりに鏡面から顔を出す。

 触れてみた。冷たさを感じないが、まるで水面のように鏡面が波立っていた。

 私は座った状態で背後を振り返る。

 男の姿は変わり果てていた。目玉がなく、鼻もこそげ落ちている。肉も滴り落ち、白い骨が見えていた。歩く腐乱死体が、確実に私に向かって手を伸ばそうとしている。腐った肉の臭いがぷうんと漂ってきた。

 思い出した。ここに来るまでのことを。

 私は鏡の向こうから伸びた手に引きずられた。男と同じように肉がこそげ落ちたおぞましい手。鏡に映ったの姿。

 また、キィキィ。フクロウが啼く。

 我に返ると、とっさに手に持ったままの日記を男に向かって投げつけた。男の動きが鈍る。


「私はリディ・フロベール! マリーに伝えたいことがあるなら伝言を預かるわ!」


 すると、鏡に飛び込んだ背後から振り絞るような叫びが。


「マリー! 薔薇の木の下で待っている――!」


 そう告げたのは、誰だろう?

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