第23話 不思議の国のリディ
【一人の少女の話】
ある人が一人の少女にこう言った。
「あなたが二人いるとお考えなさい。一人はあなた自身、もう一人が《あなたであってあなたでないモノ》、もう一人の《あなた》です。本当のあなた自身は宝石箱の中に隠して、夜にこっそりと眺めなさい。周囲の期待はすべてもう一人の《あなた》にかけられたもの。あなた自身のものと思ってはいけない。あなた自身が傷つかないために」
これを聞いた少女はこう答えた。
「なら、これは《ごっこ遊び》だわ。昔はばあやとたくさんしたの。私は女王陛下の役ね。大丈夫、それならできるような気がするの。心配しないでね、ちゃんとやってみせるから」
少女の名はマリー=テレーズ。我が国初の女王に即位することになるこの少女は、この先の苦難の人生を予感していなかったに違いない。それを思えば著者は寂寞たる心地になるのである。
――『奇談集 第七十七夜』より引用
キィーキィー、という鳴き声と頬を撫でる風を感じ、瞼を上げる。
鼻先まで何かが迫っていた。オニキスでできた瞳が白い仮面に嵌っている。あっけにとられて見つめるうち、その顔が、ぐるんと、回った。
「ん!? え、えっ、なにっ!」
慌ててうつ伏せになっていたのを飛び起きてあとずさる。目の前の生物の全容が明らかになると、ほっと胸をなでおろした。フクロウの中でも比較的小型で、とびきりミステリアスな顔立ちをしているメンフクロウが、興味津々の体でこちらに寄って来ていただけだ。フクロウ目メンフクロウ科メンフクロウ属メンフクロウ。鳴き声がホウホウ、ではなく、甲高くキィキィと啼くのも納得だ。
図書館前の彫像は飽きるほど見ているが、本物は初めて見る。
首を捻って毛づくろいをする白いフクロウは、とっとっとっ、と体躯を反転させ、ばさりと両翼を広げる。それは小さな体躯にしてはどうやって折り畳んでいたのか戸惑うほどに巨大な翼だ。その翼の白に視界が奪われる。
フクロウは滑空する。格子をはめた窓の外へ。その姿はまるで魔法のように窓ガラスと格子の二つをすり抜けたのだ。
四角く切り取られた灰色の空の下、フクロウはあっという間に豆粒ほどの大きさになり、どこかへ消えていった。
赤い絨毯には白くて軽い羽根がばらばらと散らばっている。
窓辺までにじり寄った私は、おそるおそる縦に長い窓の内側にある金属製の縦の格子に触れると、氷のように冷たかった。窓ガラスもコンコン、と音がするほど堅い。
今、あのフクロウはどうやって外に出たのだろうか。
窓辺の景色は、手入れの行き届いた庭園だ。色とりどりの花は幾何学模様を描き、石畳を敷いた直線の道は赤バラの木々が円状に取り巻いた中央で直角に交差する。その交差点には白いモニュメントがあり、水を噴き出している。さらに流水は庭園の脇を通って、小川となり、人が渡れるように小さな石橋が渡してある。
まるで貴族の邸宅のような贅沢な風景がそこにあった。
なに、ここ。
現実味が感じられないまま、背後を振り返る。
見覚えのない部屋にいた。絨毯こそ敷かれていても、照明器具のない天井に、木製のベッド、書き物机、本が積まれた小さなキャビネット。机には燭台と水差しが乗っている。壁はクリーム色の漆喰で塗られているが、ところどころ剥げてまだら模様になっている。
外へ通じていそうなのは、先ほどの窓と人の背丈すれすれの粗末な扉が一つずつ。扉の下部には物を差し入れられそうな小窓が取り付けてあるが、ドアノブがない。まるで古い独居房で見る扉だ。
私は立ち上がり、スカートについた埃を払った。白に淡いピンクの花を散りばめた、見覚えのないスカートの裾を持ち上げてみて、パフスリーブになっている袖、歩きにくそうな硬くて白いハイヒール、コルセットの締められた腰に触れ、さきほどからちらちらと視界をよぎるくすんだ金色を掴む。その金色は、私の髪だった。後頭部のあたりで編みこまれてまとめられているらしい。
今の私の髪はウェーブのかかったブルネットであったはずだ。
何となく落ち着かなくなってくる。一体、私はどうなっているのだろう。
「開かない……」
扉を押してみるが、びくともしなかった。ならば、と小窓を覗き込むが、小窓に嵌められたガラスは曇っている。こちらを押しても開かない。
少し考えてから、コンコン、と扉をノックしてみる。コンコン、と音が返ってきた。誰かいる!
「あの……」
言いかけたところで、下の小窓の曇りガラスに黒い影のようなものが横切った。
「そこに、どなたかいらっしゃいますか」
確信を持って呼びかける。すると、ガンッ、と扉が震えた。
ガンガンガンガンガンガンッ!
扉が壊れそうな勢いで叩かれた。
驚いて尻餅をついてしまう。
音は永遠とも思われるほど続いたが、唐突に止んだ。曇りガラスの影は消えている。
ぞわぞわと肌が粟立っている。あれは何。
しばらく扉には近づかないことを決め、部屋の探索をすることにした。ここがどこなのか、確かめなければ。
まずは壁際のキャビネット。ほとんどに本が詰め込んである。三百年前に出版されていた学術的な内容の本で、一冊引き抜いて頁をめくってみれば栞代わりに折った紙片が挟んである。紙片には鳥らしきものが黒インクで描かれていた。落書き?
最下段には壊れたマンドリンが押し込まれていた。八本の弦が全部切れ、胴の部分には穴が空いている。
続いては木製のベッド。つい昨日まで誰かが寝ていたかのようにシーツが乱れている。乗ってみればぎしぎしと音がする。
ベッドの下では盥とおまるを見つけた。陶器とガラス製だから、この部屋の主は裕福な暮らしをしていたのかもしれない。
書き物机には何の装飾も施されておらず、引き出しの類はなし。あちこちがささくれだっていた。
椅子の下に隠れるようにして、木箱を見つけた。金具のついた蓋を上げれば赤い装丁の本が収まっている。見返し裏の署名には見覚えがある。『マリー=テレーズの恋日記』だ。
きょろきょろと背後を見回しても誰かがいるわけでもなく、じわじわと不安が大きくなっていく。
「ここに来る前、何をしていたんだっけ……?」
《
思い出せないのが歯がゆかった。ここで待っていても助けは期待できない。
窓辺まで来ると、コンコン、と窓ガラスを叩いてみる。軽い音を立てたので、気は咎めたが、椅子を振り上げた。
するとまた。ガンガンガンガンッ! 部屋の外から誰かが扉を叩いた。――もしかして、どこかから見られている?
扉の外にいるだろう、不気味な不審者に震え上がった。
お父さん、お母さん。心の中で思わず呼びかけていた。私が元の場所に戻りたいと願うのは、お父さんとお母さんがそこで待ってくれているから。前世の記憶を持ちながら現代を生きる私にとっての両親は、港にある温かな灯台の光で、港へと繋ぎとめる錨だ。悲しませたくないのに。
ひたすらに祈るうちに、音はまた止んだ。
外に待ち受けているモノは何だろう。少なくとも普通の人間ではないように感じる。
この部屋の主もどこに行ってしまったのか。
そこまで考え、はっ、と気づいて、日記の本を手に取った。
私はここしばらくずっと《マリー=テレーズの恋日記》にかかりきり、二度も死にかけた。なら、ここにいることも恋日記に関わるものと見るべきだ。
私の記憶も《
信じがたいことだが、ここは《
私が幻覚や夢を見ていない限りにおいて、ここは過去の《
レオ青年が言っていた『イーズ見聞録』に収録してあった『幽霊館』で伏せられた「もしあなたが××だったならどこかに連れていかれていたかもしれない」。私が「××」だった場合はどこかに連れていかれてしまう。その「どこか」が「ここ」だとしたら。
外にいるのは、男の幽霊だ。
「どうしよう……」
ますます心細くなってきた。私は元来、豪胆でもなければ大胆でもなく、比較的内向きに生きてきた小心者だ。女王をやっていけたのは、女王の皮を被れるだけのはったりを利かせられたことと、優秀な側近たちの存在があったからに過ぎない。私自身には特別な価値はなにもないし、恐怖映像には目を瞑って耳を塞いでやり過ごしてきた。
じっと手を見る。ふと前世のばあやを思い出した。手のひらの小さな鳥が、翌朝には冷たい土の下に埋まっていたことも。
命は儚いのだとばあやは教えてくれたけれど、死んだらそれで終わりというわけでもない。死後の世界があるかはわからないが、死ぬ時にひたすらに「落ちる」感覚だった私は、もう一度この世に生まれてきた。
この世界は不思議に満ちている。それだけは確かなことだ。
意を決して恋日記の頁をめくる。《マリー=テレーズ》という署名を書いた、さらにその先へ。
『あの人――アレッサンドロは最近追い詰められているみたい』
読んだ覚えのない一文が目に飛び込んでくる。
「アレッサンドロ」とは誰のことだろう? どこかで聞いた気もする。
さらにその裏には飛ぶ鳥らしきものを描いた絵があった。嘴と二つの翼がかろうじて判別できるぐらいで、目は変に飛び出しているし、足も三本ぐらい生えている。
次の頁も、その次の頁も。鳥の絵ばかり。そこに多少の文章が付け加えられていた。
キャビネットに入っていた栞の絵を描いた人物と同じ筆跡に見える。たくさん絵を描いているのに、全然上手くなる気配がない。子どもの落書きみたいだ。
私ならもう少し上手く描ける。淑女の教養には絵画も含まれていたから、人に見せても恥ずかしくない程度には習っていた。前世で披露する機会はまったくなかったが。
ただ、この日記を書いた人物はたとえ下手でも絵を描くのが好きだったのだろう。部屋の窓から見える鳥を観察し、いくつもいくつも描いた。
いや、違う。
鳥しか描けるものがなかったのだ。その人物は飛ぶ鳥の一瞬を目で追うだけで精一杯で、鳥の形もよくわかっていなかったのでは。
絵を描くこと自体も、その人物にとってほとんど唯一の手慰みだったとしたら?
この頁はなぜ今は残っていないのか。
そうだ、現存している日記には頁を切り取った痕がある。日記は誰かの手によって《編集》されたのだ。見覚えのない文章は、切り取られた頁のものなのだ。
しかし、《編集》されたのはなぜだろう? 《編集者》には都合が悪かったから? 残っていてほしくなかった? だったら《マリー=テレーズ》の署名は《編集者》には都合がよかったのだろうか。
この日記は《マリー=テレーズ女王》への憶測を呼ぶ。醜聞にもなりかねないが、日記自体は流布することなく館に残された。ならば女王の評判を落とすことが目的ではないのだろう。
ここまで来て、一つわかったことがある。
この日記は《私》のまったく関わりのないところで作られた、《偽作》とも言うべきものだろう。本物と見紛うほどに女王の筆跡を真似ているのだ。その労力を考えれば、執念すらも感じる。
それでいて醜聞を目的としないのは、合理的な行動とは思われない。非合理的というなら、そこには感情のゆれが入り込む。人の心の中にある得体のしれない《何か》がそうさせたのだろうか。たとえば、狂気と名付けられるような。
日記を書いた人物の顔はまだ朧気で見えないが、あまり幸福ではないような気がした。
さらに見覚えのない頁を中心に日記を拾い読みしていく。
『〇月×日。本当はもっと前のことだけれど、振り返って書いていこうと思う。今、あまりにも退屈で死んでしまいそうなぐらいに痛いから』
『〇月×日。今日は食事のマナーのチェック。銀の食器の扱いにも慣れてきた。彼が後ろに立ちながら、手取り足取り教えてくれる。きれいなドレスを着られたからよろこんでいたら、『君は女王になる人なのだから』と怒られてしまった。明日からもっと上手くやろう』
『〇月×日。この日記の要領がやっとわかってきた気がする。彼にとって、私との記憶は宝物だと言った。自分の人生を変えた決定的な一瞬だと。『本当に?』と私が疑えば、恐ろしい剣幕で怒られた。腕の青あざを見て溜息』
『〇月×日。私は『マリー=テレーズ』でしょう? どうしてみんな私のことを嫌な目で見るの』
『〇月×日。どこかのおばさんが部屋に入って来ると、『愛人』と吐き捨てられた。追い出してやったけれど、近くにいた使用人たちが『調子に乗るな』と怒っていた。なんて無礼なやつらなの』
『〇月×日。私は『マリー=テレーズ』よ。そうでしょ、アレッサンドロ』
『――私は誰?』
『私は馬鹿だった。何も知らない道化役ね、みんないい気味だと思っているわね。私が収める国もなければ、国民もいなかった。一人ぽっちの女王様だったのだわ』
『でもね、あの人がそう言ったから、私は信じたかった。忍び寄る不安に気づかないふりをしていたの。あの人が私を女王様にしてくれた。私を価値ある人にしてくれた。これからどうしたらいいのだろう』
『私はあの人の何。あの人は私の何。私の答えは決まっているわ。私はあの人のことを何とも思っていない。嫌いだわ、あんな人』
『〇月×日。死なないでくれ、マリー=テレーズ、と言われた。首を絞められながら。でも一つわかった。私はあの人がいなければ生きていかれない。嫌われないようにしなければ』
『〇月×日。最近のアレッサンドロはどこかおかしい。気が短いし、すぐに手をあげてくる。きっと悪いことがあったのだ。もっと上手く立ち回ろう。私ならできる』
『〇月×日。理由がわかった。アレッサンドロは人に騙されてとんでもない失敗をしてしまったと使用人たちが話しているのを聞いた。金だ、金が必要なのだ』
『〇月×日。私の腕の中で、彼は金を借りた親戚中から追い立てられ、ある条件を呑みこませられようとしていると告白した』
『それは私を追い出すということ。それは困る。誰が私を閉じ込めていると思っているの』
『〇月×日。刺された。痛い』
『〇月×日。日記を開いたのも久しぶりだ』
『〇月×日。はやくマリー=テレーズになってくれと言われた。彼はとっくに狂っ
てしまっている。私は彼を抱きしめ、キスをした。彼は自分のために私に縋りついていることに、私が気づいていないとでも思っているのかしら』
『〇月×日。帰ってこなかった』
『〇月×日。今日も帰ってこなかった。身体が重い』
絵が描かれた最後の頁には、こう記してある。
『絵を描いている時だけは嫌なことも忘れられる。私に翼があったならすぐにでもあの格子を突き破り、窓の外へと逃げてやるのに。今はもう、お腹がすいてたまらない。怖い。助けて』
頁には涙のようなシミの痕。
日記の最後の頁は張り付いていたから、破り取られなかった。だから『死にたくない』だけはあの日記に残っている。
『彼女』の生きた証は『死にたくない』の一言だけ。他に自身の言葉で書いたものは容赦なく破り取られ、捨てられた。
それはとても哀しいことなのでは?
深く息をついたその時。キィ、と私を呼ぶ声がした。白いフクロウが絨毯に座り込んだ私の目の前にいて、右足で光るものを蹴っている。金縁の手鏡だ。
早く手に取れ、手に取れ、とせっつくようだったから、手に取ってみる。
初めて私は今の姿をはっきりと目にすることになった。
それはある意味、なるほど、と納得するものだ。
くすんだ金髪に、焦げ茶色の瞳。飾り立てなければいまいちぱっとしない顔。今は眉をひそめていかめしげだ。正直言って、あまり愉快な気分にはなれない。
鏡の顔に挨拶をしてみる。
「ごきげんよう、女王陛下。ご機嫌うるわしゅう……」
自分で言いながら、前世であったあれやこれやの気の滅入る出来事が思い出されてきて、またため息。
するとキィ、とフクロウが啼きながら寄ってきた。つぶらな瞳を向けて、どうしたの、と首を捻っている。それがなんとなくかわいらしく思えてきて、慎重に手を伸ばす。
驚くほど柔らかい羽毛が手の甲をそっと押し返してきた。
何のためにいるのかわからないメンフクロウだが、私にとってきっと悪いものではない気がした。
「あなたは帰り道を知っているの?」
答えるように、フクロウはキィ、と啼いた。
ガンッ、と大きく入口の扉が開いた。
古めかしい衣装をまとった生気のない男が立ち尽くしていた。
馬の尻尾のようにまとめた赤毛を後ろに撫でつけ、足音高く入ってくる。
年のころは四十代、五十代……。いや、本当はもっと若いかもしれないが、彼の顔に深い翳りがあるために、よくわからない。
彼の口が動く。マリー、と。私に向かって。
誰だろう。あてずっぽうで言ってみた。
アレッサンドロさん? と。
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