第22話 乾杯!

「マジっすか……」


 レオ青年は目を瞠り、上ずった声を上げる。


「じゃ、じゃあ、本物のリディさんはどこっすか。あなた、リディさんの双子か何かっすか?」

「双子かどうかと言われれば、違うけれど。でもね、レオ。私はあなたとそういう話はしたくないの。せっかくこれから食事なのに、まずくなっちゃう」


 人差し指でテディベアをつつく。見れば見るほど愛着が湧いてきた。

 しかし目の前の彼は硬い表情を緩めなかった。楽しい時間が台無しだ。やっぱり言うべきじゃなかった。

 少しだけ惨めな気持ちになる。


「こんなのは食事どころではないっすよ。『マリー』と名乗りましたよね。誰なんすか。どうしてリディさんとまったく同じ顔をしてるんすか」


 私は静かに炭酸水の入ったグラスで唇を潤した。


「レオは魂の不滅を信じてる?」

「え?」

「むかしむかし、あるところにかわいそうな女の子がいたのです。女の子は悪い男に騙されて、ずうっと閉じ込められていたのです。死んだ後、女の子の魂もまたずうっと留まり続けました。なぜならば、女の子の前に、彼女を天国に導いてくれる神様も天使様もいなかったからです。そんな女の子が幸せになろうとしてはいけないの?」

「……いけなくはないっすけど」


 青年はいぶかしげに肯定する。


「人間は死んでも魂だけはずっとそこにある。どこにもいかずに、生前に犯した罪を繰り返し続けるの。それには誰も気づかないのだわ。だから死んだら終わり。二度と救われないの。この世は地獄。天国なんてないの」

「よくわかりません。つまりどういうことなんすか」

「魂には器が必要なの。たとえばグラスに入ったこの水のようなもの。グラスという器になければ持ち運べないわ。水は《私》で、グラスは《リディ・フロベールの身体》。この魂にとっては二度目の人生を迎えることができたのよ」


 ウェイターが食事を運んできた。グラーシュ、パン、カクテルグラス。私は赤スグリのカクテルグラスを軽く掲げた。


「《マリー》の二度目の誕生に。乾杯チュース!」


 彼はぽかんと口を開けていた。


「いやいやいや。わけわからないっすよ! あなたがリディさんじゃないとしたら、本物のリディさんはどこに……」

「慌てないで。料理が冷めてしまうわ」


 銀のスプーンで深皿のスープを掬って口に運べば、温かくて幸せな味がした。

 死んでいるより生きているほうが何千倍も楽しい。

 ああ、やっと。やっと全部がわたしのものになった。


「レオも食べたら? はい、あーん」

「……やめてください」


 彼のほうに一口差し出せば、彼は首を振って嫌がるそぶりを見せる。少しだけ傷ついた。


「別に、中身が変わっただけなのだから大したことではないわ。今の《私》がリディ・フロベールなの」

「リディさんの中に『マリー』という別の人格が宿ったということっすか。多重人格者みたいな」

「多重人格者?」


 私は首を捻る。何か難しい言葉なのだろうか。


「リディさんはとりあえず俺と一緒に病院に行きましょう。多少なりとも症状が改善されるかもしれません」


 おもむろに立ち上がろうとする彼の袖を引っ張って引き留める。


「やめて。《私》は何も変わっていないの。病人扱いしないで」


 私と彼の視線が交錯する。やがて彼は諦めたようにふたたび浮いた腰を下ろした。


「まさかこうなるなんて……これからどうするんすか。仕事は? 国立国民議会図書館ポンパドーラで働くのだって」

「以前のリディ・フロベールの仕事をしたいなんて思わないわ。《私》、あの子が大嫌いだもの」

「え?」


 だがあの子がいたから《私》はまた生きられる。そう思えば、彼女が犯した罪も多少なりとも許してあげてもいいのかもしれなかった。リディ・フロベールの身体分だけだが。


「そんなことよりも大事なのはこれからだわ。レオ、これからもずっと仲良くしてね」

「そんな……理解できないっすよ。ありえないっすよ。これじゃあ、まるでリディさんが幽霊に乗っ取られたみたいじゃないっすか。リディさんはどこに」

「だから、《私》よ」

「あなたじゃないって言っているでしょ!」


 痴話喧嘩中の恋人同士にでも見えたのだろうか、店中の視線が一斉に集まる。彼は憤慨したのを恥じるようにきつく唇を噛み締めている。


「やっぱりあの日記が……。俺の知らないだけで、本当は何か起こっていたのかも」


 今度はぶつぶつと独り言を言い始めた。彼にとってリディ・フロベールとは平常心を無くしてしまうほどの存在なのだろうか。

 魂が同じならば男をたぶらかす魔性も健在だとすると、やっぱり《私》は許せない。


「レオ、食べましょうよ」

「リディさんを元に戻してくれるなら」

「彼女がどこにいるのかなんてしるわけないじゃない。どこかにお散歩に出かけたのではなくて? もうこの話はやめましょうよ。料理がすぐに冷めてしまうもの」


 だが彼の顔はこわばったままである。それが無性に悲しく思えてきた。誰も私を迎え入れてくれないのだ。


「ねえ、サーチマンさん。この身体は正真正銘、リディ・フロベールのものであることに違いないわ。どうして私がサーチマンさんに自分のことを明かしたと思っているの?」

「わかりませんよ」


 ふふふ、と乾いた声で笑ってみせる。


「《私》はまだまだ世間には疎くて、慣れないところがあるわ。サーチマンさんに手伝ってもらえたらきっと新しい生活も上手くいくと思って」


 《私》の共犯者として見込んでいるの。

 そう明かした時の彼の顔をリディ・フロベールに見せてやりたかった。

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