第21話 デート
イーズの駅に朝早く着いた。時間潰しに駅前のカフェの窓際のハイカウンター席に腰かけ、角砂糖二個入れた紅茶を飲んでいたら、ガラス越しに、リディさん、と口の形が動いている彼と目が合った。
返事の代わりに軽く手を挙げて応じる。店内に入った彼は黒いサングラスを外し、隣席に座る。
「サーチマンさん」
「突然イーズに来たと連絡が入って、びっくりしたっすよ。何かありました?」
「そういうわけではないの。前回来た時はゆっくり観光もできなかったから。サーチマンさんはここに住んでいる分、たくさん楽しいところを知っているでしょう?」
「はあ。まあ、それは。いいっすけど」
合点のいかない顔をする青年に、頬杖をしながら微笑む。彼の顔にうっすらと朱が上る。
「てっきり、日記のことで来たかと思っていたっす」
「そちらはお休み。今日は純粋に楽しいことだけしたくて来たわ。サーチマンさんなら付き合ってくれるかなと思って。だめ?」
だめじゃないっす、とレオは即答し、ちらちらっとこちらを気にしながらピアスをいじる。
「でも、俺。こういうのって期待しちゃいますよ。いいんすか?」
「期待?」
「それはまあ、色々と。男としてのって話っすよ」
「そんなのしらない。自分で考えたらどうかしら」
自分の耳たぶをいじりながらそっぽを向いてみせる。
「それなら考えます。そのうち答え合せをお願いしてもいいっすか?」
「いいわ」
「ならまたそのうちに。ところでリディさんは今日行きたいところとかあるんすか?」
「サーチマンさんが連れて行ってくれるなら、どこにでも」
「なかなか責任重大っすよ、それ。女の子は『どこにでも』って言っておきながら、男側のセンスを試してません? でしょ? やだなあ」
そう言いながらもレオの顔は笑んでいる。
「とりあえず頑張りますよ。今日は楽しいデートにしましょう」
イーズの市場(マルクト)はほぼ毎日、大聖堂の鐘が午後を告げるまで続く。日用品や土産、食事に至るまで幅広い品揃えの屋台が円を描いて並ぶ。
「お腹空いてませんか? あそこのパンは結構うまくておすすめっすよ」
「そうなの? 食べてみたいかも」
そういえば朝は何も食べていない。
「買ってくるっす。ちょっと待ってて」
レオは屋台へ駆けた。待っていると、紙袋を持って戻って来る。
「ついでにチーズと野菜を売ってる屋台にも行ってきたっす」
堅めのパンの切れ込みに、薄いチーズと野菜が入っていた。量が多いので半分ずつに分けて食べる。
建物の壁に寄りかかって食べるパンはまだほんのりと温かく、噛み締めるほどに香ばしさが口の中に広がる。
「おいしい……」
「でしょ? 俺、よくここに来て色々買い物するんすよ。あ、あそこのジャムのお店とかにもよく行くんすよ。週に一度しか来ないところなんすけど、アプリコットジャムが絶品です。あまり日持ちがしないんで、同じ寮に住んでる友人たちとシェアしてよく食べてます」
「サーチマンさんは寮にいるの? 寮生活は楽しい?」
「もちろん。色んなやつがいますよ。よくみんなとパーティーをして馬鹿騒ぎばかりっす。音楽好きなやつはいつも酔ってヴァイオリンを弾き出すんです、裸で」
「裸で?」
くすくすと笑ってしまう。
「あ、でも勉強もしてるっすよ。先生にはいつも怒られてばっかりで。でもこの間また先生に発見がありましたよ。先生、実はああ見えて、動物には赤ちゃん言葉を使ってるんすよ。大学にいた猫に『僕のスイートハートちゃん、どちだんでちゅか~』って」
「そうなの?」
「え? リディさん信じてないんすね? 本当っすよ。赤ちゃん言葉を使いながら、猫にミルクをやっているんです。でも俺たちが来ると決まりが悪そうに、『言うなよ』と怖い顔で脅してくるんすよ。あれはまったく怖くない脅迫でしたよ」
彼は手についたパンくずを落として、さきほどのジャムの屋台を指さした。
「そうだ。あそこ、試食もさせてもらえるんすよ。食べたら行ってみないっすか?」
「行きたい!」
「ノリがいいっすね、リディさん。どんどん行きましょう!」
午前中はレオに案内されながらあちこちの屋台を回る。午後には市街地を歩きながら、レオおすすめのアイスクリームショップのテラス席で、木苺とチョコレートのアイスを食べる。
どれもこれも美味しくて、楽しかった。
それからふとある店のショーウインドウを覗き込んだ。反射したガラスが私自身の顔を映している。すぐ隣にレオが立った。
「どうしたっすか? そのテディベアが欲しいんすか?」
「え、えぇ、そうなの。可愛いと思って」
どきりとしながらショーウインドウに飾られたたくさんのテディベアのうちの一つを指さした。
まるでテディベアだけの住まうおとぎの国のように、どれもがつぶらな瞳を向けていた。私が指さしたのは、何となく目に留まった枯草色のテディベアだ。ふわふわの毛がタンポポの綿毛みたいだ。
「あれっすか……。まだいけるかな。行きましょう」
独り言を言いながら値札を確認していたレオが、私を連れて店に入る。見ているうちに、あっという間に購入してしまった。
どうぞ、と渡されたテディベアを受け取った。水兵服を着た可愛い子だった。赤ん坊のように抱くと、何も感じていなかったはずなのに、愛しい気持ちが湧いてくる。
こんなに嬉しいプレゼントをもらったのは初めてだった。
「あ、ありがとう」
「いいっすよ、これぐらい。それで次はどうします? 実は近くに植物園があるんすよ。イーズで定番のデートスポットなんすけど、どうっすか?」
「……行くわ」
植物園はイーズの路面電車(トラム)の路線の終点にあった。親子連れが遊ぶ草原の中、ぽつんとガラス張りの植物園が建っている。大きな鳥籠の形にも似ていた。
内部は温かい。南国のカラフルな花々が咲き乱れている。私が本でしか見たこともないような大きな赤い花、濃い緑色をした大きな葉っぱが生い茂り、蛇行した通路を歩いていく。人影がないところがないほどに、人も集まっていた。
「定番だけあってカップルが多いのね」
人目をはばからずキスを交わす恋人や夫婦が多い。時代も変わったものだ。
「雰囲気がありますからね。リディさんはどうっすか?」
「うん、好き。でも、他の女の子と一緒に来たのなら嫌いになるかも。二人だけの思い出にしたいじゃない?」
テディベアを抱えたまま振り返れば、彼は目を丸くして立ち止まっていた。
「今日のリディさんは、何というか、可愛いっすね。朝からずっと思ってたんすけど、俺に心を許してくれているとか?」
「……しらない」
テディベアを盾にして、表情を隠す。
「しらないってなんすか。ずるいなあ。好意を持っているのは俺だけってことっすか? あー、残念」
「だってわからないもの、本当に。そんなに経験だって……」
ちらりとレオを見る。彼は首筋を赤くしながら耳元のピアスをいじっている。後ろにいた中年の夫婦が冷やかしにヒュウ、と鳴らない口笛を吹いて抜き去った。
「参ったな、もう……。そうだリディさん、食事っす。夕食を食べましょう!」
彼はノスタルジックな雰囲気のする素敵なレストランに案内してくれた。私はメニューを持ってきた初老のウェイターにこう頼む。
「この店のおすすめは何ですか?」
「はい?」
彼は、私とレオを見比べた後、訝しげな表情を浮かべるが、すぐに「グラーシュですよ」と答えた。
「では、それで」
注文を受けた店員が奥に消える。そしてうきうきしながらレオに微笑みかけた。
「楽しみね。美味しいかしら」
「リディさんは初めてっすか? グラーシュは」
「ええ、そのはずよ」
「……リディさん」
「ん?」
レオは背筋を伸ばして私を見ていた。その表情に笑みはなかった。
「この店に来たのは二回目っすよ」
「え? そ、そうだったかしら。随分前だったからちょっと忘れてしまったのね」
「一回目に来た時よりも忘れるほどの時間は経ってません。それに、俺たちが初めて話をしたのも、ここです。俺とリディさんはここで、一緒に《金糸雀(カナリア)館(ハウス)》に行こうって約束したんすよ。リディさんがあの日記に興味を持ったから」
「そ、そうよね。どうして忘れていたのかしら……」
しどろもどろの体で言えば、レオの雰囲気が段々と悲しげなものに変わっていく。私は焦った。
「やっぱり、どうしても違和感があったんすよ。リディさんとは短い付き合いでしかないんすけど、それでも人となりはわかるぐらいには話したつもりっす。俺の知るリディさんは、きっと俺のことは好きじゃないし、仮に好きだったとしてもわかりやすく態度に示す人ではないんだろうと思うんすよ。それに、俺自身、リディさんに好かれることは何もやってないんす。……何も」
グラスに入った炭酸水を彼は一息に口に含む。きつく結ばれた口から堅い声がした。
「あなたはリディさんとはきっと別人です。何者なんすか」
彼は薄皮の下に潜んだ《私》に気付いた。それが辛くもあり、嬉しくもある。彼は《私》を見つけ出してくれた。
テーブルの上にテディベアを横たわらせ、微笑みを浮かべた私は頬杖をつく。小首を傾げ、唇を小さく開く。
「私? 私は『マリー』よ」
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