第20話 正体
自室の白い壁は
『本日のトップニュースです。現役下院議員のマクレガン氏が刺されて意識不明です。繰り返します、下院議員のマクレガン氏が刺されて意識不明です。午前十一時頃、下院議員会館前でのことです。詳細は不明、犯人の女性は現行犯逮捕されました。犯人の女性は支離滅裂な主張を繰り返しており……』
女性ニュースキャスターが興奮気味に語っている。
そういえば、彼は政治家の中でも特に注目されてきた人物だった。それが女に刺されたとなれば、どれだけセンセーショナルなニュースになるか。今頃、あることないことが
今日はどの新聞もどの放送も同じニュースばかり流している。心が痛くなるが、昼過ぎに早退してからずっと情報を追わずにはいられなかった。
とにかく頭を入ってくる情報でいっぱいにしたかったのだ。
気を抜くと、血をたくさん流していた議員の姿が思い出されてたまらなくなる。
自室に鎮座する作業机には、またあの日記が乗っていた。それを手に取り、『死にたくない』の文字を指でなぞる。
すべてはこの言葉から始まった気がする。
私の周りで何が起こっているのだろう。
昼間の彼女は私を狙っていたのではないだろうか。
だとすればこれで二度、私は死にかけていたことになる。マクレガン議員は私をかばって負傷したのだ。
ドレス姿の若い女性。あれは誰だろう。ふふふ、と私を笑っていたのも彼女だったのではないか。今回の件にも深く関わっているのだろうか。
どうにか終わりにしてしまいたいのだが、相手はこの世の者とは思えない。しかし、何とかしなければまたどこかに被害がいくかもしれない。
もう怯えているだけではいけないのだろうと感じた。
翌日、休暇を取った私は朝早くイーズへ出発した。駅前でタクシーを捕まえて、向かうは《
灰色の館は、空の色と同じぐらい不気味に佇んでいる。
「あら、あなた。フロベールさん?」
館に歩み寄ると、玄関脇にあった小さな花壇に水をやっていた老女がこちらを振り向き、驚いた声を上げた。
「こんにちは」
「どうなさったの? おひとり?」
「ええ。突然押し掛けるような形になってしまい、申し訳ありません。ですが、少し気になったことがありまして。よろしければ、図書室をもう一度見せていただけませんか?」
「図書室を?」
穏やかだったミュラー夫人が顔を顰める。
「どうしてそんなことを?」
答えを見せるように革のカバンから件の日記を取り出した。
「この日記の調査の一環です」
そう。不承不承の体で彼女は私を館に招き入れてくれた。真っすぐに図書室を目指して細い廊下を歩いていく。
「あの子のいるところではいいにくかったのだけれど。わたくしはこの館が嫌いなの。あの子は古いもの好きだから、何でもかんでも古いものは尊いのだと持ち上げたがるところがあるでしょ。でも、古いものは良いものだとは限らないのだわ」
「わかります」
「いいえ」
夫人はきっぱりと言い切った。
「フロベールさんはあの子と同じ、『あちら側』の人間だわ。古い本をたくさん相手してらっしゃるのでしょ? わたくしにはまるで化石と終わらないダンスを踊っているよう。いいえ、化石ではなくて、骸骨とかしら? 古い物には価値がある。けれど古いからこそ恐ろしい。気が付かないうちに私たちの心を絡めとって離さなくなるのよ。そういうことは思われない?」
「……いいえ」
沈黙の中、階段を上がる。図書室に入った。
植物の隙間を鳥が飛び回っているようにも思える素晴らしい天井画は以前、見学したものと同じ。今回は天井画の鳥の中にフクロウがいるのを見つける。奇しくも女王の彫像の肩にいたフクロウと同じメンフクロウであった。
「鍵はお預けしておくわ」
扉の外に留まった夫人は言って、私に図書室の大きな鍵を渡してくる。
「どうしてって聞かないでいただけるかしら。ここは嫌な場所なの。早く壊してしまいたいぐらい。この館もいっそ消えてしまった方がよいのよ。だってここには……」
ごほっごほっ、と夫人が大きく咳き込み、背中を丸める。
「大丈夫ですか」
「――ええ。無事よ」
顔を上げた夫人はにこりと笑う。
「それよりも、フロベールさん。あなたは人に恨まれたことはあって?」
「はい。それなりに」
「人を恨む気持ちはあって?」
「多少は。でも、深い恨みを持つほどの経験はないと思います」
「わたくしはあるわ。夫をね、殺してやろうかと思ったこともあるの。外見は立派に取り繕っていたけれど、わたくしのことなんていつもほったらかしで、他に女を作っていたの。そのくせ、こんな辺鄙な土地の館を買っていて、わたくしに押し付けたまま死んでしまったの。あんまりでしょ? 寝ているあの人の首に手をかけて、絞めてやろうとしたの。何度もね。結局、殺せなかったけれど。フロベールさんにはそんな気持ちはわかって?」
「わかりません」
素直に首を横に振るが、何かがおかしい。
夫人はこのようなことを言う性格だっただろうか。
「わたくし、腹いせにあの人の遺言を守らないで遺体を火葬にしたの。燃やした灰は全部海に捨てたわ。あの人の身体の断片もこの世には残らなかったわ」
ねえ、フロベールさん。ベルベッドのような柔らかな声音が耳を打つ。
「首はまだ痛い?」
背後に何かの気配を感じて、振り返る。
金縁の大きな姿見がある。そんなもの、以前来た時にはなかった。
鏡の向こうから私を見返し、ふふふ、と笑う女がいた。
驚愕のあまり、息が止まった。
その顔は、私のよく知る人にあまりにも似ていた。
それは例えば、前世の私が鏡に映りこんだ時に出会う人。現代でも肖像画や
――『私』。
――女王マリー=テレーズ。
女の顔は、私の前世、マリー=テレーズ女王のものだった。
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