第19話 狂気

 午前中、出勤してすぐに呼び出しがかかった。場所は下院議員会館。先日依頼された調査資料をかき集めて、マクレガン議員のオフィスに向かう。


「やあ。リディ女史。今日も説明をお願いするよ」

「おはようございます。本日もよろしくお願いしますね」


 入り口のドアを開けた議員が爽やかな笑顔とともに中へ迎え入れる。


「あれ。今日はスカーフをしていないんだね。似合っていたのに」

「ありがとうございます。それではさっそく始めましょう」


 議員のリップサービスもそこそこに聞き流し、私は議員と対面に座って、資料を広げる。


「君が私の担当を降りると聞いたよ」

「ええ、そうさせていただきたいと思いまして」

「どうして?」


 私は資料に目を通したまま告げる。


「それよりも仕事の話をしませんか? 時間は有限ですよ」

「それもそうだ」


 三十分ほどで資料の説明を終える。


「もしや、彼女が君に迷惑をかけているんではないかな。彼女はいつも強引だからね」


 一拍遅れた後、彼の話が今行った資料の説明ではなく、それより前にしていた話に戻ったのだと気づく。


「そういうわけではありませんよ。そろそろ交替時期になってきただけです」

「大体、私の担当を外れる時ってみんな同じようなことを言うよ。たかだか数か月も経たないうちに何人も替わるなんて明らかにおかしいことさ。みんな、彼女を怖がっているんだ。君だけは少々違っていて、彼女をある程度牽制しつつ、上手くやってきていたと思うよ」

「私としては上手くやれていたとは思いませんでしたよ。あの『奥様』には何もかも叶う気がしません」

「本当にそうかな?」


 資料を片付けようとしていた手が止まる。上から議員の大きな手がかぶさっていた。


「これでも世界中の女性の中で一番君を評価しているつもりだ。仕事中の君も素敵だと思っているよ」

「……どういうつもりですか?」

「うん? 君を口説いているんだよ。デートしてくれないかなあって」

「冗談を言っている場合ではありませんよ」


 私はこれで会うのも最後かもしれないと思ったので、あえて嫌われるようなことを口にする。


「議員はご自分のイメージを大切になさってください。この状態でもセクシャルハラスメント案件と判定されますよ。最近はそういうのは厳しいんですから」

「確かにそうだ」


 議員は軽く笑いながら両手を上げる。

 私はほっとした。さすがに今は冗談の域を越えているように思えたのだ。


「これでもクリーンな若手政治家で世間には通っているからね」

「不倫や浮気なんてもってのほかですよ。政治家にふさわしいとは言えないでしょう」

「そうだとも。特に既婚者であるならば……」


 彼の口がふと閉じる。


「人生はままならないものだと思わない?」

「まあ、それはその通りですね」

「リディ女史はいつまで経っても私の秘書にはならないし、デートの誘いにも応じてくれない」

「当たり前ですよ」

「そうだね。君のそういう態度は安心できるよ。うん、いいね。すごくいい」


 よいしょ、と彼は立ち上がった。


「湿っぽい話はこのぐらいにしようか。職場に戻るんだよね。入り口まで送ろう」

「そこまでしていただかなくても自分で帰れますから」


 いいから、と後ろから軽く背中を押されて、そのまま廊下に出た。

 議員会館は廊下でも人の行き交いが多く、一階のロビー前には次々と黒塗りの高級車が入っては出ていく。

 ニュース映像でよく流れる顔もちらほらと見受けられた。誰もが颯爽と急ぎ足で内へあるいは外へ向かっていく。まさしくここは国の重要機能を担っているところなのだ。

 あなた、とマクレガン議員に声がかかったのはその時だ。

 若い女性が手を大きく振って、カツカツカツ、と走って来た。


「迎えに来てくれたの? うれしい!」


 ロビーで大声を発した彼女は周囲の視線を一身に集めていた。

 議員は私を見て小さな声で「ごめんね」と言う。どういう意味かわからずに見上げた議員の横顔は湖のように凪いでいる。


「どうしましたか? 割り振った仕事は?」」

「終わったわよ。簡単だったわ」

「また誰かに押し付けたんだね」

「いつものことじゃない」


 今夜はどうしましょうか、と猫なで声の彼女が言う。

 私はと言えば透明人間になったような気分だ。彼女は隣にいた私を視界にすら入れていない。私は彼らを置いていくタイミングを失った。

 彼はあくまでにこやかに彼女に語り掛けていた。


「勝手にしたらどうかな。与えた仕事さえこなそうとしないのなら、あなたを解雇しなければならないね。この間も話しただろう?」

「ひどいわね」


 マクレガン議員の腕を取ろうとした彼女だが、彼はそれを拒んだ。


「ひどいのはどちらだろうね。この二年半、私は何度も何度もあなたに忠告もしたし、説得もしてきたのに。あなたは何も学ばなかったのだね」


 彼女はまるで小動物のように小首を傾げた。

 愛されているのを疑わない瞳をしている。


「そんなことよりもさっき欲しいバッグを見つけたの。でも二つあるからあなたが選んでくれる?」

「しないよ。そうやっていつも話を逸らすから私もこんなところで話さなくてはならなくなるんだよ。残念だ」

「不思議なことを言うのね。ここは夫婦で触れ合うところではないのよ?」

「……あなたはすごいね。さすがにその反応は予想外だった」


 彼が呆然と呟いた。聞いているだけの私まで彼に同情しかけた。明らかに二人の会話はちぐはぐで噛み合っていなかった。そのことに彼は気づいているのだ。


「これは私が甘かったからかな。昔からハインツ先生にはとても親切にしていただいたから、あなたのことは大切に扱ってきたつもりだよ。それに政治に関わる者としては人に嫌われることもしたくなかったのに。だが、私生活にまで介入されつづけるのも限界なんだよ。私の心にまで土足で踏み込もうとしないでくれ」

「そんなこと」

「ないとは言わせないでくれ。本当はいろいろと言いたいが、これでも押さえている方だ。あなたの名誉のために」


 もう私にはどうにもできない。それから彼はこうも付け足した。


「悪いが、ハインツ先生に話を通しておいたよ」

「あら、パパが何の話かしら?」


 彼女は鈍感だった。第三者の私でも議員から醸し出される苛立ちに震えあがっているのに。


「聞いた話では、あなたをどこかへ留学させるつもりのようだよ。今頃はあなたの部屋の荷物を運び出しているのではないかな。留学まではあなたを実家に置いておき、勝手をしないようにするらしいから」

「まあ。パパも勝手ね。ちょっと待って、今電話するから」


 彼女は携帯端末メルクリウスを操作する。耳に当てた彼女が何事かを話しているが、だんだんとその場で喚き出し、何度も何度も片手で前髪を掻き揚げる仕草を繰り返していた。

 その間に私は彼に向き直る。


「あの、議員。ずっとここにいるのも何なので私はそろそろ……」

「そうだね。こちらの事情に巻き込んでしまい、君には申し訳ないことをしたね。また会えるのを楽しみにしているよ」

「ええ。それでは失礼します」

 

 そのまま歩き出すと、肩にどっと疲れが押し寄せてきた。

ロビーから出たところで、外がいつの間にか曇り空になっていることに気付く。早く帰ろうとまた足を踏み出した時、「ふふふ」と耳元で女性の声をする。

 思わず振り返ったその時。エントランスから髪を振り乱した女性が走って来た。右腕を大きく振り上げている。何かを持っている。

 何だろう、と不思議に思って、眼を凝らす。彼女が握っていたものは小さなナイフだった。

 逃げなくてはと思ったのに、身体が凍り付いて動かない。

 奇声を上げた彼女の血走った眼と合った瞬間、首だと直感する。

 《金糸雀カナリアハウス》での出来事が脳裏をよぎった。

 だが、紺色の背中が私と彼女の間に割り込んだ。

 まるで彼女を抱きしめているようにも見えたその人影は、やがて崩れ落ちた。

 マクレガン議員だと気づいたのは、倒れた彼に駆け寄る人が現われてからだった。

 女性は警備員姿の男性たちに羽交い絞めにされている。

 信じられない気持ちで議員の元に走った。


「議員……」


 腕の辺りを押さえている彼は苦悶の表情を浮かべている。

 不覚にも嗚咽が漏れた。涙が止まらない。

 どうしてこんなことに。

 輪郭があやふやな景色の中、不安げな群衆が彼を取り囲んでいる。その中に、古い肖像画にいるようなドレス姿の女性がいて、「ふふふ」と軽やかに笑っている。

 目を凝らしてその顔を見ようとした時には、もういなくなっていたのだった。

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