第18話 レオ・サーチマンの報告
夕方に待ち合わせた小さなカフェ。先に席に着いていたレオ青年に黒のファイルを手渡された。
「あの日記のことを少しでも知りたいと思って、イーズの公文書館やうちの大学から手当たり次第に資料をかき集めてきました。よかったら使ってください」
「わざわざありがとうございます。ちょうど私も調べに行こうと思っていたところだったので」
多忙が続き、なかなかイーズまで調査しにいく予定を立てられないところだったので彼の親切を有難く受け取ることにした。
ファイルの中身を見れば、目次と資料の種類、コピーした資料と資料番号が表記されている。なかなか見やすい作りだ。
「どうっすか。俺なりにまとめてみたんすけど」
「十分だと思う。かなり手間が省ける」
「
彼は満面の笑みを浮かべた。そして湯気が立ち上ったコーヒーカップに角砂糖を一つ入れ、驚くほど優雅な仕草で飲んでいる。
そういえば、レオ青年は「坊ちゃん」と呼ばれていたのだった。
「ところでリディさんはあれから何か起きなかったっすか。あの日記を持っているんすよね」
「特に何もなかったですよ。きっとあの時はミュラーさんが私のカバンに入れてしまったのを忘れてしまっただけなんじゃない? そういう物忘れってたまにあるでしょ?」
「そうっすね。それなら、まあ」
相手はがしがしと頭を掻いた。
「資料の方はしっかりと目を通しておくわ。興味深いことも多そうだし。……そうだ、この書類をミュラーさんに渡しておいてもらえますか」
「これは?」
書類を手に取るレオ青年。
「審査に通るかはわからないけれど、せっかく古い直筆本なら
「へえ。それも良い手っすね。先生あたりは残念がるかな。うちの大学に寄付すればいいじゃないかって」
「そこはミュラーさんの判断にもよるけれど、イーズ大学が受け入れてくれるならそれもいいかもしれないね。地元の資料は地元にあるのだが一番だと思うから」
「俺はきちんと管理して、手元で見ることができるならどっちでもいいんすけどね。それじゃあ、この書類は確かにおばちゃんに渡しておきます」
彼はブリーフケースに綺麗に書類を揃えて入れる。話も区切りがついたところなので、そろそろ帰ろうかと考え始めたところで、「そうだ。リディさん。さっき渡したファイルですけど」と話を継ぐ。
「面白い話が出てきたんすよ。どうっすか、聞いていかないっすか?」
「面白い話? どんな」
まあ、待ってくださいと言ってから、彼はコーヒーのお代わりと野菜ベーグルを注文した。頼みながら「お昼食べていないんっすよ」と言い訳めいたことを言っている。
「これは嘘か本当かわからない話っすよ。うちの大学図書館の貴重書コレクションの中に今から百年ほど昔に刊行された『イーズ見聞誌』という本があります。これは『イーズ』の名所とかを書いていある地誌の類なんすけれど、たまに昔から伝わる怪談話や滑稽譚も入っていて、けっこうおもしろい本です。その中には、『幽霊館』というお話があったんすよ」
彼はまた別の印刷用紙を取り出した。
「これはそのコピーっす。ファイルに入れようかどうしようか迷っていたやつです。読んでみてください」
《幽霊館》
曰く、とある若い女性が古い館に宿泊した。深夜、見知らぬ男が現われた。
『おまえは××ではない!』
男は叫ぶと消えた。翌朝、館の主人にこの不思議な出来事を伝えると、彼は蒼白となり、女性の無事に安堵した。
家の恥だから内緒にしてくれと前置きした彼が言うには、
「我が祖先の幽霊です。飼っていたお気に入りの小鳥を死なせてしまい、狂い死にした男です」
たかだか小鳥のために死んだ男が彼女の前に現われたわけではなかろうに。
今でもその館には時々、若い女性が泊まると男の幽霊を目撃するらしい。そのうち一人の女性は素晴らしい庭園に誘われたところで『違う!』と首を絞められたと話している。
なお、その庭園の隅の小さな井戸の跡に名もなき若い女性の遺体が埋められているらしいが、館の住人たちは近寄らないようにしている。
「もしあなたが××だったならどこかに連れていかれていたかもしれない」というのは主人の談である。イーズ近郊のこの名家はたまにこうして若い女性を泊めて、その存在を確かめる習慣があるのだということなので、未婚の若い女性は特に注意されたし。
なかなか意味深な文章だと思う。
館に泊まる若い女性が目撃する男の幽霊。館の場所はイーズ近郊で、名家の一族が住む。誰かを指していると思われる「××」。
さらには《首を絞められる》。すぐに今身に起こっていることと結びつけられないが、何かを示唆しているようだ。
「ぞっとしない話ですね。あそこにある井戸の跡を掘り返せば女性の骨が出てくるかもしれないってこと?」
「さあ。庭園の井戸の跡なんて、今ではどこにあったのかさえわからないっすよ。ああ、でも昔、おじさんが井戸を探していたことがあるっておばちゃんが言っていた気もします。おじさんは稀覯本の類も好きだったから、この本のことも知っていたかもしれないっすね」
「『おじさん』というとミュラーさんの旦那さん?」
彼は頷いた。
「はい。おじさんは偏屈な人だったんすけど、おばちゃんと仲がよくて、お似合いだって昔から言われてました。そのおじさんが全財産をはたいて買ったのがあの館なんすよ。一目惚れして、即決だったらしいっすよ。まあ、買ってまもなく病気で死んじゃったので、今ではおばちゃんの方が長く住んじゃってますけど」
「へえ……。興味深い話ですね」
「ただ、扱いには困る話なんすけどね。ちなみに、こっちはべつの話になりますが、日記の署名と同じマリ=テレーズ女王時代の館の持ち主はアレッサンドロ二世という人だそうっす。父親が早く亡くなっていたため、十代には爵位を受け継いだ人でした。なかなかの名君だったらしいです。うちの大学にも多大な寄付をして、発展に貢献したらしいっすよ」
「アレッサンドロ二世……」
サン=モナーク家のアレッサンドロ二世。聞き覚えのない名前に内心首を捻る。
彼の前の皿が空になった。
「はあ、旨かった」
「それはよかったです」
私は最後に残していた一口分のコーヒーを飲み干した。立ち上がろうとしたところで彼が言う。
「次はいつ会えるんすかね」
「うん?」
「俺、結構リディさんと会うの楽しみなんすよ。俺の知らないこといっぱい知ってるし。話すだけで刺激になるんで」
「どうもありがとう。私もサーチマンさんと話すのは楽しいわ」
「イーズと首都は意外と距離があるって思いません?」
彼は銀色のピアスをいじりながら言ってみせる。
「イーズもいいところだと思いますよ。勉強に励むにも環境がよさそう」
「また首都に来てもいいっすか。……その、本を読みに」
「ええ、どうぞ。
「わかりました。……じゃあ、また」
街灯の明るい店の外で別れる。
春の夜はまだ肌寒さが勝る。身体にストールを巻き付けてから家路についた。
我ながら面倒だと思うのだが、想像という名の化け物が私の心に巣くっている。これが非常に厄介なもので簡単に身動きをとらせなくなるし、私の本心も束縛しようとする。
心の化け物が言うのだ、『彼はあなたに好意を抱いている。その心を都合よく利用して楽しいの?』。
私は何も知らない顔を装って答える。『そんなの、本当かどうかまだわからないじゃない。いいよ、これぐらいは』。
こういう時、人との距離の取り方はいつも下手くそだった。
そこばかりは前世も今も変わりなく。いつものことだなと一人で笑った。
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