第17話 女王の彫像

 自分のデスクで今日の予定を確認すると、貴重書閲覧申請が午前中に一件入っている。例のイーズ大学の先生だった。

 指定時間までに簡単な雑務を済ませておく。書庫まで貴重書を借り出し、キャスター付きの荷台に乗せると、仕事用の端末に呼び出しがかかる。


 国立国民議会図書館ポンパドーラの入り口ホールには先生の姿と、青髪の青年が一人。


「リディさん、こんちは」

「……こんにちは。先生、珍しいですね、学生を連れてこられたことは今までありませんでしたよね」

「ああ。彼が私の調査に同行したいと言い出してね。私の研究に興味があるんだと言われたら、断るわけがないだろう?」

「なるほど」

「君は彼と以前、話したことがあるんだそうだね」

「ええ、そうです。少し気になったことがあったので。よくしていただきました」


 レオ青年はピアスをいじりながら所在なげな顔をしている。


「サーチマンさんは国立国民議会図書館ポンパドーラに来るのは初めてですか?」

「え、いや、そうっすね。何度か来ていますが、こういう本格的な調査は初めてっす」


 先生は胸を張った。


「最近の彼はなかなか頑張るようになってね。以前よりは、というレベルだがね。よく私のところにも相談しにくるようになった。彼も研究者を目指しているようだから、今後、ここにも足を運ぶこともあるだろう」

「承知いたしました。それでは、閲覧室の方へ」

「いや、ちょっと待った」

「はい?」


 なぜか先生が閲覧室に案内しようとした私を遮った。


「今日はサーチマンがいたせいで大事なルーティーンを忘れていた。行くぞ、サーチマン!」

「は、はいっ」

「え、先生? 今から閲覧時間ですが?」

「すぐ終わる。何なら君も来なさい! ルーティーンをやらないと気持ち悪いんだろ」

「え、えー……」


 小走りのおじさん、青髪ピアスの青年、私の順でエントランスから外に飛び出す。妙な三人組だ。

 


 国立国民議会図書館ポンパドーラ正面、建物から出入り口の鉄門までの中間には金色の女性像が設置されている。

 頭には王冠、片手には王杖、別の手は大きな楕円の鏡を持ち、こちらを照らすようにして支え、右肩には精巧な作りのメンフクロウを乗せている。

 王冠と王杖は王威の象徴。鏡とは真実を見通し、悪を撥ねつけることを示した寓意メタファー。フクロウも君主の知恵を司る。

 先生はこの女性像の前で直立し、左胸に拳を当てる。そのまま十秒ほど静かに呼吸した。こちらに向き直る。

 像の下部にはこう刻まれている。


『マリー=テレーズ女王に捧ぐ』


「ついでに君たちも敬意を表してみたらどうかね」

「そうっすね」


 レオ青年も師に倣って同じ仕草をした。一応、私もしてみるのだが、あまり気持ちはこもっていない気がする。


 前世の私の彫像は、アルカイックスマイルを浮かべていた。出来栄えは美人度五割増し。特に目と胸と腰に補正の痕跡が見える。みんな、美人でグラマーな女王の方が好きだよね。


「実は、国立国民議会図書館ポンパドーラの前身となったコレクションを蒐集したのはマリー=テレーズ女王なんだよ。今でもあまり知られていないが、この像を立てた人物は彼女の功績をちゃんとわかっていたんだろうね」

「先生は女王のことを持ち上げすぎですよ。彼女だってその時は何も考えていなかったかもしれませんか」

「なんだって君は彼女に対して辛辣なんだ。なにか恨みでもあるかね」

「そういうわけでは……」


 まるで偉業を達成したかのような面持ちの『彼女』。これを見上げれば、人々の思い描く虚像が私自身の持つ実像よりもはるかに大きいことに気付くのだ。

 あそこにいる『女王』は私とはきっと別人だろう。

 女王像の肩にいる精巧なメンフクロウは、黒曜石を嵌め込まれた眼で私の複雑な内面を見つめているかのようだった。このフクロウ、生気がありすぎて、眼が本物の生き物のように濡れている。夜には前を通りたくない。


「僕たちのように、古い書物で飯を食っている人間は特に過去へ敬意を表さねばならない。女王だけじゃない、文字に関わった大勢の人間がいたからこそ、今日の膨大な書物の集積がある。頭が下がるよ、まったく」

「先生は毎回、こんなことをしていらっしゃるのですか。知りませんでした」

「思い出したらだがね。おい、どうしたサーチマン。ぼうっと像を見上げて」

「ん? あーっと、くだらないことっすよ。あの像の雰囲気、なんかリディさんに似てるなあって」

「彼女にかね。うむ、考えたこともなかったね。どうだろうねえ」


 先生は顎に手を当て、像と私とを見比べ始めた。

 居心地が悪くなり、首を竦める。

 

「先生。そろそろ閲覧室に戻りましょう。今日は午後二時までのご予定ですよね」


 呆れた声を出して、先を促した。


「おや、そうだった。ではゆこう」


 また建物内へ戻りながら、先生は上機嫌に話し続けた。

 今日はいつにもまして口が動くと思ってみれば、先日奮発して買った本に夢中になり、徹夜で読破していたということだ。


「僕の思想はね、文学をやる者は気色悪い変態ということだ。人に譲れないこだわりを持てなければこの世界に入っちゃいけない。要は女の鼻先を舌で舐める程度で驚いてはいけない」

「なんすか、その妙な喩えは」

「僕の性癖の話だ。僕は毎夜、寝ている妻の鼻を舐めるのが趣味なのだ」

「なかなかイカれてるっすね。それで奥さんはどういう反応をするんすか」

「『あなたのそういうところだけは絶対に理解できないわ』と嫌悪感たっぷりに言われているに決まっているだろうに。まあ、それはいいのだよ。この他にも僕は人に言えないような性癖を十以上は持っているが、やはり人間的に変態でなければ、突き詰めて考える作業は難しいと感じる。妥協とは敗北そのものだ」

「へえ」


 レオ青年は素直に感心していた。私は頭が痛くなってきた。


「サーチマンはあるかね。そういった変態性が」

「俺の頭の中、八割はいかがわしさで占められているっす。変態っす」

「残りの二割はなんだね」

「フツーに研究っすよ。……あ」


 彼が、何とも言い難い顔をしているはずの私に気付く。


「会話に夢中になっているところに申し訳ありませんが、ここは公共の空間なのでもう少し声のトーンを落としていただければ」


 国立国民議会図書館ポンパドーラの正面エントランスはガラス張りのドーム構造になっている。小さな声でも非常に響く。

 他人に鈍感な二人は、自分たちがいかに注目を集めているか、気づいていなかった。

 先生も、周囲を見回し、私の顔に視線が戻る。


「僕、とうとうやらかしてしまった……なんてこったい」


 急に先生は猫背になって、そそくさと閲覧室に行こうとしてしまう。

 意外と繊細だった。


「普段はかなりキツイ先生っすけど、ああいうことがあるからみんな、先生のこと嫌えないんすよね。カワイイでしょ。女子学生にも隠れファンが多くて」

「なんとなくわかります。親しみが持てますよね」


 隣の彼は堂々と立ったままだ。こちらの心臓ハートは鋼鉄製らしい。続けてこう言った。


「そういえば、少しお話ししたいんすけど、仕事終わりに会えないっすか?」


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