第16話 悪夢
あれは女王に即位する前。小さな城に住んでいたころ。
私のいた部屋の窓から芝生の庭を見下ろしているうちに、ぽとりと何かが落ちたのが見えた。
あれは何。
外に出てみれば、小鳥がもがいている。足を怪我して動けなくなっているらしい。
ハンカチで包み、庭の四阿にいたばあやにそっと差し出した。
「ばあや、鳥がそこに落ちていたの。どうしよう」
「これはコマドリですよ。他の動物に襲われてしまったのかもしれませんねえ。かわいそうに」
「うん。本当にかわいそうだわ。ねえ、この怪我は治るかな?」
「そうですねえ……」
彼女は小鳥を覗き込み、しわくちゃの顔でにこりと笑む。
「マリー様、この子を看病していただけますか?」
「いいの?」
私は舞い上がった。小鳥を治してあげたいと思っていたから。
「ええ。でも、元気になったら空に返すことを約束してくださいましね。最後までちゃんとお世話できますか?」
「うん!」
ばあやは蓋つきの小さな匣に綿や布を入れ、小鳥のベッドを作ってくれた。餌は昆虫だと聞いたので、庭園の木のうろや根を探し、ミミズや蜘蛛、アリを集めた。葉に水滴を乗せて、嘴の近くに置く。
小鳥の居場所は私の部屋でも日当たりのよい窓際のサイドテーブルに決めていた。
だが翌朝、起きたら小鳥は匣ごといなくなっていた。私は慌ててばあやの元へ走った。
「ばあや、あの鳥はどこ?」
「さきほど見たら死んでしまっていたので庭に埋めておきましたよ」
「うそ!」
「本当ですよ」
ばあやはいつも以上に落ち着いている様子だった。
私はばあやが小鳥を埋めたと言ったところで土を掘り返した。木の匣がすぐに現われる。蓋を開ければ冷たい小鳥が横たわっていた。
「昨日まで元気だったのに」
「ええ、そう見えたかもしれませんね。ただ、怪我もしていましたし、昨夜の寒さには耐えられなかったのでしょう。こういうこともあるのですよ」
「でもばあや」
私は納得できなかったので、ばあやをじっと見上げた。しかし、ばあやは首を横に振る。
「人であっても生き物であっても、いつ死んでしまうかもわかりません。ばあやも散々生きましたから、もうじき死ぬでしょう。マリー様は後悔のないように生きてくださいましね。ばあやとお約束ですよ」
ばあやの手には杖がある。手の甲は日焼けして、血管が浮き上がっていた。それは子どもだった私の手とはまるで違うものだ。
急に不安になった。ばあやの手はあまりにも力がなかったから。
「そんなこと言わないで」
「いいえ。ばあやはこの可哀想な小鳥を通して、命の儚さを知ってほしかったのです。マリー様はこれからたくさんの方々との別れを経験するでしょう。そのたびに哀れな小鳥とばあやの言葉を思い出してほしいのです。どうか、マリー様の人生が幸多きものであるよう、ばあやは祈っていますよ」
ばあやの目に涙が光る。私はそれ以上、何も言えないまま、ばあやから顔をそらしたものだ。
その三日後、ばあやは風邪をこじらせてあっけなく死んだ。だから小鳥のことは今でもよく覚えている。物心ついてから初めて身近な人が亡くなったのもこの時のこと。
小鳥と言えば、
粗末な書き物机とベッド、本棚に囲まれて、日がな一日過ごしている私。
格子で仕切られた窓の外で、野にいるコマドリたちが舞っているのが羨ましい。
部屋を見渡せば大きな姿見があった。宝石や刺繍、レースに彩られたドレスを着ながら、ぺたりと床に座り込んでいる私がいる。
平らなお腹を撫でた。
しばらく月の物が来ていなかった。
彼もここに来ていない。金の工面のためにイーズに出かけると言っていた。
もう死にたいとずっと思い続けてきた。どうしてだかわからなかったけれど。
だから鏡までにじり寄り、椅子を叩きつけた。ばらばらとガラス片が絨毯に散らばる。
首に押し当てて引くと、鮮血がほとばしる。どくどくと、心臓が懸命に血液を送り込むが、それよりも傷口から流れる血の方がはるかに多い。
痛みにたえかねて倒れ込む。深い絶望感とともに意識が沈みこんだ。
だが、次の瞬間にまた首に破片を押し当てている。結末がわかっているのでやめようとしたが、身体が勝手に鋭い凶器を振るった。
また死んだ。
死んだ。
死んだ。
死んだ。
死して終わりになると思うな。
キイィー。
耳をつんざく鳥の鳴き声が響く。
瞼の裏に差し込む朝の光とともに私ことリディ・フロベールは目が醒めた。時計を確認すれば午前六時。起床時間だ。
同じ悪夢を何日も見ていた。
初めはただの思い出だ。マリー=テレーズが幼い頃経験した出来事そのままに、あんなことがあったなと懐かしんでいたはずなのだが、途中から見覚えのない場面に転換し、なぜか首を切って死んでいる。女王の死因は病であったのに。
この悪夢が最悪なのは、起き抜けの身体が辛いということだ。異様な疲労感に襲われ、しばらく抜けない。
へろへろになりながらベッドから起き上がり、床に散らかしていた資料の山を避けながら姿見を覗き込む。
首筋にもう痣が残っていないことにほっとする。
「よかった。今日からスカーフも取れるかな」
鏡の向こうには浮かない顔の私が映っている。指を使って無理やり口角を上げてみたが、地顔の地味さは前世から変わりない。
もう少し美人だったら人生も違っていたのだろうか。国立国民議会図書館(ポンパドーラ)ではなく、ファッションショーのモデルになったり、舞台で女優になる将来もあったのかも。
それはそれで想像すると楽しいが、どんな顔でも結局、同じような生き方に着地し、
キッチンに行き、朝食を用意する。サラダボールに、オニオンスープ、切ったバゲットにジャムを付ける。最後にエスプレッソを一杯。
仕事に使っている革のカバンに持っていくものを詰めていると、机の上に例の日記が乗っていることに気付く。
すぐさま本棚の奥深くに入れ込んだ。どうせ、明日の朝にはまた机上に出ているだろうが。
今では持ち主のミュラー夫人も日記に怯えてしまって、返さなくていいと言っているらしい。見ていると、頭がおかしくなるんだそうだ。
したがって、私の手元に日記がまだある。
当の日記自身は私がお気に入りらしい。何があっても存在感を示そうとしてくる。
どうしたものか。扱いに困っていた。
職場には上司が先に来ていた。私の顔を見た途端、自分の鼻をつまみ、右手で距離を取ってみせる。
「おはようございます、室長」
「おはよう。フロベール君はまた一段と悪化したねえ」
彼は一人パントマイムを披露した。私と彼の間に透明な壁が見えるようだ。
「そろそろ今日あたり死にそうだ」
「ろくでもないことを言わないでくださいよ」
「いや、ほんとに」と言い出すかと思いきや、彼はうっすらと笑っているばかりだった。冗談に聞こえなかった。
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