第15話 退散
数日後。信じがたい話を聞く。私は思わず上司に二度聞き返した。
「私の書いた調査資料が届いていないからクレーム、ですか?」
「まだクレームというほどはないね。あちらは怒っていなかったし、どうなっているのかという問い合わせだよ」
そうですか、と下を向く。
もう新人と呼ばれるような時期は過ぎている。ここまで大きな失敗をするのも久しぶりだった。
慢心があったのかもしれない。
「それで、その資料が必要な審議はいつからですか?」
「今日の夕方だ。フロベール君、資料のデータは持っている?」
「あります。あちらの
「そうか。だがね、相手に届いていない以上、失態は君にあるってことはわかっているよね?」
「……はい」
私は唇を噛み締めたくなるのを押さえた。
「ご迷惑をかけ、申し訳ありません。私が直接、国民議会へ持っていきます!」
「よろしくね」
上司はのんきにひらひらと手を振った。
時計を見れば時間には十分間に合いそうだ。
慌てて駆け込んだ国民議会の大理石の廊下で、前を行く人の背中に声をかける。
「マクレガン議員!」
「ああ、よかった」
振り返った議員はにこやかに応じて、手招きをする。
「助かったよ。さっそくだけど、資料について説明してくれるかい? 短時間で全部把握するのは難しそうだからね」
「もちろんです、議員。今回は本当に申し訳ありませんでした」
「いいよ。君はいつもちゃんと仕事をしてくれているからね」
謝罪はあっけなく受け入れられた。
私たちは国民議会横の植え込み近くのベンチに腰掛けた。口早に資料のレクチャーをする。すると、彼はきっちり十分で内容を把握した。元々、地頭のいい人なのだった。
「なるほどね。これで何とかなりそうだ。ありがとう」
「いえ。こちらこそ資料を用意していたのに、不手際があったようで申し訳ございませんでした。今後はこのようなことがないようにいたします」
「そうだね。君の言葉は信頼している。再発防止に務めてくれたまえよ……なんてね」
軽い笑い声を立てた彼は大きく伸びをした。空の青を見つめ、軽快に立ち上がる。
「さっきまで別の審議をやっていて少し気づまりに感じていたところだったからちょうどいい気分転換になったよ。リディ女史のおかげだね」
言外に、「自分の失敗を気にしなくてもいいよ」と言われ、気を遣われてしまった。落ち込んでいるように見えたのかもしれない。
「これからお仕事を頑張ってください」
すると、ふっ、と議員が噴き出した。
「いい響きだね。夫を送り出す妻の台詞ってこんな感じかな? あとは君がキスしてくれれば心置きなく仕事に出かけられそうだね」
「しませんよ。早く行ってください。全国民が議員を待っていますよ」
「そうするよ。また会おう」
議員が議会の入り口に吸い込まれていくのを確認し、私は肩の荷が少し下りた心地で歩き出す。
大通りに出たところで「フロベール」と呼び止められた。振り返れば、今まさに会いたいと思っていた人物だった。
彼女はこの期に及んでどうしてそんなに堂々としていられるのだろうか。
「ごきげんよう。あの人の様子どうだった? あなたに怒っていたでしょう?」
「それよりも奥様。確認したいことがあるのですが、少しお時間いただけますか?」
「フロベール。あたしの質問が先よ。答えなさい」
返事するのが癪であったが、渋々と、
「議員は怒っていませんでしたよ」
「ふうん? 変ねえ、絶対怒ると思ったのに」
長いピンヒールを履いた彼女は腕組みをしてこちらを見下ろした。
「私、以前、書類を奥様に預けたことがありましたよね。議員に渡してくださると約束していただきましたよね」
「さあ? 何の事?」
いつもならば、
あら、やっておくわね、と軽い調子で請け負った彼女。封筒に添えられた長い付け爪は、いかにも仕事がしにくそうなほどにごちゃごちゃとした飾りがついていた。不安に駆られたのが印象に残っている。
「それでは、電子端末は? 書類のデータを送りましたよね?」
「なんのこと?」
私は他と文書のやり取りをする時、重要度が高いほど、保険をかけるのだ。電子上で一つ、紙媒体で一つ、バックアップで一つ。
秘書は議員個人の端末に送られてきたデータの消去ぐらいお手の物だ。それはもう、私の手で防げるものではない。
彼女は爪をいじりながら言い放つ。
「あなたが全部悪いだけの話でしょ? あたしに罪をなすりつけないでくれるかしら。あなた、あの人に相手されていないからって欲求不満なんでしょ」
私の頬がひきつる。人を召使のように呼び捨てておいて、「欲求不満なんでしょ」と言われた。私が主人を誘惑したメイドにでも見えるのだろうか。どちらが「欲求不満」そうに見えているのか誰かに問うてみたい気もする。
「……奥様は、夫の仕事を邪魔しているんですよ? わかっていますか」
「そうなの。それで?」
「議員の仕事は、国政に関わります。議員は、国の一端を動かす、重要な仕事をされています。奥様がしていることは議員ばかりでなく、国政にも害になる可能性があります。今回のような小さな件であっても、積もっていけばいずれは」
「うるさい。フロベールがいるから悪いんじゃないの。早く死ねよ」
「嫌ですよ」
どうでもいい相手から暴言を吐かれても、心には響かない。なぜならもう相手を『人間』には思えないから。
彼女という人はいつもそうだった。私を一方的に嫌いだけではなく、実害まで為そうとしてくる。初めの頃はそれに気づかないでどれだけ苦労したものか。
しかし、理解に苦しむ。どうして議員はこの女性を妻に選んだのか。私にはこんな感じでも、彼には欠点を霞ませるほどの長所が見えているのかもしれない。もうそう思い込むことぐらいしかできなかった。
ある意味、この女性の頭の回路を覗き込んでみたい。
「奥様も、やりすぎては愛想が尽かされますよ。夫の仕事の取引先にまで口に出すのは、妻の仕事ではないでしょう。まして秘書ならもっと取るべき態度があるでしょうに。我々、
少なくとも、担当している他の議員の秘書たちは素晴らしい仕事をしていた。時にこちらが勉強させてもらうぐらいだ。
それなのに。彼女は私を無視するように横を向く。そしておもむろに
「ねえ、あなた。今何しているの? 今晩も食事に出かけましょうよ。ついでにロメンダのバッグの新作が出たから見に行きたくて。ええ、いつものところで。今、面倒な女に絡まれていてうざくてたまらないから。付き合ってくれるでしょ?」
彼女は、何度も鷹揚に頷きの仕草を繰り返す。目だけがぐるんとこちらを向き、唇が弧を描く。
「誰のことかって? それは内緒。それよりもパパがあなたのことを褒めていたのよ。この間のスピーチが良かったみたいね……」
明らかに私の話を聞かない姿勢を取る彼女。さすがに私も平穏にやり過ごすのが面倒になってきた。別にこちらが彼女に対して気を遣わなければならない義理もなかった。
彼女を相手にしていると、自分が二回りも三回りも度量の狭い人間のように思えてくる。これ以上、冷静でいられる自信がなくなってきた。
彼女の傍らを無言で通り過ぎると、チッ、と後ろから舌打ちが。
思わず「品がない」と毒づいていた。
職場に戻ったところで、オフィスでコーヒーを飲んでいた上司に声をかける。
「室長。私をマクレガン議員の担当から外していただけますか?」
「おや、どうしてだい?」
「私以外の人が担当になった方が仕事は滞りなく進みそうで。後任は男性であることを強くおすすめします。柔な女性では心折れるかもしれません」
「トラブル?」
「ええ、まあ。以前から目の仇にされていましたし、最近は特に過激になってきているようですね」
奥様の事情も把握していた上司はコーヒーの残りを無言で啜った後、なぜか、アロマディフューザーを使いはじめた。やがてすっきりとしたユーカリの香りがしはじめる。
「彼の担当は難しいよね。これまでも何人もの女性館員が担当を交代させられてきている。でもね、男が来たとしても彼女は疑うんだよね。彼女は男であれ、女であれ、議員の心を自分よりほかに傾けることを許していなさそうだ」
「そんな事情は担当当初から初めて聞きましたが」
「やってみるまで相性なんてわからないだろう?」
ねえ? と穏やかな口調で聞き返されるが、上司のやり口を知っている私にはそれが嘘だとわかるのだった。
事情を聞かされたら私が断る可能性を見越していたのだろう。
「また、信じていない顔をしているねえ。ま、いいけど。この件、考えてみるけど、すぐに代わりを探すのは難しいよ。それにマクレガン議員自身はフロベール君を高く評価している。彼の気持ちとして代わってほしくないんじゃないかな?」
「それはありがたい評価だと思っています」
「どうするにしろ、しばらくは耐えるしかないねえ。アレの相手は大変だろうけれどねえ。あ、そうだ。彼女の血筋は知ってる?」
「彼女の父が大物政治家だということは知っていますが」
だからロメンダのバッグがどうのこうのと言えるのだろう。ロメンダと言えば、百年以上前から続く老舗の高級バッグブランドだ。バッグ一つで車一台ぐらい買えてしまう。
「そうだね。古くは貴族にも繋がる血筋なんだがねえ。家系図を辿っていくと面白いよ。自殺者と狂人を多数出している。……特に女系がね、どうしてもダメなんだよね」
「ダメ?」
「現代ならば遺伝子欠陥やら精神病で片づけられそうな人が多い。彼らは代々、血筋を薄くしようと様々な家と婚姻を結んでいたようだが、どうしても女系はダメなまま。逆に男性は偉大な当主を次々と輩出する。不思議なもので、何をやってもずっとその状態が続いているのだから、家系自体が呪われているんだろうねえ。たまにあるんだ、そういう家は。男女の場合が逆転している場合もある。下手に関わり合いになりたくないね」
「呪われているとまでは大げさではありませんか。それに、呪われている、の一言ですべてを許せるわけではありません。彼女自身に問題がないとは言えないのではないでしょうか」
私の抗議に、上司はにやっとする。
「そうとしか表現できないさ。僕は彼らの名前を見るたびに異臭がする。肉が腐ったような匂いがね。あれはきっと焼き殺したんだろうねえ。高い塔かな? いや、それは別かもしれない。餓死させた人もいるみたいだし」
上司は遠くを見た。遠くのどこを見ているのか、聞く勇気を持てなかった。
この上司は「視える」という噂がある。だから時々、変なことを言う。しかし、これまで深く追求することはなかった。深く茂みをつついたところで、蛇が飛び出して噛まれる事態にもなりかねない。
「フロベール君も随分、ひどい匂いをさせるようになったね。先日の休日明けぐらい? 濃い血の匂いがするから、僕はアロマを手放せなくなったよ。それでもここまで近いとキツイ。あと二歩ぐらい下がってもらえるかい?」
鼻をつまんでいる上司から距離を取る。腕の辺りを匂って見るが、私には何もわからなかった。
「よし、いいだろう。ではフロベール君は仕事に戻ってくれていいよ」
「室長。気になることばかり言われて、『仕事に戻れ』と言われましても。もう少し何とかなりませんか?」
「フロベール君は僕をスーパーマンや何かと勘違いしていないかい? 僕はただの図書館員だから、魔法は使えないんだよ。フロベール君の問題を解決する方法は持ち合わせていない」
何があったのかを聞くつもりもないしね、と彼は肩をすくめる。
「むしろ、フロベール君が近くにくると僕は嘔吐しかねない。すみやかな職務遂行のため、君は退出するのが賢明だ。さらば」
「室長!」
上司はおもむろに扇子を取り出し、アロマディフューザーからもくもくあがる蒸気をあおぎ、「悪魔退散!」と一喝。
「ふっくしゅん」とくしゃみが出てきた。しかもいつまでも止まらなくなってしまう。さすがにその場を離れざるを得ない。
「せいぜい死なないために頑張りたまえよ!」
上司の捨て台詞までとことんひどかった。
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