第14話 イカ墨パスタ

 お父さんがイカ墨パスタを作っていた。それはもう鼻歌交じりで。

 イカ墨は、イカのエラの間にある墨袋という部分から排出される粘性の高い黒褐色の液体のこと。この色はメラニン色素によるものだ。アミノ酸が含まれているので食材として有用だが、古くは絵の具やインクにも使用されていた。セピア色とは、このイカ墨のような色を指す。本を扱う者にとっては縁のあるものと言えるのかもしれない。

 父は白ワインの瓶を高く上げたままフライパンに注ぎ入れた。


「……料理って、魔法みたいだよね。原料に手を加えてあら不思議、まったく違う見た目のものを作りました、という感じ。化学反応もこういうところがあるのかも」

「変なことを言うなあ。リディだって料理ぐらいするだろう?」

「するけど。他人の手が動いているとそう思うのかもね。それにしてもいい香りがしてきたね。あともう少しで完成?」

「まあな。ほら、皿もってこい」

「うん」


 ダイニングテーブルに平皿が二つ。グラスには炭酸水を注ぐ。スプーンとフォークを用意しているうちに、父は素早くパスタを盛りつけた。

 食卓について、昼食を取り始める。


「そういえば、リディはイーズまで行ってきたんだろ。どうだ、よかったか?」

「うん、まあまあ?」

「なんだよ、まあまあって。お母さんみたいなことを言うな、どっちだよ、って言いたくなるから」

「今回は観光というより調査旅行のつもりだったから。目当ての資料が個人所蔵だったし、色々気を遣わないといけないでしょ?」

「ふうん? よくわからんが、頑張れよ」

「うん、頑張るよ。ところでね、お父さん」

「なんだ、金は受け取らんぞ。俺はまだ現役なんだからな」

「そんなことを言いたいんじゃないって」


 私はちょっと笑ってみせる。


「しばらく仕事で忙しくなりそうで。少しの間、こっちに来られないのかもしれないの」

「……そうか」


 皿にかぶりつくようだった父が顔を上げる。


「それは寂しいなあ」

「うん。ごめんね。色々と立て込みそうで」

「無理はするなよ。よく寝て、よく食べるんだ。リディが倒れたら母さんも心配するからな」

「わかっているよ」


 両親はともに私にずっと優しい。今世ではとても変な子に見られていただろうに、愛情だけは揺るぎなく、ずっと私のことを信頼してくれている。

 それはとても幸運なことで、この人たちを悲しませることはしたくなかった。


「何度も言うがな、母さんは子どもができにくい身体だって言われていたんだよな。実際に俺と結婚してからも何年も授からなかったし、諦めかけていた時もある。リディが生まれてきてくれたのは、俺たちにとって奇跡だった。お前が元気でいてくれればそれ以上、何もいうことはないさ」

「……うん。ありがとう」


 父の言葉がじんわりと染み入る。


「ところでな」

「うん?」

「こいつをどう思う?」


 そう言って渡された一枚の写真。とりたてて言うことのない普通の男性が映っている。友人や知人でもない。


「どうって、とくに何も。これがどうかしたの?」

「ま、まあな」


 お父さんがぽりぽりとつるつるの頭頂部を掻いた。


「職場関係でな、よさそうな青年を見付けたんだよ。その気があるなら紹介しようと思うんだが、どうだ?」

「急にどうしたの」

「前にも言ったろ。『もしお父さんがお前の結婚相手を探してくるぞと言ったらどうする』って。お父さんはリディが心配だから、少しだけ動いてみたんだ。もちろん強制はしないし、会って断ってもいいぞ。俺は紹介するだけにするしな」


 わかった。いいよ、と返事をした。


「意外だ。もっと興味がなさそうにすると思っていたよ」

「そんなことないよ。私だって人並みに結婚してみたいとか思うことだってあるもの」

「そう聞いて安心したぞ。まだ孫の顔を諦めたくないんだ」


 気が早いことを言っている父。

 私はもう一言だけ付け足した。


「今抱えている『仕事』を全部片づけたらね」


 やるべき『仕事』はいつ目途がつくのかわからない。

 終わる時、私はどうなっているのだろう。

 不安を感じながら、未来の約束をする。それは自分なりの願掛けのようなものだった。

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