第13話 謝罪


 カチ、カチ、カチ……。柱時計の針が深夜の時を静かに刻む。くつろぎの時間を過ごすはずの談話室で、ミュラー夫人、レオ青年、私の三人はひたすら夜明けを待ち望んでいた。


「考えてみれば、今日は、いやもう昨日もだけど、変なことが立て続きに起こっている気がするっすね」


 レオ青年が右手の指を折っていく。


「日記の頁がいきなり剥がれた件、リディさんが妙な声を聞いた件。犬が一時行方不明になりかけた件……あとは、今回も。俺、おばちゃんが好きでそんなことをする人じゃないってわかってるし、だからこそ不思議というか……」


 老婦人は一人離れたところでソファーにぐったりと身体を預けている。皺のある顔には涙が流れ、彼女は時々、白いハンカチで目元をふき取るのだった。


「どうしてあんなことをしたのかわからないのよ」


 ミュラー夫人は憔悴しきっていた。彼女は、部屋の照明が点くその時まで寝てからの記憶がなく、寝て起きたら髪を振り乱した客人が床の上で自分を押さえつけていたのだと言った。

 混乱した彼女はもがき、油断した私の頬に平手が飛んだ。

 レオ青年が慌てて私から夫人を引き剥がし、夫人が冷静さを取り戻したところで今に至る。


「呪われているとしか思えないわ……。思えば、ここに来てから何もかも気に入らなかったの。この館も、わたくしが好きで購入してものでなくて、主人の趣味で仕方なく受け継いだものよ。一体、わたくしが何をしたと言うの!」

「おばちゃん、落ち着いて。血圧が上がるのはまずいんだよね? ほら、深呼吸しようよ、すう、はぁー」


 青年が老婦人の背中をゆっくりさする。


「レオ、申し訳ないんだけど、少しの間、手を握っていてもらえる?」

「いいよ」


 夫人の隣に座った彼がその手を取る。そのまま、もう片方の手をこちらに向かって差し出した。


「リディさんも」

「私は大丈夫ですよ。たぶん今は、お互いに距離を取った方がいいでしょうし、ここで」


 夫人に襲われたのも記憶に新しく、とてもそんな気分になれなかった。


「ごめんなさいね、リディさん……」


 私よりもよほど疲れ切った表情の夫人は、静かに目を閉じている。

 レオ青年が小声で言った。


「……怪我の具合はどうっすか。首とか」

「見た目ほど悪くはないですよ」


 少し腫れた頬は氷嚢で冷やしていた。首には手形そのままに青紫の痣ができてしまったのだが、隠すことのできる服の持ち合わせがなく、そのまま空気にさらしている。

 彼は痛ましげな目を投げかける。


「警察はどうしますか。通報しますか」

「レオ、どうして? ……あっ」

「そうだよ。おばちゃん。記憶がないとは言え、おばちゃんのやったことは殺人未遂。犯罪になってしまうよ」

「そ、そうね。そうだったわ。そうなのよね……?」


 ミュラー夫人がすがるような目を向けてくる。言わんとするところは私にもわかった。


「俺、リディさんが通報したいというのなら、その意思を尊重します。被害に遭ったのはリディさんですから、この件を決められるのもリディさんにあると思うっす」


 レオ青年の視線も絡む。こちらも言いたいことを雄弁に語っていた。


「けれど、サーチマンさん個人としてはどう思っているの?」

「……見逃してほしいっす。おばちゃんも、好き好んでリディさんを襲うわけないじゃないっすか。だって、今日知り合ったばかりっすよ? 殺したくなるほど嫌いになる理由もないっすよ」

「そうですね。それは同感です。ミュラーさんは私にも親切にしてくださいましたし」


 一旦、言葉を区切ってから続ける。


「わかりました。警察への通報はなしで問題ありません」

「ありがとうございます、リディさん!」


 彼は礼を言い、老婦人も胸を撫でおろした様子だ。


「ごめんなさいね。でも、本当に助かったわ」

「いえ、いいんです。確かに苦しかったですが、こうして普通に生きていますし。痣もそのうち消えます。ただ、私は朝にここを発とうと思います。サーチマンさん、車をお願いできますか?」

「はい、それはもう……もちろん」

「フロベールさん、何かわたくしにできることがあったら言って。できるだけのことはするわ」

「いえ、特には……」

「だったら、あの日記はどう? 貸して差し上げるわ、いいえ、お譲りしても構わないくらいよ」


 えっ、と戸惑う。あの日記が手に入ると思えば、心が動かされる。自分の手元において調査するのが、一番効率がいいからだ。

 申し出はとてもありがたいと思う。しかし、あの日記があってこそ、このような事態になっているのだとすれば、慎重にならなければならないのも事実。自分の身を守りたいのであれば。


「そうね、そうすればいいのだわ! なぜ思いつかなかったのかしら。ぜひそうなさるといいわ!」


 老婦人は一人で語り続けていた。少女のような瞳が誰もいない天井に向く。


「その方がも喜ぶのではないかしら!」


 ふふふ、と老婦人は笑っていた。




 嵐過ぎ去り、雨上がりの晴れやかな朝の草原を車が走る。舗装されていない箇所を通る時はひやひやしたものの、おんぼろ車は意外に有能だった。おおむね快調に走行している。

 窓から入って来る風が清々しく、館での陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれるようだった。


「少し寄り道していきませんか? 駅の近くの店を知っているんです」

「何のお店ですか?」

「……スカーフを買おうかと。その首だと、誰かに言われてしまうかも」

「やっぱり目立つ?」

「……はい」

「なら、髪を下ろすわ」


 後頭部で一つに結っていた髪をほどくと、そのまま風を浴びてなびく。顔にかかる髪をよけて、耳にかけた。これなら誰も首の辺りに注目しないだろう。


「スカーフなら家にもあるし、足りているの。今は帰ろうと思って」

「そうっすか……」


 彼は運転しながら片手で耳のピアスをいじっている。


「俺、情けない姿ばっか見られている気がします。助けに行くって大口を叩いて、肝心な時に役立たずでした」

「サーチマンさんに落ち度はありませんよ。あんなことは誰も予想できるわけないですよ」

「それでも、っす。俺、ちゃんと口にしたことは守るようにしていたのに。できなかったんす。あー、俺、情けねー……」


 自分を責める言葉を口にする彼は、きっと見た目ほど軽い人物ではないのだろう。よく知らないはずの私のことまで気にかけているし、励ましにも言葉を選んでいる。


 車は駅に到着する。彼が車のドアを開けてくれたのだが、じゃあね、と別れて駅へ行こうとした時、背中から声がかかる。


「もうイーズまで来ないっすよね?」

「え?」

「また来てください。この土地も、悪いところばかりではないので!」


 驚くが、ありがとう、と返す。老婦人の申し出を「考えさせてください」と言いながら、次の訪問を約束していなかったために気を回したのだろう。


 イーズの駅はすでに大勢の人が行き交っていた。昨日ぶりに携帯端末メルクリウスを起動し、首都への切符を買った。

 列車の指定席にはまだ空きがある。早めに開いていたキオスクで軽めの朝食を買ってから、高速列車に乗り込んだ。

 列車が駅を出発する。景色がめまぐるしく変わっていく。

 ようやく日常に帰って来たのだと実感した。私は生きている。

 一息つくと、カバンの奥から読みかけの本を取り出そうとした。

 すると、あった。


「どうして……」


 入れた覚えのないものがある。赤く染色された革表紙だ。

 マリー=テレーズ女王の日記。


 まだ何も終わっていなかったのだ。

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