第12話 危機

 宿泊する部屋に向かう途中、廊下の窓を見ると透明な筋が何本も斜めに流れている。予報通りに激しい嵐が到来していた。

 もしかしたら帰らなくて正解だったのかもしれない。この調子では首都行きの鉄道も取りやめているだろう。


 割り当てられた客室は蝋燭の火が似合いそうな雰囲気のある部屋だ。バスとトイレ付きで、ベッドのシーツは皺ひとつなく、ぴんと張っている。天蓋付きのベッドには久しぶりに眠る。

 彼が壁際のスイッチを押すと、照明がつく。


「俺の部屋はここの右隣り、おばちゃんはお向かいの部屋っす。なにかあれば、枕元にあるベルを鳴らしてください。結構大きな音が鳴るんで」

「どうもありがとう。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 ドアが閉まる。一人になると、部屋の書き物机に借りてきた日記を置いた。キノコの傘に似たガラスの照明スタンドを書き物机の脇に置く。点灯すると、作業に支障がない程度の光量を確保できた。

 持参してきた革のカバンから書誌カードを取り出す。今夜中にできるところまで空欄を埋めておくつもりだ。

 書誌カードとは、本などの資料の情報をまとめたカードのこと。正式な規格などはないが、一般的には資料の大きさ、分類、作者、成立年代などの情報が書き込まれる。

 私が使うのは国立国民議会図書館ポンパドーラの規格のものだ。身内自慢ではないが、書誌学的には一番完成されている様式だ。


 本を傷つけないよう白い手袋をつけ、丁寧に日記をめくる。メジャーやルーペなどで細かい部分を確認していき、時々、カードに鉛筆で記入をしていく。


 ボーン、ボーン、ボーン……。

 鼓膜に届いた低い音にはっと耳を澄ませて、時間を確かめれば、部屋の掛け時計の短針はちょうど頂上を指している。

 凝り固まった身体を背伸びしてほぐす。軽くシャワーを浴びてから寝ることにした。

 全部照明を落として眼を閉じれば、激しい雨と狼の唸り声にも似た風が頭に浸食していくようだった。


 

 どれだけ時間が経ったのか。

 ギイ、とドアが開いたような気がして、意識だけ覚醒する。しかし、身体は起きていないため、瞼さえ張り付いて動かない。

 誰だろう。レオ青年だろうか。内鍵を締めたはずなのに。

 気配は寝ている私の真上で止まる。まじまじと顔をのぞき込まれるのがわかった。

 指が動かない、目が開かない。首に冷たいものが巻き付いた。

 息が、できない。くるしい。

 あれ、これまずいんじゃ……。


「ぐっ……!」


 ベッドに身体が沈み込み、ギシギシと音が鳴る。

 急速に身体と意識が結びつき、瞼が上に上がる。これは現実だ。

 馬乗りになった黒い人影が私の首を絞めている。顔は暗くて見えない。

 首に絡みつく手を押さえようとしても、びくともしない。


 まずい。まずい、まずい……!


 とっさに枕元のベルを思い出し、引っ掴んでめちゃくちゃに鳴らそうとした。ぶんぶん振り回した。


 しかし、鳴らない。何も聞こえない。――ポンコツじゃん!


 渾身の力でベルをぶん投げる。壁に当たって派手に鳴ればいいものを、うんともすんとも言わない。音が出なければ助けも求められない。


「う、あ、ああ……あ!」


 口を開けても息が取り込めない。

 だめだ、頭がくらくらしてきた。脳の酸素が足りなくなってくる。

 だめ、だめ。死ぬのはだめ。

 とうとう幻聴が聞こえてきた。ふふふ、と嗤う女の声が。とても楽しそうだ。人が苦しんでいる様を嘲笑っている。

 ああ、たしかにそういう人もいるだろう。人の痛みを己の楽しみに変換できる人間が。弱みを掴んで高らかに踏み潰す人間が。

 人の心がわからない人間なんていない。わからなければ、それはもうニンゲンという名の生物に過ぎない。人の皮だけかぶった別の種なのだ。

 人間とニンゲンで区別して、ニンゲンだけ切り捨てようなんて傲慢も甚だしいのだろう。私はそんな高尚な人間ではなかった。

 でも、だからって死ぬの? また? また、「落ちる」?

 晩年のマリー=テレーズ女王は、豪華な寝台の病人だった。一日中血を吐き、起き上がることさえ難しかった。好きなように息ができず、やつれた自分の顔を鏡で見るのも嫌だった。

 死ぬ時、もう苦しむのも終わりなのかとほっとした。

 けれど、そんなこともなかった。

 死後の世界は欠片も覚えていないが、また同じ国に生まれた。リディ・フロベールという名をもらって。

 女王の統治から三百年後は、何もかもが変わっていて、新世界に降り立った気分だった。この国にはもう、君主はいない。皆が協力して、責任を分け合って生きている。

 この国が『私』を必要とすることもないだろう。

 ならば、リディ・フロベールは、この生を軽やかにまっとうするべきなのだ。

 国立国民議会図書館ポンパドーラに勤めることにしたのはこれまで得てきた知識を生かした仕事ができるから。やりがいを持てると思ったから。実際、任された仕事は順調にこなしていたし、仕事を通じて、様々な人と関われることが楽しかった。

 ……楽しんでいたから、だめだったのかな。

 同じ人間でも、加害者と被害者のどちらに回るかはその時々で、しかも加害者に限って忘れてしまう。被害者は嫌な思いをしたことを絶対に覚えているし、自分で気づかないうちに加害者にも回っている。

 けれど、私には贖罪の方法は知らないし、もうみんな死んでいる。

 ここで贖罪のために死んだとしたらみんな満足する?

 ……そんなことない。一度死んだことのある人間が二度死んだところで意味はなく、こちらが何をしようと納得しない人は納得しないままなのだ。

 もっとシンプルに考えよう。自分の心に素直になろう。今、言わば「踏みつぶされようとしている」ことに対して、私はこのまま何の意味もなく死んでいくことを選択できる?

 それはいやだな。納得できない。

 心は正直だった。むかむかとした怒りが湧いてくる。絶対に負けたくない。私にだって言い分はある。


「ぐ、あ、あ……あああっ!」


 渾身の力で相手の身体を跳ね飛ばし、次の瞬間には相手をうつぶせに押さえつけた。相手はなおも抵抗して暴れるが、そのまま押さえていると、ぐったりと動かなくなった。


「ごほっ、はあ、はあはあ……はぁ」


 心臓がばくばくと音を立てている。荒い息を吐く。

 無我夢中で格闘中の記憶がおぼつかないが、自分の身を守ることができたらしい。


「リディさん? リディさん!」


 やっと一息つけそうなところに、扉が大きく開いた。

 四角く切り取られた廊下の明かりにいたのは隣の部屋にいたレオ青年だった。


「何かあったんすか……って、えっ?」

「……遅い!」

「すんません!」


 反射的に謝った彼が、慌てて部屋の照明をつける。

 ようやく自分が捕らえた人物が判明すると思い、視線を下げた。

 うつ伏せとなった頭から零れる白髪。犯人の正体に驚愕した。

 私の首を絞めたのは、ハンナ・ミュラー夫人だったのだ。

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