第11話  ポメラニアン

「リディさん?」


 気が付くと、私は両肩を掴まれ、揺さぶられていた。

 目の前にはレオ青年の顔がある。焦点が合うと、彼は向かい側のソファーに座りなおした。


「またぼうっとしてるみたいですけど、ホントーに大丈夫っすか? どっか別の世界にトリップしてません!?」

「え? 特にそんなつもりもないけれど」


 とはいえ、いつホットミルクの入ったカップを手に取ったのか覚えていなかった。


「顔、真っ青なままっすよ? ほら、手も震えてるみたいですし」

「あ、本当ね」


 カップをテーブルに置き、両手をかざしてみる。確かに小刻みに揺れているのを他人事のように眺めていた。

 私たちはサロンにいた。古びた柱時計がチクタク、と時を刻むのを聞きながらソファーに座っている。

 身体の奥が凍えていることに気付いた私は、ふたたびカップを持ち上げる。


「……サーチマンさんには何も聞こえなかったのね?」

「まさか何か聞こえたんすか? たしかに、ヤバいぐらいの絶叫だったすよね、リディさん。あんな声、出せたんすね」


 レオ青年を横目に、私は悠々とカップを傾けた。

 女の声は「みつけた」と囁いたのだ。空耳にしては、鮮明だった。たしかに吐息が耳に触れていたのだ。


「リディさんは恐がりなんすね」


 怖いものは恐かった。めちゃくちゃ怖かったのだ。あんな体験をしたら我を忘れてうわああっ、と叫んでしまうぐらいには。

 あれは一体何だったのか。

 自然と目がテーブルの上の日記に走るが、開ける気力は湧かない。

 それに今は人の弱さに無遠慮に触れてくる彼の無神経さが気に障る。


「キャンキャンキャン!」


 足元では老婦人のポメラニアンがふわふわの毛を逆立てて私を威嚇している。尻尾を股の下に入れ、ひどく怯えていた。

 犬まで私に追い打ちをかけていた。

 ミュラー夫人は犬を置いてどこに行ったのだろうか。


「よくわかんないっすけど、元気出しましょうよ。俺、ここに幽霊がいるという話は聞いてないですもん」

「今までなかったとしても、何がきっかけでそうなるかはわからないと思わない?」


 こういうと、彼は考え込む表情を見せた。


「俺、幽霊とか見たことないんで『いる』か『いない』かはよくわかりませんが、リディさんは少し心配っすよ。あの時のリディさんは尋常じゃありませんでした。あれで俺の腕に鳥肌がびっしり立つぐらい。いつもみたいにふざける気にもならないっすよ」


 でも、あまり思いつめないでくださいね。

 レオ青年は案外優しい声音で告げた。


「俺じゃ、頼りないっすけど。怖がりな女の子一人ぐらい守れるつもりです。それで、まあ、その」


 ピアスをいじりながら俯く顔が赤くなる。


「何かあったら俺を呼んでください。助けに行くっすよ」


 さすがに、次に言うべき言葉が出てこなかった。あまりに意外すぎて。


「あんまり驚かないでください。これでもマジっすよ。そもそも、俺がここに誘ったんです。最後まで責任を取らせてくださいよ。軽そうに見えても真面目なんすよ、これでも」

 

 彼はこちらに顔を向けないで、犬をひょいと持ち上げる。


「おばちゃんは気分が悪くて部屋で休んでいるっす。夕食は二人で取るように言われました。リディさん、食欲は?」

「あるわ。大丈夫」

「ならよかった。ここの家政婦さんの料理はなかなかイケるっすよ」


 屈託のない笑みがそこにあった。







「『みつけた』というのはヤバげな雰囲気っすよ、かなり。オカルトっすよ、オカルト」


 レオ青年が食事の皿にあるソーセージをフォークでつつく。

 慰めの言葉をかけたと思いきや、不安を煽るようなことを言う。彼はきっと直情型だ。その時々の気持ちで言うことが変わる。

 シャンデリアの暖かな明かりの下、主人のいない小さな食卓を囲む。かつては広い食堂だったためか、食卓の大きさと部屋の大きさが見合っていない気がした。給仕もおらず、食卓の上に食事の皿が準備してある。家政婦たちは私たちに食事の支度を終えたことを告げると、早々と帰っていった。外はもう雨まじりの風が吹いていた。


 ふうん、と私は醒めた調子で返した。


「それならこの先、呪われて死ぬのかもね」

「えっ、いや、その……すんません」


 発言のまずさに気付いた彼が謝罪する。


「まー、とりあえず。『何を』みつけたのはか気になるところっすよね、その感じだと。……やっぱり日記関連っすかね」

「可能性は高いと思う」

「俺は何ともなかったんすけどね」

「相性みたいなものもあるのかも」


 私はマリー=テレーズ女王の記憶を持っている。その私が彼女の日記に触れれば、何かが起こったとしても不思議ではない。


「リディさんは明日どうします? 日記の調査はどれぐらいかかりそうっすか?」

「そうね、今回は書誌情報が欲しかったから、書誌カードの作成までしておこうと思って。だから明日は昼ぐらいで切り上げて、夕方の列車で帰るつもり」

「すんません。本当はリディさんに日記をしばらくお預かりしてもらった方がいいんでしょうが、おばちゃんがどうにも承知しないんすよね」

「それは無理もないわ。こういう仕事はどうしても所有者の意志が大事だもの。破損や紛失をしてしまったら、結局損するのは所有者の方だから」

「そうっすね。鑑定を先生にお願いする時や《レポジトリ》上に取り込む時も大変でした。俺がおばちゃんに『最初で最後だから!』と押し通してどうにかしたんすよ。イーズにいるせいか、おばちゃんは俺を可愛がってますからね。ただ、ちょっと……」


 うーん、とレオ青年は口ごもる。


「おばちゃんはあの日記もですけど、書斎自体も気に入っていないのかもしれないっすね。おじさんが死んでからほとんど寄り付かなかったし、やっと目を向けたと思ったら改装して書斎を潰すと言うし。今は日記のことでタイミングを逃してますけど、そのうちまた改装をはじめるつもりっすよ」

「もったいないですね。風情のある書斎だったのに」

「でしょ! でもおばちゃんはわかってないんすよ。《金糸雀カナリアハウス》そのものも歴史ある建物ですし、外部に公開すればそれなりに人も集まってきますよ。維持費用のことも少しは楽になるし、みんなのためになるのに。俺が何を言おうとも頑として譲らないんすよね」


 レオ青年は残念そうな顔を見せる。


「やっぱりおじさんとの思い出が大事なんすかね。二人だけのものにしたいというか」

「それなら書斎を改装する理由もありませんよね?」

「あ。そうだ」


 ならわかんないっすね。

 謎解きを諦めた彼は軽く肩をすくめてみせる。

 いつしか日の暮れた外から不気味な音が聞こえてきた。窓ガラスがカタカタと揺れ、雨粒が館に叩きつけられる。

 ふとレオ青年が食卓から立ち上がった。


「……犬を探さないと。寝る前、おばちゃんからケージの中に入れておくように頼まれていたんすよ」

「さっきから見かけませんが、今はどこに?」


「リディさんに向かって吠えちゃうので、食堂に入れないようにしていたんすよ。戸締りはしてあるので館の中にはいます」


 私の問いに、彼は締め切られた食堂のドアを見ながら答える。


「館といっても広いですよね? 手伝いましょうか」

「そうっすね。お願いします。俺はこの一階を回るんで、リディさんは二階の方を。廊下をぐるっと回ってもらえればいいんで」

「わかった」


 私たちは二手に分かれた。階段を登って上に行く。ぽつんぽつんとオレンジ色の薄暗い照明が毛氈の敷かれた廊下に濃い影を落としていた。一階も二階もほぼ一直線の廊下だが、壷や彫刻、時計といった調度品が並んでいるので死角がたくさんある。そういったところを確かめていけば、視線の先でドアが開いた。


「……あら」

「こんばんは」


 私は現れた老婦人に挨拶した。彼女の顔色は悪く、頭痛をこらえるように頭を押さえている。


「調子が悪いと伺いましたが」

「ええ。ごめんなさいね。あなたをここに引き留めておきながら、結局、そんなにお話することもできないなんて」

「お気になさらないでください。こんな古い館に宿泊なんて滅多にできないことですから」

「そう言っていただけると気が休まるわ。ところでフロベールさんは何をしていたの?」

「犬を探していたんですよ」

「ああ、あの子……。そうね、頼んでいたんだった」


 彼女は気のない声を出した。二度、三度ゆっくりと瞬きをしてこちらを見るが、焦点が合わない。


「どこに行ってしまったのかしらね。困った子。……だめね、頭がズキズキ痛むわ。わたくし、今日はもう休ませていただくから、フロベールさんは眠っていらして」

「サーチマンさんにも伝えておきますね。おやすみなさい」


 老婦人も同じ言葉を繰り返して、部屋に引っ込んだ。

 それからまもなく、二階に犬がいないことを確認して、一階へ降りる。

 下りてすぐのところでレオ青年が立っていた。


「一階にはいなかったっす。二階は?」

「いなかったですよ」

「困ったっすね。……外にでも行ったのかな」

「でも戸締りはしっかりしてあったんでしょう?」

「ちゃんと家政婦さんたちがやってくれていたっすよ。俺も一回確認しておいたので、食事中にも館の中で犬を放していたんすよ」


 念のためにと玄関ホールに向かう。

 すると、入り口の敷物がぐっしょりと濡れていた。


「これ、おかしくないですか? 最後に家政婦さんたちが外に出た時にはこんな濡れるほど雨は降っていなかったですよね?」

「あっ、たしかに」


 得心した顔の彼が扉にかかった鍵を開ける。

 ギイ、と扉を開けば、凄まじい風がまるで小さな竜巻のように私たちの髪を巻き上げ、ぱらぱらと服に水滴が散った。

 思わず目を閉じたが、次の瞬間には、


「キャンキャンキャン!」


 小さな塊が中へ一目散に飛び込んで、レオ青年の足元にまとわりついていた。

 頸についていたリボンは水を吸って重たそうに垂れている。獅子の鬣のような毛も濡れそぼり、身体は一回りも二回りも小さく弱々しく見えた。


「どうしたんだよ、オマエ。どこに行ってたんだよ。こっちは心配していたのになー」


 レオ青年がポメラニアンを抱き上げ、安堵したように頬を緩めた。服が濡れるのもお構いなしだ。


「よかったですね」

「ご協力ありがとうございました、リディさん。何とか、おばちゃんに怒られずに済みそうっす。それじゃ、俺はこいつの身体を冷やさないように風呂に入れてくるので……」

「キャンキャンキャン!」


 犬が私の存在に気付いて、また吠えた。気の毒なほどにぷるぷると震えている。どこまでこの犬に嫌われているのだろうか。

 私は犬を抱きかかえる彼の背中を見送った。


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