第10話 【マリー=テレーズ人生劇場】

 あなたは大きな劇場の客席に座っています。あなたの思う一番良い席にいるのです。

 一人きりです。あなたはわくわくしながら赤い緞帳が上がるのを待っています。

 これからお芝居が始まるのです。薄暗い劇場内に物悲しい音楽が流れました。開演です。

 パッ、とスポットライトが舞台の左端に当たります。

 そこにはタキシードを着たフクロウがいて、器用に一礼しています。あなたは驚いて前のめりになります。

 あなたには頭を上げたフクロウが笑ったように見えました。黒々とした二つの瞳があなたにははっきりとわかります。その瞳の奥にある光は、怪しげで謎めく宝石のようです。

 フクロウは大きな翼を広げました。音もなく、頭上高く飛んでいきます。

 フクロウを追っていた照明が突然消えて、あなたには何も見えなくなりました。

 ふたたび前方を向くと、またスポットライトが灯されます。

 そこには『あなた』がいました。

 『あなた』は言います。


「かつてのあなたは小さな町の片隅に住んでいた。自分の出自も知らないで。気が付いた時にはあなたは孤児院にいて、たくさんの子どもたちに囲まれていた」


 『あなた』は舞台の中央を指し示しました。

 するすると緞帳が上がっていきます。

 そこにはたくさんの子どもたちが遊んでいます。そしてその中の大人しそうな子たちと一緒にいる小さい『あなた』。

 小さい『あなた』は小汚い格好をし、身体を縮こまらせていました。

 『あなた』は孤児院で弱い立場にありました。愛想が悪く、孤児院の大人に嫌われていたのです。だから、服や食べ物はいつも後回しで、ひもじい思いをしていたのです。

 しかし、『あなた』が十歳ほどになったころ、思いもよらない出来事があったのです。

 『あなた』は新しい養父の元に行くと聞かされ、よくわからないままに、孤児院の外に出ることになりました。

 今まで一度も見たことのない綺麗な服を着せられて、『あなた』は馬車に揺られます。どこへ行くのか不安でいっぱいでした。

 馬車は大きなお屋敷に向かいました。エントランス前に付けられた馬車の扉が開き、そこにいた立派な身なりの男に手を取られて馬車を下りました。

 彼が『あなた』の新しい養父です。

 初めて会った養父は『あなた』に跪きました。潤んだ瞳で『あなた』を見上げ、「ようやくお会いできました。女王陛下」と言いました。


「これまで迎えにいけなかったこの身をお許しください。まかり間違っても、王女殿下をあのような下賤なところへ行かせてしまい、不徳の致すところです」


 『あなた』には養父が何を言っているのかわかりませんでした。時によっては否定もしたでしょう。


「あなたは将来、女王になるお方でした。しかし、赤ん坊の頃、不慮の事故で行方不明になってしまい、皆が探していたのです。本当に安堵いたしました。少し痩せてしまわれたようですが、美しさに照り輝くそのお顔立ちこそ、あなたが王家の血を引いている証拠。間違いますまい。――さあ、女王陛下。女王陛下になるためのお勉強をしましょう」


 養父は本当の『あなた』の名を教えてくれました。

 『あなた』はその名を口で呟きます。初めて聞いた名ですが、不思議とぴたりと自分に合う気がしました。

 『あなた』の小さな人生が思いがけないところに動き始めたのはこの時です。『あなた』は突然、王女という身の上を知らされ、とある舞台の主役として引き出されたのでした。

 【マリー=テレーズ人生劇場】の開演です。





 あなたは養父の屋敷で女王となるための教育を受けることになりました。教師は養父です。養父は貴族の生まれで、王宮に引き取られる前に礼儀作法を仕込んでおきたいようでした。

 しかし、あなたは礼儀も何もない孤児院で育っていたので、養父がするように綺麗な礼や食事のマナーができないのです。

 あなたは辛くて何度も泣きました。ナイフやフォークを上手く使えなければ、食事を抜かれてしまいます。

 文字も覚えなければなりませんでした。あなたは養父の出したお手本を真似て文字を書いていきますが、ほんのちょっとの歪みも許されないのです。その時も食事を抜かれてしまいます。

 ダンスと音楽も学びました。これは上手くできるまで何度も繰り返し練習させられます。ダンスのしすぎで足先が、マンドリンやハープの弾きすぎで指先がしくしくと痛みました。

 さらに養父はあなたにいつも教養が身につく本を読みきかせました。寝る時は天文学と哲学の知識を耳にしながら眠りにつくのです。

 養父はとても厳しい人でした。時に恐ろしい形相で鞭を取り出すこともありましたから、あなたはあまり好きになれません。

 それに、あなたは女王という地位には何の興味もありませんでした。即位すると言っても実感もなかったのです。だから、養父の仕打ちは、一方的な押し付けにほかなりませんでした。

 養父と過ごす時間は、あなたには苦痛で仕方がなかったのです。

 ですが、ほんの一時、そうでないこともありました。

 眠る前、養父はあなたの髪を丁寧に梳かしていく時。この時だけ、養父の口が一向に開かず、ただ黙々とあなたの髪に櫛を通していくのです。


「あなたは女王となる人です」

「女王陛下がこんなことをできないでどうするのです?」

「女王はもっと堂々として、臣下を取り扱うものです」


 こんな小言を聞かずに済むのだから、あなたにはわずかなくつろぎの時間だったのです。

 こうして三年ほど経ちました。

 十三歳になったあなたは養父の教育もあって、素晴らしい貴婦人となっていました。孤児院ではつぎはぎだらけの服を着ていたあなたが、たっぷりのレースのついたドレスに、真珠のピアスとガーネットの首飾り、大粒のエメラルドの指輪を身に着けています。昔のあなたを知る人は、今のあなたを見ても同じ人物とは思わなかったでしょう。

 あなたが貴婦人になるにつれ、養父の態度も変わっていきました。厳しいと思っていた養父が、あなたをことあるごとに「美しい」と誉めそやすのです。


「美しい?」


 養父はただ静かに頷きました。あなたは養父の瞳に熱を感じます。あなたは養父の心の内を直感していました。

 だからあなたはわざと養父の腕に自分の手を絡め、「ありがとう。とても嬉しい」とはにかんでみせるのです。


「先生はずっと独り身ね。わたくしが宮廷に出たら、きっとよい女性を紹介してあげる!」


 あなたは気の早い約束を養父と交わして笑顔になります。この頃のあなたはいつも上機嫌でした。自身が世界の中心となっていたのです。

 養父はいつもむっつりとして、まるで石像のように表情が動かない人でした。あなたはその仮面を引き剥がし、その心が乱される様をこの目で見たいと思いました。なぜなら、貴婦人になったあなたは浴びるような賞賛を欲していたからです。

 このころ、あなたには宮廷に行きたいという願望がありました。きらびやかな王宮の中心で踊る自分を想像し、あなたは憧れを募らせます。宮廷ならば大勢の人々があなたを崇め、あなたに頭を垂れることでしょう。

 あなたは養父に何度も「宮廷に連れて行って」と頼んでいました。だって、あなたはもう養父の求める女王にふさわしい気品を身に着けていたわけですから、そろそろ宮廷に行ってもいいはずです。

 しかし、養父はそのたびに渋りました。曖昧な返事ばかりして、一向に動く気配がありません。

 あなたはだんだんと苛立ちを隠せないようになります。養父に口を聞くのも嫌になり、もの言いたげな養父の横を黙ってすり抜ける日々が続きました。

 あなたの人生でもっとも忌まわしい事件はその頃でした。

 嵐が来て、あなたが大事にしていた庭園の花を踏み散らしていったのです。






 真っ白なシーツに血が一滴零れると痕が残るように、あなたはもう、後戻りできないところにいることに気付きました。

 あなたの心を占めるもの。恐怖、畏怖、恥辱、嫌悪、憤怒、諦観、覚悟。それらが代わる代わる顔を出し、あなたは時に震え、時に落胆し、時に怒鳴り散らしました。

 あなたは自分が子どもだったことを、大人になった今知ったのです。

 夜。あなたは養父だった男に髪を梳かされています。けれどそれはもう、ほんの少しのやすらぎではなく、いつ食べられてしまうか、肌を粟立てながら耐える時間となりました。

「美しい、私の女王陛下」と男はうっとりとしながらあなたを呼んでいました。

 あなたは思ってしまうのです。本当にあなたを女王と敬うのなら、あんな恥知らずな真似はできないはずだと。

 あなたには小さな疑問が芽吹きます。

 男にとってのあなたとは何だろう?

 男になされるがまま、すべてを受け入れていたあなた。あなたは初めて、自分の周りに目を向けるようになりました。

 すると、一つだけ気になるところを見つけたのです。

 男の書斎の、奥にある小部屋です。そこだけは決して入ってはいけないのだと男にきつく言い含められていました。

 だからあなたはその小部屋を覗くことを決めました。男が鍵を閉め忘れたまま、小部屋から出ていったのを確認したあなたは、そっとその部屋に忍び込みます。

 入った途端、あなたは男の隠していた大きな秘密に気づきます。

 あなたの目の前は真っ暗になったようでした。

 よろめきながら部屋から出たあなたは何も見なかったことに決めました。一体、誰が認めたいでしょうか? 今までのあなたが愚かな道化だったということを。

 これまでまったく入ってこなかった雑音も、耳に入って来るようになりました。

 以前、男の親戚だという女があなたの部屋に押し入り、「愛人め、早く出ていけ」と吐き捨てられたことがありました。あなたは女王然とした態度で無礼な態度を諫めてやりましたが、その近くで使用人たちがひそひそと噂していたのです。あなたは男の秘密の愛人であると。

 女王のはずが、愛人。愛人とは、娼婦ではないか。

 貴婦人としての教育を受けていたあなたには耐え難い境遇でした。しかし、あなたが知らなかっただけで、初めからあなたは「愛人」という立場に他ならなかったのです。

 今、あなたの心はガラスのように粉々に砕け散るようでした。これから、あなたは何を支えに生きて行けばいいのでしょう?

 十三歳のあなたは屋敷から逃げ出すことを考え始めました。町に行けばどうにか暮らしていけるのではないかと、小さな希望に縋りつき、誰にも知られないように逃げる準備を整え始めました。

 そして男が屋敷からいない夜。あなたは外に飛び出しました。あなたの心臓は不安で小鳥のように波打っています。

 月と荒野だけがあなたの行先を知っていました。

 

 ――さあ、【マリー=テレーズ人生劇場】は幕間です。続きを御所望なれば、時間までに着席くださいますようお願い申し上げます。


 劇場の客席に座るあなたは席を立ちました。

 次の幕が上がるまでには戻るつもりです。

 頭上のシャンデリアにはタキシードを着たフクロウが止まり、眼を閉じています。

 あなたは劇場を出て行きました。

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