第9話 「みつけた」

 日記を持つ手がいやに震える。しかしそれを悟られるのも嫌で、私は静かに息を吐き出しながら落ち着くのを待った。


「……どうっすか?」


 レオ青年が私の手元を覗き込んだ。


「まだ、表紙を見ただけですよ。中身も見ないと」


 赤い革表紙の日記は、書籍と同じくしっかりとした装丁をしている。恐らく最高級品の子牛の皮が用いられている。大きさは片手で持てるほどだが、重量感があった。


 ぱらり、と一頁めくる。『マリー=テレーズ』という署名がある。どこをどう見ても見覚えのある筆記体だ。凝視しても変わらない。


「何かわかりました?」

「うん。まだ……かな」

 

 日記の内容自体は発表時に《レポジトリ》に表示されたものと同じだが、生の資料は情報量が多い。

 たとえば使用されている紙の質や厚み。インクの変色具合。粗い画素数ではわからない微妙な筆跡の癖や、書き損じを誤魔化すためか、削り取られた頁の跡。どれもが時代特定に必要な情報になる。


 結論すると、日記自体はかなり良質なのだ。三百年前、女王マリー=テレーズが使用してもおかしくないぐらいには。


「この日記は、木箱の中から見つかったわけですよね?」

「そうっす。密閉されたままだったから保存状態もいいでしょ」

「それは……不自然なほどにね。これ、本当に密閉されていたの?」

「俺の知る限りは」

「……虫食いの跡がほとんどないのね」

「ああ、それ? 先生も不思議がってましたよ。本ってたまに風を通してやる方が虫もつきにくいはずだ、って。でも、残っているのならそれが真実ってもんすよ」


 日記は頁の端の方はボロボロになっている箇所があるが、読む分にはまったく問題がない。一見して、三百年経っているとは思えない。


 ざっと頁を繰りながらところどころの文字を追う。後ほど自分で持参したルーペで確認するが、このままだと自分自身で自分の筆跡だと断定しそうで怖い。ますます釈然としない気分だ。


 途中で、不自然に厚みのある頁に気付く。日記の最後だ。ページ同士が糊で張り付けられている。


「ここは?」

「ああ、そこ。なんかぴったりくっついているみたいで、剥がれないんすよ。下手にいじると資料が破損しそうでやめました。だから《レポジトリ》にも表示されてなかったっす」

「先生は何て?」

「そのうち特殊な紫外線スキャナにかけてみたらどうかって。おばちゃんは嫌な顔をしてたけど」

「そうですか。気になりますね。なんとかして綺麗に剥がれる方法があればいいのに」


 諦め悪く、その頁の角に人差し指の腹を当てる。

 たとえばこの頁を開いてみたら。

 日記を書いた人物の『声』が書かれているのかもしれない。


 どんな思いで綴ったのだろう。

 どうして、今の『私』は覚えていない?

 疑問の答えがすぐそばまで来ているのに掴めない。もどかしさが募る。

 

 その刹那。

 奇跡的に、頁が、剥がれた。


「え、え、え? リディさん? 破っちゃった? どうしよ、おばちゃんに怒られる!」

「ま、待って! 破ってない、破ってないからっ!」


 私も彼も大慌て。ミュラー夫人の影を探してしまった。

 なんてことだろう。資料を扱うプロであるはずなのに、うっかりとんでもないミスをしてしまった。


 あとで謝罪しよう。そうしよう。


 懸命に自分へ言い聞かせ、新しく現れた頁を細目で見る。

 ところがぴったり張り付いていた頁は、破れた形跡もなく、貼り跡も見えないほど綺麗なものだった。破損したとは思えない。奇妙だ。


 しかし、それ以上に奇妙なのは、新しい頁に大きく殴り書きされた言葉。


『死にたくない』。

 心の叫びを振り絞ったような書き方をしている。


 ……『私』はかつて、こんな言葉を書き残しただろうか。いつ?


「『死にたくない』……」


 その意味を噛み締めるように、手袋に包まれた指を頁の文字をなぞりながら呟く。


 窓もない空間に、冷たい風が首筋を撫でた。

 私の耳元で、唐突に、前触れもなく、「みつけた」と声がした。


 女の声だった。

 ぞぞぞっ、と背筋が凍って、動けなくなった。

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