第8話 秘密の部屋

 少し狭い螺旋階段を上がり、二階の廊下に。ひと際立派な作りの扉の前で、女主人は鍵束から古い鍵を引っ張り出して、鍵穴に差し込む。ずずず、と木製の扉が鈍く動いて、中があらわになる。

 内部は壁から天井までそびえる本棚がいくつも備え付けられており、それを取り出すためのはしごもある。床には古びたカーペットが敷いてあり、採光しやすい窓際に書き物机が鎮座している。

 何よりも特徴的だったのは、天井画だ。三割ほど剥落しているようだが、金を背景に古今東西の植物と鳥がまるで戦うように絡み合い、一種独特の世界観を作っていた。見事な作品だった。


「ここ、あまり掃除していないの。亡くなった主人はこの書斎の造りを気に入ったのだけれど、わたくしにはよくわからないものだから」


 老婦人は物憂げに空っぽのままの巨大な本棚を見上げた。


「ここに置いてあった主人の本はぜんぶ古本屋に売り払ってしまって、それから使う人もいなくなってしまったわ」

「でも、改装されるのですよね? この天井画もなくなってしまうのならもったいない」

「天井画? ああ、レオもそれには反対していたけれど、わたくしにはどちらでもいいの。やっぱり、わたくしのような人間にはこういうものの価値はよくわからないし……ただ、この書斎を別の場所にしたいだけなの」

「とは言ってもさー。おばちゃんにとってはおじさんとの思い出があるんじゃないの? 一人で住んでいるとしてもさ、別の活用があると思うんだけどなあ。なんならユースホステルにして、泊められるようにしたっていいわけだし」

「あなたが住み込みで手伝ってくれるなら考えないでもないわ。レオは主人のことを何も知らないからそうも暢気でいられるのよ……」


 気味が悪いわ、と老婦人はため息を吐き出す。


「この《金糸雀(カナリア)館(ハウス)》は呪われているんじゃないかしら。主人がこの館を初めて訪れてから、全部おかしくなったの。そうでなかったら、都会の便利な暮らしを捨ててこんな辺鄙なところに引っ越してくるかしら? 主人もこの書斎に閉じこもってばかりで、仕事をしなくなるものかしら?」

「おばちゃんは考え過ぎ。おじさんだって疲れていただけかもしれないじゃん。ほらほら。リディさんも反応に困ってるよ」

「私の事はお構いなく。これほどに古い建物ですから、色々曰くがありそうで興味深く聞いていましたから」


 当り障りのないことを言っておくと、ミュラー夫人ははっ、となったように眉根を下げた。


「わたくしったらついつい怖がらせるようなことばかり言ってしまっていたわね。ここも悪いところではないの。冬は厳しいけれど、夏にはきれいな花がたくさん咲くわ。昔ここにあった庭園の小道の跡を辿っていくと、小さな石橋もあって、下には小川が流れているわ。そこを散歩するのが好きなのよ……」


 するとここで唐突に、夫人は身震いした。ざっと顔が青ざめ、その瞳が宙を彷徨う。


「やだ、ここは寒いわね……。レオ、あとはお願いできる? わたくし、家政婦さんたちに三人分の夕食をお願いしてくるわ。ルチアちゃんも探してこないと」

「ああ、犬ね。りょーかい。おばちゃんも体調に気を付けなよ。無理はできない身体なんだからさ」


 青年は手をひらひら振って見送る。


「何か、病気でもお持ちなの?」

「そうじゃないっすよ。おばちゃんは元々、身体が弱い人だから時々は言っておかないと。本当はここではなくて、町に住んだ方がいいんだけれど、事情もあるだろうし……って、んんっ」


 そう言いながらレオ青年は本棚の一つを持ち上げ、別の棚に立てかけるようにして安定させる。

 どかした本棚の奥に崩れた漆喰の壁と、そこに開いた大きな穴があった。奥には空間が広がっているのがわかる。


「ここ?」

「そうっす。改装工事の業者が発見したらしいっすよ。たぶん、貴族の館に時々あった、隠し部屋の類だっていう話っす」

「へえ……雰囲気があるね」

「でしょ? で、あの日記もその部屋にあるっすよ。リディさん、頭に気を付けて」


 穴を潜り抜けようとした私にレオ青年が声をかける。忠告に従って、頭をかがめて穴を通り抜ける。


 オレンジ色の細長い光が隠し部屋を照らしていた。

 そこはベッドと本棚を置いたぐらいでいっぱいになってしまうような小部屋だ。採光のための細長い窓が一つ。窓からは庭が見渡せた。

 内部に調度品の類はなく、いつのものかわからない机と部屋の隅にある大きな木箱が一つずつある。

 換気をしていないためか、歩くたびにすぐ埃が舞い上がる。


「ここ、何の部屋なの?」

「わからないっす。言い伝えでもあるかと思って、元住んでいた人の親戚の家にも聞いてみたんですけど、何もわかりませんでした。一応、地元の新聞でも取り上げてもらって情報も集めてみたんですが、これも不発で。この木箱から黄金でも見つかれば隠し財産の場所なんだってすっきりするんすけどね、そんな都合のいい話もありませんでした。だからおばちゃんはひたすらに怖がってしまって、近づきたがりません」

「たしかに、漆喰で塗りこめられているんじゃ、無理もないかも」


 この小部屋をなかったことにしたい、という意思を感じないか。


「一番妥当なのは、元は領主の一族の避難場所にするつもりだったが、もう使わなくなったから破棄したのかも。貴族の館にしては中途半端な大きさだし、書斎としか繋がっていないんじゃ、使い勝手も悪そうだからね」

「……元も子もないっすね。ロマンがないというか」


 彼の師と同じようなことを言い出しはじめた。


「ならこうするっす。まず、ここはお姫様がひそかにかくまわれるための部屋だった。たぶん美人で可愛いお姫様っす。この小部屋でお姫様は守られ、幸せに暮らした、と」

「……閉じ込められたお姫様は、幸せかな?」

「えっ、駄目っすか! あぁ、でも閉じ込められたと思うなら、幸せじゃないかあ……。ロマンがあると思ったんすけど」

「ふうん」

「あっ、ドン引きしないで! わかりました、わかっているっす! すんません、こんな男で」


 レオ青年は顔を真っ赤にした。やだなあ、ついぽろぽろと言っちゃった、と一人で羞恥に耐えている。

 他人事ながら、人生楽しんでいそうな人だと思った。


「日記はどこ?」

「あっそれは、ここっすよ」


 彼は部屋の隅の木箱を開けた。元は錠前がついていたようだが、今は壊れているようで、鍵を差し込まずとも蓋が開く。


  中には一冊の日記がポツンとあった。

  気合いを入れたレオがポケットから出した白い手袋をはめた。

 私も同じく、持参した手袋をはめた。


 どくどくと、心臓が胸の奥で蠢くのを感じた。何かが起こると予感していたのかもしれなかった。


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