第7話 ハンナ・ミュラー
レオ青年が羊頭のドアノッカーで扉を鳴らす。
中から上品な白髪の老婦人が出てきた。両手にポメラニアンを抱えている。
「おばちゃん、どうも」
「はじめまして。リディ・フロベールと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
ええ、と婦人はくしゃくしゃと微笑む。
「いらっしゃい。レオ坊ちゃんとフロベールさんね。聞いているわ。ようこそ、《
「失礼します」
一歩内部に踏み入れた途端、キャンキャンキャン! と犬が吠えだした。私に向かって、何かに怯えるように。
老婦人は赤ん坊をゆするようにポメラニアンを抱え直した。首に結ばれた赤いサテンのリボンが揺れる。
「変ね。いつもはもう少し人なつこい子なのに。フロベールさん、ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫ですよ。お構いなく」
「まあ、確かにおかしいよな。俺には結構寄って来るのに。いたっ」
犬は頭を撫でようとしたレオの手をも噛みつこうとした。驚いた婦人が身体を取り落とす。ポメラニアンは玄関ホールから一目散に逃げていく。
「あらあらあら。どこへ行くのかしら?」
口元を押さえ、おっとりと犬を見送る婦人。追いかけずに客人二人に向き直り、サロンへ誘った。
温かみのある絨毯やタペストリーに囲まれた廊下を通り抜け、大きな窓に面するサロンの長椅子に腰をかけることになる。
「おばちゃん、犬の方はいいの?」
「いいわ。戸締りをしてあるから外へは逃げられないの。それよりも名乗るのを忘れていたわね。わたくしはハンナ・ミュラーと言って、ここの館の持ち主よ。元は亡くなった夫が十年前に気に入って購入して、以来、ずっと住んでいるわ。そこの坊ちゃんとは父方の親戚に当たって、古くからの知り合いなのよ」
「やだなあ。もう坊ちゃんって年齢じゃないのにさ」
彼が肩を竦めるのを、老婦人は微笑ましげに眺めた。
「あら、わたくしの眼にはいつまでも可愛い坊ちゃんよ? 身体だけは大きくなったけれど、中身は全然変わってないもの。ほほほ。そうだ、リディさんはご存知? この子、こんな感じだけど家柄だけはとびきりいいの」
「そのことは少し聞いています。立派な方が多いようですね」
「そうね。きっとこの子も同じような道に進んでいくわ。もしかしたらあなたのような方にとってもこの子は魅力的に映っているかしら?」
急に話が思わぬ方向に飛ぶ。彼は慌てて声を上げた。
「ちょっ、おばちゃん! 急に何言っているんだよ!」
「え? だってあなた、この子のこと好きなんでしょ?」
「ち、違うよ! リディさんは俺なんかより優秀な研究者なんだからさ!」
「でも二十歳の女性と言っていたから、好きな女の子に自分のいいところを見せようと頑張ろうとしているのかと……」
レオ青年は焦ったように反論しながら、ちらちらと赤い顔でこちらを見ている。
私は苦笑いを浮かべながら口を挟んだ。
「すみません。残念ながらミュラーさんの思うような関係ではないんですよ。純粋に、彼が研究材料にしているものを直に見たいと思って、無理をお願いしてしまったんです」
「……そうなの? わたくしのまったくの勘違い?」
はいと頷くと、婦人は恥ずかしそうに俯いた。
「なんてこと。普段一人でいると想像力がたくましくなっていけないわ。不快にさせてごめんなさい。サロンにご案内するわ。お茶とお菓子を用意してあるの」
「いや、それよりも早く日記を見せてあげなよ。そのためにここに来ているんだからさ。特にリディさんはわざわざ首都から来ているんだよ」
「いいじゃない。調査は長くかかるんでしょう? ほんの一時間おしゃべりに費やしたって、調査は待ってくれるわ。それに、泊まっていくんでしょう?」
「そうですね、イーズのホテルで一泊するつもりでいます」
「俺も普通に大学の寮に帰るよ」
それはいけません、と彼女は深刻な表情で頭を振る。
「今晩は嵐が来る予報よ。悪いことを言わないから泊っていきなさい。嵐の中をあのおんぼろ車でイーズまで戻るのは無謀だし、名によりこの辺りの嵐は遮るものが何もないからかなりひどいの。この辺りじゃ《悪魔の呼び声》なんて言われているぐらいよ」
「だったら雨が降らない間に帰るよ」
「わたくしがフロベールさんとお茶をする時間が無くなるでしょう?」
つまり、彼女は何が何でも私をここに泊まらせたいらしい。珍しい客人に、婦人の眼は少女のように煌めいていたのだ。
「レオも泊まっていくのよ? いい?」
「強引だな、おばちゃん」
まんざらでもない顔でレオ青年は私を見やる。
「……リディさん、それでいいっすか?」
「私は構わないけれど。ホテル代も浮くもの」
「同じ部屋を用意しなくともいいのよね?」
「あ、当たり前だよ。それに第一、俺、怒られちゃうし」
「あら、レオはほかに恋人いたの?」
「まー、一応さ」
レオ青年は歯切れ悪い。
ミュラー夫人は肩をすくめる。
「余計な気を回してしまったようね。ごめんなさいね、フロベールさん。万が一、この子に襲われそうになったら遠慮なく大声を出してちょうだいね。部屋から叩き出してあげるから」
私は半笑いで礼を述べる。
この老婦人は今、通いの家政婦を二人雇って、家事を行なわせているらしい。ミュラー氏は、元が事業家だったらしく、亡くなった際の財産はすべてこの夫人に相続されたのだそうだ。
家政婦たちの手で、私たちの泊まる部屋はすぐ用意された。ちょっと想定外の事態だ。
紅茶やビスケットを口にしながら軽くおしゃべりに付き合ったところで、ようやく日記を見せてもらえる運びとなった。
緊張でにわかに手のひらが湿ってくるのを感じた。
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