第4話 礼拝所と青いヒヤシンス

 シンポジウムは約三時間で終わった。

 例の青年に声をかけてみようかとも考えるが、すでに会場に彼の姿はない。日記のことは気にかかったままだが、潔く諦めることにする。

 前世は前世でしかない。今の私が前世の私に対して何ができるというのだろう。過去は決して変えられないのだから。




 イーズ大学、最古の学部は神学部だ。ここの礼拝所には私の知る人物の墓がある。


 彼の好きだった青いヒヤシンスの花束を買い、鉄の扉を開く。少し埃っぽい薄暗い内部に人の気配はない。


 さして広くない礼拝所の床に、大きな石板が嵌められている。この下には特に大学に貢献した人物の遺骸が眠る。そのうち五つか六つほどに刻まれた名前を素通りして、目的の石板を祭壇の正面に見付けた。


 表面の細かい砂を払いよけ、消えかけた文字に目を凝らす。名前、生きた年代、功績、生前の顔が彫り込まれていた。

 花束は石板の上に置く。腰を下ろして、生前の、年老いた顔を眺めた。

 初めて会った彼はまだ三十代。私は若い頃の姿しか知らない。私の死から四十年以上、彼は生きた。


「ヘンドリック先生は随分と長生きなさったみたいですね。しかも、特等席での埋葬だなんて。最期まで慕われていたのですね」


 彼は私の教育係だった。私の『脱小娘化』と『女王化』の最大の功労者と言えるかもしれない。かなり怖い人だったけれど。

 ただ、彼が私に授けてくれたものは、今の私を作っている。

 法律、経済、官房学、数学、天文学、神学、哲学、文学、弁論術。どれもが今の仕事に役立っている。ヘンドリック先生は今も私の『先生』ということだ。

 彼の名前を、ヘンドリック・マーシャルと言う。


「信じられないでしょうが、私、マリー=テレーズです。あなたの弟子です。随分とご無沙汰してしまいました。お元気でしたか? ……と言っても、私も先生も一旦は死んでいるけれど。あの頃からいつの間にか三百年も経つようです。不思議なことに、私はまたこの国に生まれ、大人になりました。今度こそ、前の分まで長生きしようと思います。先生も見守っていてくださいね」


 墓前でそうも言うこともないと思っていたが、いざ目の前にすると、語りたいことが溢れてくる。

 そういえば、昔も先生は私の愚痴や文句をよく聞いていた気がする。分不相応な地位につこうとする不安を誰かに吐き出さずにいられなかったのだ。


「先生に謝りたいことがあるんですよ。私の……臨終のとき。先生が私に立ち会おうとしてくださっていたことは、おぼろげながら覚えています。でも、遠方にいた先生が到着するまで待てませんでした。ごめんね」


 先生がもしここにいたらこんな感じだろうか。

 『今更そんなことを言っても遅いですよ。前々から感じていますが、「ごめんね」と言われれば全部許されるとでも思っていますか。そもそも病は人が逃れられぬもの。簡単に謝るのは、女王の取るべき態度ではありません。一度人生をやり直してきなさい』

 ぶちぶちと長ったらしく説教をし、最後には許してくれる。前世で数少ない甘えられる大人だった。それにふさわしい振る舞いと雰囲気を持った人だった。


 よいしょ、と立ち上がる。

 三百年前。同じ土地に先生が生きてここに立っていただろう。

 三百年後。生まれ変わった私がここにいる。

 たとえ、彼が同じように生まれ変わったとしても、もう二度と会わないだろう。すでにその距離は地上から眺める星ほどに遠い。その距離は、時間でもある。隔たった時間に想いを馳せる。


 カチ。

 音がした。肩が跳ね上がり、反射的に振り返る。


 鉄扉は閉じたままだ。誰もいない。

 おかしい。小石が転がった気がしたのに。





 イーズの街を散策した後、早めの夕食を食べることにした。ノスタルジックな木造建築が素敵な店を見つけ、中に入る。席は半分ほど埋まっていた。


 通りに面した一階の窓際、二人がけの席を案内される。椅子やテーブルもアンティーク家具で雰囲気がいい。


 店のオーナーという男性が注文を取りに来た。初めてイーズに来たと言えば、おすすめ料理を教えてくれる。


「なら、それでお願いします」


 一人で待っている間、頬杖をつきながら外の夕焼けを眺める。石畳の道にはひっきりなしに人が通っていく。若者が多いような気がしたが、やはりここが大学の町だからだろう。


「あー、すんません」

「はい?」


 声をかけられて、顔の向きを変えると、目の前に人が立っている。派手に自己主張する青い髪に、リング状をした銀色のピアスが鈍く光る。シンポジウムで発表していた青年だった。

 人懐っこい顔でこう告げる。


「俺、レオ・サーチマンって言います。ちょっとお話いいっすか?」

「どうぞ」


 促すと、彼は正面の席についた。慣れた様子で店員を呼ぶと、私と同じメニューを注文した。しばらく居座る気だろうか。

 それにしても、私に何の用だろう?


「ここ、うちの大学の学生にも有名なんす。イーズでここに来ればまず間違いない名店です」

「それは知らなかった。運がよかったみたい」

「イーズには何回ぐらい来ました?」

「今回がはじめてなの」


 へえ、と相槌をした彼はわずかに姿勢を正した。


「今日のシンポジウムにいたっすよね。うちの先生と話してた」

「そうですよ。あの先生はよく私の職場に調査にいらっしゃるので」

「そうっすか。だったら……」


 言葉を躊躇うように私の方を見て、口をもごもごとさせ、右耳のピアスをいじる。


「あの、変なこと聞くようっすけど、いいっすか?」


 普段は軽薄そうな青年がまた真面目な面持ちになる。何だろうと思いながら頷く。


「俺、今日昼間に見たんすけど。礼拝堂で」

「礼拝堂? ええ、まあ、行きましたが」


 礼拝堂での言葉を聞かれたのかもしれない、とうっすら感じる。客観的に見れば、奇妙なことを喋る女に見えただろう。


「……青いヒヤシンス」

「え?」

「どうして、青いヒヤシンスを置いていったんすか?」

「青いヒヤシンス……? 私、何かまずいことをしてしまいましたか?」

「ええ、いや。そういうわけでもないっすけど。どうしても気になっちゃって。まあ、きっと、全部俺の勘違いで、偶然なんだと納得したいだけなんすけど」


 俯きがちだった彼の目がちらっとこちらを捉える。


「うちの家は少し特殊で。なんか遺言らしくて、代々、あの礼拝堂に青いヒヤシンスを備えることになっているんすよ。墓の人が好きな花で。でも、そんなこと、他の人が知るわけないんす。別に内緒にしているわけでもなくて、ごく自然にそうなっているんすけど。それで今日も、シンポジウムを早く抜けて、墓参りに行ってきたんす。そしたら先にあなたがいて、青いヒヤシンスを置いていった。おかしいっすよね。……つまり」


 チャリリ、と来店を告げるドアベルが鳴る。「いらっしゃい」という声がその場に響くが、緊張を漂わせた彼には届いていないのかもしれなかった。


 ――あなた、何者っすか。

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